プロローグ
読んでくれてありがとう
私は佐々木勇気 四十五歳の会社員だ
中堅の商社に勤めており 営業部で課長という立場にある
仕事は嫌いではない
むしろ誰よりも結果にこだわり 責任ある仕事を楽しんでいるほうだろう
営業成績は常に上位 上司からの信頼も厚く 部下たちからの相談も多い
「佐々木課長 この案件 どう動けばいいでしょうか」
若手の田中が資料を持って私のデスクに来る
「まずは相手の課題をしっかり掴むことだ それができれば提案は自ずと見えてくる」
そう答えると 彼は何度もうなずきながらメモを取っていた
私は部下に指示を出すとき 上から目線にならないように心がけている
必要なのは命令ではなく導きだ
誰かの成長を手助けできるのなら それは自分にとっても大きな意味がある
だが、
日々の仕事が充実していればしているほど 心のどこかにぽっかりと穴が空くのを感じていた
私は子供の頃から ずっと憧れていたのだ
魔法が存在する世界に
現実には存在しない けれど夢見ずにはいられなかった
空を駆け 闇を操り ひとつの詠唱で敵を薙ぎ払う…そんな最強の魔法使いに
「漆黒より現れし刃よ 我が呼び声に応えよ……」
そんな言葉を心の中で何度も呟いた
誰にも知られぬまま 私は密かに いつか異世界に転生し 最強の力を手にすることを夢見ていた
もちろん現実にはあり得ない
そう分かっているのに 諦めきれなかった
日常を生きながらも 私はいつも どこか遠い世界を見つめていたのだ
この世界では私は “できる大人” でいなければならない
だからこそ 憧れは心の奥底に隠していた
そんなある夜のことだった
私はいつものように遅くまで働き 会社を出た
夜風が頬に当たり コートの襟を立てて歩いていた
そして ふと見上げた夜空に 星がひときわ強く瞬いていた
私は思った
―もし願いがひとつ叶うなら 異世界に行きたい
そんなことを考えながら 歩いていたときだった
前方から 子供の叫び声とものすごい音が聞こえた
私は 即座に走り出した
視線を向けた先には、交差点の中央に立ち尽くす子供と、迫る一台の車があった
判断は一瞬だった
私は考えるより先に、足を動かしていた
「危ない!」
間に合えと願いながら私は持っていたバックを投げ出し全力で走った
子供は目を見開いたまま、動けずにいる
私はその小さな体を抱きかかえ、力の限り押し飛ばした
次の瞬間
世界が白くはじけた
全身に激しい衝撃
骨がきしむ音と共に、意識が遠のいていく
倒れたアスファルトの感触が、妙に冷たかった
「……助けられた、か」
子供は無事だ
それだけで、十分だった
目を閉じると、不思議と怖くはなかった
むしろ穏やかな気持ちが胸に広がっていた
ああ、こんな最期も 悪くない
それでも ほんの少しだけ
心残りがあった
―私は、魔法を使ってみたかった
現実の私は、ただの中年会社員だったが
心の奥底では、いつか異世界に行けるのではないかと夢見ていた
「……こんな時に 何を考えているんだろうな 私は」
声にならぬ微笑みを浮かべたとき
不意に、世界が反転した
意識の奥底に響く、鈍い振動
まるで何かが崩れ、組み替わっていくような音
視界が闇に包まれ、身体の輪郭がほどけていく
思考が、どこか遠くへ引きずられる
だが 不思議と不安はなかった
それはもしかしたら
かつて一度でも、本気で“願って”しまったからかもしれない
最強の魔法を手にしたい
異世界で、己の力を試したい
誰にも言えなかった 私の本心
その願いが、最期の瞬間に 小さな扉を開いたのだろうか
「……もしも生まれ変わることができるのなら」
「次は……魔法のある世界で、生きてみたい」
そう、心の中で静かに願ったそのとき―
世界は光に包まれた
風の音が心地よい
草の匂いが、私の鼻をくすぐる
目を覚ました私は、まず空を見上げた
深い蒼色をした、どこまでも澄んだ空
それは、あの現実の街では見たことのない、幻想的な世界の色だった
「……夢では ないのですね」
私はゆっくりと上半身を起こす
柔らかな草の上に寝ていたようで、体に痛みはない
驚くほど軽く、しなやかな感覚が全身に満ちている
そして、水面に映る自分の姿を見て――思わず息を呑んだ
「ほう……これはまた」
整った顔立ちに、渋さと落ち着きが加わった大人の風貌
それは現世で“イケおじ”などと冗談まじりに言われていた私の顔だ
だが、違うのは前髪の一房だけが、鮮やかな赤に染まっていたことだった
「前髪が……これはまた、ずいぶんと印象的ですね」
炎のように揺れる赤
不思議と違和感はありませんでした
私はそっと立ち上がり、あたりを見渡す
自然に包まれた静かな森、文明の気配はないが、空気に満ちた“力”のようなものが、肌に染み込むようだった
試すように、私は静かに右手を掲げた
心の中に、あの言葉が浮かんでくる
「漆黒の闇が我が内に満ち、永劫の焔が魂を焦がす
その名は碧落より堕ちし黒き焔、深淵より湧き出でて虚無を裂き、破滅の炎となれ我が意志を糧に、黒炎よ、今ここに顕現せよ——《カルミナ・ワァルト・インフェルノ》」
誰かに教わったわけでもない
ただ、長年 心の中で温めていた詠唱―私だけの“魔法の言葉”
その瞬間だった
「……っ!」
私の掌の上に、黒い炎がゆらめいた
漆黒の炎
ただそこにあるだけで、空気を震わせ、周囲の草を焦がし、熱を持ち始める
それは、まさしく魔法だった
私は目を見開き、しばし言葉を失う
そして
「……素晴らしい……素晴らしい……っ!」
喜びが、胸の奥からあふれ出した
口元には笑みが浮かび、声が自然と漏れる
「これが……魔法……! これは、私の……“力”なのですね!」
あまりに感動して、私は思わずその場でくるりと回ってしまった
まるで子供のように
かつて現実の世界で誰にも見せなかった本心が、今、遠慮なく表に出てきている
「ふふっ……いや、ははははっ!」
笑った
心の底から、嬉しくてたまらなかった
ああ、これだ
私は、こういう世界に憧れていた
詠唱が意味を持ち、力に変わり、世界が応えてくれるそんな場所に私は来れたのだ
「やはり、詠唱というものは、こうでなくてはなりませんね」
「…せっかくの異世界…名乗るべき名前も、変えるべきですね」
私の口から自然に出た名前――それは、昔、あの中学時代の黒歴史全開の厨二病ノリで自ら名乗っていたものだった
【クロウ・ナイトレイヴン】
「ふふ、少々気取ってはいますが……悪くない」
異世界で、新たな名と共に歩み始める
この力、そしてこの世界
すべてが私に与えられた“第二の人生”だ
さあ、次は……
私は一歩、森の奥へと踏み出した
ブクマなどしてくれたらありがたいです
急用で続きを書けなくなったので明後日ぐらいから投稿していきます