なお名もなく
森は静かだった。
木々は身じろぎもせず、風は葉を撫でることを忘れていた。息を潜めたようなその空気の中で、少年は一人、獣の気配を追っていた。
名はリオ。十五歳。村の狩人見習い。
だが、ただの平民の少年ではない。かつて黒きドラゴンにこの村を焼かれ、大切なものを奪われた“生き残り”だった。
腰に帯びるは、風の魔力を宿す細剣《颶風の葉裂》。背には、火の魔石を組み込んだ弓――村の鍛冶師が、かつて祖父のために仕立てた旧式の狩猟具だ。
「……いた」
息を殺し、リオは茂みの奥へと視線を向けた。
そこにいたのは、中型魔獣《獣咬獅》――体高は人の背丈を越え、分厚い毛並みと鉄のような爪を持つ、狡猾な捕食者だ。
森の家畜が消えるようになって数日。それがこいつの仕業だと見て、リオは狩りに出たのだった。
だが、これは単なる“仕事”ではない。
これは――試練だ。自分の力で、生きて戦えるかどうか。その証明。
リオはそっと矢をつがえ、魔石に意志を通わせた。
火の魔力が、矢に灯る。燃えるような熱が、指先に伝わってくる。
「狙いは……肩の下、皮膚の薄い部分」
放たれた矢は、風を裂き、狙い通り魔獣の肩を穿つ。
獣咬獅が咆哮を上げて暴れ出す。木々が軋み、地が揺れる。
リオは矢を捨て、細剣を抜いた。
風の魔力が刀身に宿り、白銀の刃が霞むように揺れる。
「来い」
獣が跳びかかる。リオは後ろへ跳ね、風の力で着地の衝撃を殺す。
斜めに踏み込み、脚を狙って一閃。
剣は毛並みに隠れた関節の隙間を捉え、肉を裂いた。
「効いたな」
だが、魔獣の反撃も鋭い。巨体に似合わぬ素早さで爪が迫り、リオの頬をかすめた。血が滲む。痛みに眉を寄せつつ、彼は笑った。
「……やっぱり、怖いな。でも、負けるわけにはいかない。」
恐怖はある。それでも逃げない。
あの日、家が焼け、家族の叫びが風に消えた時、自分は何もできなかった。
ただ震えて、泣いて、逃げただけだった。
だが今は違う。
風と火。祖父の形見の武具。
己の腕と、心に刻んだ記憶がある。
リオは風の魔力を極限まで練り上げ、一気に踏み込んだ。
細剣が唸り、獣の胸を裂く――
咆哮が上がり、やがて森に静寂が戻った。
リオは肩で息をしながら、倒れた獣を見下ろした。
「これが……狩り」
まだ拙い。だが、確かな一歩だった。
彼は空を見上げる。木々の隙間から、朱に染まった空がのぞいていた。
――あの日の空も、こんな色だった。
黒きドラゴン。村を焼き、すべてを奪ったあの影。
あれを倒す日が、いつか来るのだろうか。
いや、それを迎えるために、今日の戦いがあるのだ。
リオは森を背に歩き出した。
自分にはイェーガーになどなれない。
貴族の生まれではないから。
けれど、レンジャーとしてなら――
「俺は俺のやり方で、やるさ。あいつに届くその日まで。」
夕陽が彼の背を照らし、森は再び、静けさに包まれていた。
この物語は彼が、なお名もなく、なお抗いながら、ついに黒き竜に届くまでの話である。