閑話
夏希が自宅に帰ったのち、狐耳の少女は、夏希が使っていた布団を片付けようとしていた。
「……。」
敷布団の上にぺたりと座りながら、手に持った掛け布団をじいっと見つめる。
「……ちょっとだけ……ごめんね。」
そう小声でつぶやくと、彼女は布団を肩から羽織り、前の余った部分にそっと顔を近づけた。
「……なつ君の匂いがする。」
彼女は、嬉しそうにふわりと微笑んだ。
常人には感じられないほどのかすかな香りだが、狐だからか、普通の人よりも鼻が利くらしい。身体中が夏希の香りに包まれていることを感じた彼女は恍惚とした表情を浮かべ、尻尾は布団の中でふわふわと揺れていた。
ただ、しばらくすると、彼女は布団にくるまったまま、しくしくと泣き出してしまった。
「……そうだよね、なつ君……私のこと……やっぱり、覚えてないんだ……。」
夏希は、かつての彼女との記憶を失っている。
その鋭利な現実が、彼女の胸に深く突き刺さる。
少女が泣き疲れた頃には、布団はぐしょぐしょに濡れてしまっていた。
*****
かつて、彼女はどこにでもいる普通の人間の少女だった。
いや、本当に普通だったかどうかは分からない。
彼女は引っ込み思案で気が弱く、友達の輪にも入れない、臆病な子だった。
わがまま1つすら言い出せず、いつも教室の隅で縮こまっていた……そんな弱い子だった。
そんな彼女でも、たった1人だけ、かけがえのない友達になってくれた少年がいた。
晴れた日は彼と一緒に公園の遊具で遊び、雨の日はそれぞれの家で塗り絵やゲームをして遊んだ。
彼女が他の子供にからかわれて泣いていたときは、彼が優しく慰めてくれた。彼に優しく頭をなでてもらうのが、彼女はとても好きだった。
いつしか、彼女は意識しないうちに、少年に対して特別な感情を抱くようになっていた。
だからこそ、彼がイギリスに引っ越すと知ったときは、ひどくショックを受けた。
行ってほしくなかった。
1人ぼっちになりたくなかった。
ずっとそばにいてほしかった。
自分にはどうしようもないことだとわかっていた。
彼自身も望んでいたことではないと、うすうすわかっていた。
『……もういいっ! なつくんのことなんて、大っきらい!』
でも、気が付いた時には、絶対に本意ではない、心無い言葉が、自分の口を突いて出ていた。
そのまま、勢いで学校を飛び出してしまった彼女だったが、通学路をとぼとぼと歩いているうちに冷静になると、強い後悔の念が湧き上がってきた。
どうして、あんなことを言ってしまったんだろう。
早く謝らないといけない。
彼女は、元来た道を急いで引き返そうとした。
その直後、彼女は信号を無視した車に撥ねられた。
ほぼ即死だった。
気が付いた時には、彼女は病院の霊安室にいた。そこで見たのは、自分の亡骸にすがり、涙を流す両親と、呆然とした表情で立ちすくむ夏希とその父親の姿だった。
どんなに声をかけても、誰もこちらに反応しようとしない。
彼女は、自分が幽霊になってしまったのだと悟った。
ほどなく葬儀が行われた。彼女は、自分の亡骸が荼毘に付されて、小さな骨壺に収められるのを隅から見届けた。
両親の暗い表情を見るのが辛かった。
祖父母の悲しげな顔が身に応えた。
先生やクラスメイトの落ち込んだ顔が直視できなかった。
『ぜんぶ……ぼくのせい……?』
少年の……憔悴しきった顔がトラウマになった。
自分の大切な人たちを人たちを悲しませてしまった。
一番大切な友達に謝れないまま、永遠の別れが来てしまった。
(ちがうの……ぜんぶわたしがわるいの……ごめんね、なつくん……ごめんね、みんな……。)
葬儀の後、自分の部屋に閉じこもって泣き続けていた少年のそばで、少女も泣きながら誰にも聞こえない謝罪をずっと繰り返していた。この声が決して彼には届かないことはわかっていた。でも、言わずにはいられなかった。
だが、ある日……。
『……夏希、起きてしまったことは、もうどうすることもできないの。だから、ふゆちゃんのことを考えるのはもうよしなさい。』
『……母さん。誰、それ。』
少年は、突然少女にまつわる記憶を失った。
そばにいた少女の視界は、その言葉が発された瞬間真っ暗になった。
少年の父が勤める大学病院の精神科医は、精神的に大きなショックが加えられたことによる記憶喪失だと結論づけた。そして、少年に負担をかけないように、無理に記憶を思い出させない方がよいと、両親に提言した。
少年は氷のような無表情で何もしゃべらぬまま、一家でそのままイギリスへと旅立った。
……これはきっと、全部自分に対する罰なのだ。
わがままなんて今まで1度も言ったことなかったくせに、わがままを言って困らせてしまった。
大好きな人に、言ってはいけないひどい言葉を投げかけてしまった。
少女は、自分のことが嫌いになった。
*****
今の狐の姿になった時のことは、覚えていない。
亡くなってから1か月半ほど、少女の誕生日だった日が近づいていたころ、気が付くとこんな姿になっていた。
さらに、どういうわけか稲荷神に仕え、神様として修業することになっていた。
自分みたいな駄目で悪い子は、神様には向いていないと思っていたが、なぜか稲荷神の期待は厚く、やるしかなかった。
その9年後には、自らの生まれ育った街の神社に、稲荷神の名代として派遣された。
そして、そこで日本に帰国し、高校生となっていた少年に再会した。
違う世界の住人となってしまった自分は、二度と彼には会えないと思っていた。
だから、初恋の少年に再び出会えたことは、嬉しかった。
でも、素直に喜ぶことはできなかった。
あの日、彼を傷つけ、長い苦しみを与えてしまった自分は、彼にもう一度会う資格なんて無いと思っていた。
それに、彼は自分の記憶を失ったままだった。
正確には、事故の時以外の記憶を、彼女の顔と声と人となりごと、すべて失っていた。
辛かった。
でも、仕方のないことだった。
彼が自分の記憶を思い出してしまったら、彼は罪の意識に押し潰され、壊れてしまうかもしれない。
だから、私は彼のそばにいるべきじゃない。
せめて遠い場所から、彼の幸せを願うことが、自分にできるせめてもの罪滅ぼしであり、彼を守るためにもそうしなければいけない。
9年ぶりに再会してなお、彼女は頑なにそう思い込もうとしていた。
9年間のその思い込みが、彼女の心を、すでに傷だらけでぼろぼろにしてしまっていたとも気づかずに。
『周りの幸せを願うなら、まずはあなたが幸せになりなさい。』
少女を神社に送り出すとき、主がかけた言葉を思い出す。
「……私……もう一度だけ……なつ君と、一緒にいても……いいのかな?」
あの日以来、二度とわがままは言わないと心に誓ったつもりだった。
だから、彼女は心の中で、誓いを破ってしまうことを謝罪する。
自分の正体は明かせない。
でも、叶うなら、彼ともう一度だけ縁を結びたい。
いつか、彼に過去の過ちを詫びるために。
いつか、彼に気持ちを伝えるために。
少女は、静かに祈りを捧げた。