第二章:幽霊騒ぎと殺しの刃
「きのうの夕方、石町の時の鐘が鳴る頃でした……」
お竹は、まるで怖いものでも見るかのように辺りを見回し、声を潜めて語り始めた。
店の格子戸ががらりと開き、お菊さんがすーっと入ってきたのだという。他の女中たちは台所で夕食の支度をしていたため、そこにいたのはお竹一人だけだった。
「『お菊さん!』って声をかけたら、こっちをちらっと見ただけで、黙って奥の居間の方へ……。そしたら奥で、おかみさんの『おや、お菊かい』って声がして。でも、すぐにおかみさんが出てきて、『お菊はどこだい』って聞くんです」
お竹と女将が家中を探し回ったが、お菊さんの姿は影も形もなかった。店の者も、台所の女中も、誰もお菊さんが出入りするのを見ていない。庭の木戸は内側からしっかり閉まっている。
「でもね、半七さん。もっと不思議なことがあるんでさ。お菊さんが入ってきたはずの格子の内に、あの子の下駄が、ぽつんと脱ぎ捨てられたまま……。今度は裸足で出ていったとでも言うんでしょうか……」
「その時のお菊さんは、どんな格好だった?」
「おととい家を出た時と、寸分違わぬ姿でした。黄八丈の着物に、藤色の縮緬頭巾をかぶって……」
黄八丈の着物に緋色の帯。いかにも下町の町娘らしい、可愛らしい姿を半七は思い浮かべた。
だが、話がどうにも腑に落ちない。生きている人間が、下駄だけを残して忽然と消えるなどということがあるだろうか。まるで、魂だけが家に迷い帰ってきたかのようだ。
半七は、お竹にもう一度、昨日の浅草での一件を詳しく問いただした。観念したお竹は、ついに全てを白状した。
お菊と番頭の清次郎は、やはり恋仲だった。昨日の観音詣りも、実は清次郎との逢い引きが目的で、お竹はその手引きをしていたのだ。二人は奥山の茶屋で会い、お竹は一時間ほど時間を潰してから戻った。だが、その時にはもう二人の姿はなく、茶屋の女によれば、清次郎が先に帰り、その後でお菊さんが出て行ったという。
「清さんもあっしも、内々でどんなに心配したか……。ゆうべ帰ってきたと喜んだのも束の間で……一体どうなっちまったんだか、さっぱり分かりやせん」
お竹は、おろおろと泣きじゃくるばかりだった。
半七は神田に戻り、親分の吉五郎にこの一件を報告した。
「その番頭が怪しいな。ひっぱたいて吐かせてみろ」
吉五郎はそう言ったが、半七にはどうしてもあの正直者の清次郎が、悪事を働く人間だとは思えなかった。
その翌朝のことだ。
半七が三度、菊村の店へ向かうと、店の前が妙に騒がしい。大勢の野次馬が、ひそひそと何かを囁きながら、不安そうな顔で店の中を覗き込んでいる。
嫌な予感がした。裏へ回って格子戸を開けると、中から泣き顔のお竹が飛び出してきた。
「半七さん……!」
「おい、何があった!」
「おかみさんが……おかみさんが、殺されて……!」
お竹は、その場に崩れて泣き出した。
女将のお寅は、昨夜、何者かに刺し殺されたのだという。そして、下手人は……娘のお菊だというのだ。
お竹も、他の女中二人も、確かにお菊の姿を見たと証言している。
昨夜もまた、灯ともし頃に、お菊さんは現れた。どこから入ってきたのかは分からない。奥でお寅が「おや、お菊……」と叫んだかと思うと、それが悲鳴に変わった。女中たちが駆けつけると、縁側からすっと抜け出していく、黄八丈に藤色頭巾の後ろ姿が見えた。
お寅は左の乳の下を深く刺され、大勢が駆けつけた時には、もう虫の息だったという。
「お菊が……お菊が……」
それが、お寅の最後の言葉だった。
事件は、単なる娘の家出から、親殺しという大罪へと発展した。半七も、さすがにことの重大さに顔がこわばる。
「こういう時こそ、腕の見せ所だ」
若い半七は、自らを奮い立たせた。
現場には、すでに瀬戸物町を縄張りとする古顔の岡っ引き、源太郎という男が入っていた。
(あいつの鼻を明かして、親分に手柄を立てさせてやりてえ)
半七の胸に、強い競争心が燃え上がった。
半七は大番頭の重蔵に案内され、お寅が殺された八畳の居間へ通された。血の跡が生々しい畳を避け、彼は縁側から庭を検分する。
北向きの小さな庭は、綺麗に手入れが行き届いていた。高い塀には忍び返しが巡らされ、乗り越えるのは容易ではなさそうだ。
「ゆうべもお役人衆がご覧になりましたが、庭口から忍び込んだ形跡はない、と……。ですが、出る時はこの庭口からに相違ない。なのに、木戸の錠は内から固く下りたまま……さっぱり分かりやせん」
重蔵は、途方に暮れた顔で首を振った。
(おかしい……)
半七は、庭の隅々まで注意深く見て回った。町娘のお菊に、この高い塀を乗り越えるような芸当ができるとは思えない。曲者は、よほどの手練れのはずだ。なのに、三人の女中たちは、確かにお菊の姿を見たという。
(どこかに、何か見落としがある……)
その時、半七の目が、庭の東の隅に立つ、古い石燈籠に釘付けになった。
苔むした石灯籠だった。
「この石燈籠、近頃いじりやしたかい?」
半七が何気なく尋ねると、重蔵は首を横に振った。
「いえ、昔から誰も手をつけやせん。見事に苔が生えてるんで、おかみさんからも、滅多に触るなと固く言われておりやした」
その、滅多に触ることのないはずの石燈籠。その苔むした笠の上に、半七は、人のものらしき、小さな爪先の跡が微かに残っているのを見つけ出したのだ。




