中編
『……どうして? なんでイギリスにいっちゃうの?』
『……とうさんがべんきょうしたいんだって。かあさんも、かぞくでサポートしたいっていうし、だから、ぼくもいっしょにいかないと……。』
『やだよ……もう(雑音)とあえなくなっちゃう……。』
『それでも、ぼくたちはともだちだよ。手がみもたくさんおくるからさ。』
『いやだっ! (雑音)がいなくなったら、わたしひとりになっちゃうっ! ずっといっしょにいてくれるって、やくそくしたのにっ!』
『っ……しょうがないだろ!? こればっかりはぼくだけでのことじゃどうにもならないんだよ! いいかげんにしろよ、このわからずやっ……!?』
『……もういいっ! (雑音)のことなんて
大っきらい!』
*****
夏希は目を覚ましたとき、脳裏にはまだ小学1年の頃の悪夢がこびりついていた。
しばらくはあまりの寝覚めの悪さに負の感情に支配されていたが、時間が経つにつれて徐々に脳は覚醒していき、自身の現状に注意が向き始めた。
「……。」
夏希は、どこかの建物の中で布団の中に寝かされているようだった。ベッドではなさそうだ。
額には湿った布切れが載せてあった。誰かが看病してくれたのかもしれない。
でも、天井はどう見ても病院のものではないし、夏希の自宅のような新興住宅地の現代風のものでもない。築何百年もありそうな、伝統的な和風建築のようであった。
……そんな場所、平成に開発されたこの界隈にあっただろうか。
いや、あの神社の近くは割と古い建物も多いから、もしかしたら誰かの手でそこに担ぎ込まれたか……でも誰に?
「……?」
ふと、腹のあたりに掛け布団のものとは別の重みがあるのに気が付いた。
何か身体の上に乗っているのだろうか。夏希は上体を何とか動かして覗き込もうとした。
「……すう……すう……。」
腹の上に乗っかっていたものの正体を見て、彼は固まった。
巫女装束に身を包み、雪のように白い髪を腰まで伸ばした女性が、彼の身体を枕にして、うつぶせになって眠っていたからである。
*****
夏希は戸惑った。
どうやらこの女性が夏希を介抱してくれたようだが、その姿があまりにも現実離れしていたからだ。
見たときは一瞬、老齢の御婦人かと思ったのだが、それにしては背格好があまりにも若く見えたし、白髪にも若々しい艶がある。
ただ、それ以上に目を惹いたのは、彼女の頭から生えた1対の三角形をした「白い獣の耳」みたいなものと、腰のあたりから生えたふさふさの「白い尻尾」みたいなものである。
……コスプレ?
なぜ彼女はハロウィンの渋谷にいそうなコスプレをして看病をしているのだろうか。
「う……ん……。」
彼女が少し頭を動かしたことで、それまで見えなかった顔が見えた。
やはりどういうわけか若いらしく、見た目は限りなく同年代に見える。ただ、その見た目が普通ではなかった。
白くて長いまつげ。
色が薄くてみずみずしい肌。
あどけなさを残しつつも、目鼻立ちの整った顔立ち。
もしも芸能界に出れば、きっと瞬く間にトップスターになっているだろう。
そう感じさせるだけの雰囲気をまとった美少女であった。
女性が苦手な夏希でさえ、気が付けば彼女に見とれていたほどだ。
ただ……夏希は同時に、彼女とどこかで会っていたような気がした。
美少女コスプレイヤーの知り合いなんていないはずなのに、なぜ懐かしさを感じるのだろうか。
「うう……。」
彼女は目を開けた。
焦点が合わないらしく、黒い瞳をとろんと潤ませていた彼女だったが、夏希と目が合った瞬間、はっと覚醒し、尻尾がピンと逆立った。
そして次の瞬間、目から大粒の涙を流し始めた。
「……なつ君……なつ君!!」
「っ!?」
彼女は泣きながら急に抱き着いてきた。ただ、夏希は反射的に彼女を自分から引き離した。
「ひゃっ!? あ……ごめん……思わず……。」
彼女は、少ししょんぼりしたような表情を見せた。さっきまで元気だった尻尾も力なく垂れ下がり、耳もぺたりとしなってしまった。
……どうなっているんだ、このコスプレ? あまりに作りが精巧過ぎないか?
夏希が訝りながら耳と尻尾と見つめていると、彼女はその視線に気が付いたのか、慌てて両手で隠そうとした。尻尾は到底隠しきれる大きさではなかったが。
「……やっぱり変かな、これ?」
顔を赤くして、上目遣いをしながら小さな声でそう聞いてきた。
夏希が返答に困っていると、続けてこんなことを言い出した。
「……私ね、お稲荷様にお仕えする、神様見習いの狐なんだ。」
……本当に何を言い出すんだこの不思議ちゃんは。
「だ、騙して悪いことをしようなんてしないよ。ただ、神社の境内で倒れていたなつ君を、神様の世界まで連れてきて看病してただけなの……。」
彼女は真っ赤な顔であわあわしながら弁解する。もう少しだけ何を言っているのか冷静に理解する余裕が夏希にあれば、もしかしたら彼女の健気さに多少胸を動かされていたかもしれない。
「あ、お腹空いたよね? 待ってて、何か食べられるもの持ってくるから。」
ただ、夏希がすべてを消化しきる前に、彼女は障子を開けて、どこかへ行ってしまった。
……あまりのことで全く何もわからない。
第一、何故彼女は自分の名前を知っているどころか、それをすっ飛ばしてあだ名で呼んできたのだろうか。
*****
「お待たせ。」
十数分後、彼女は小さな土鍋を持って部屋に戻ってきた。
「体調が悪いときは、消化に良いお粥が一番だよ。梅干を入れたから、口の中がさっぱりすると思う……梅干、大丈夫だったかな?」
手際よくお椀に粥をよそうと、木製の匙と一緒に、両手で夏希に差し出した。
「あったかいうちにどうぞ。」
「……。」
夏希は少しためらった。
どうして自分にここまでよくしてくれるのかわからないし、悪い人ではないかもしれないが、それでも正体の未だにわからない人からこのお椀をもらってもいいのだろうか。
だが、ためらっているうちに彼女の目に涙が溜まり始めたのを見て、夏希は慌ててお椀を受け取り、恐る恐る粥を掬った匙を口に運んだ。
……美味しい。
とろとろに煮込まれた米に梅干を加えただけの素朴な粥だったが、それがかえって、優しい味わいを出していた。
彼女は、粥を少しずつ食べ進め始めた夏希の様子を見て少しほっとしたような表情を浮かべた。だが、それでも眼には何故か少しだけ寂しさの色が見えた。
「……そうだ。なつ君、それ食べたら、今日は早く寝て休んだ方がいいと思う。だからさ……
……うち、泊っていかない?」
「!?」
展開が早すぎるのではないだろうか。