散歩
自宅から歩いて十五分。
この緑地公園の遊歩道は、私の日課の散歩コースだ。
ウッドチップを敷き詰めた小道は足に優しく、両側には背の高い木々が立ち並んでる。
整備された道筋には、休憩用のベンチが適度な間隔で置かれている。
この場所は、週末ともなれば家族連れで賑わう。
しかし、平日のこの時間には、私のように散歩する者をちらほらと見かける程度だった。
退職してから三か月。
入社して半世紀近くも同じ会社の社員として東奔西走した日々が、まるで遠い記憶のようだった。
今となっては、朝はゆっくりと目覚め、妻の作った朝食を楽しんでから、散歩に出かける。
これが今の私の日課となっていた。
そういえば、最近、見るニュースには、時折、市街地への熊の出没情報が流れていた。
山間部の農作物被害や、住宅地のゴミ置き場が荒らされるといった話題だ。
とはいえ、このような整備された道に熊が出るとは、とても思えなかった。
公園の入り口には管理事務所もあり、巡回も定期的に行われている。
「やっぱり散歩は気分がいいな。」
ベンチで一息つきながら、水筒のお茶を一口飲む。
朝の空気は清々しく、木々の間から差し込む光が心地よい。
後期高齢者となった自分には、このくらいの運動がちょうどいい。
かつては営業の荷物を持って駆け回っていたのに、今では緩やかな坂道でも息が上がる。
それでも、毎日の散歩を欠かさないのは、この時間が一日の張り合いになっているからだ。
遠くから、ふと、小枝の折れる音が耳に入った。
気のせいだろうか?
この時間帯、他の散歩客に出会うことは、ほとんどといってない。
何気なく振り返った瞬間、体が硬直した。
人の背丈を軽く超える巨体。
黒く分厚い毛並み。
鋭く私を見つめる目。
野生の威圧感が全身から溢れ出ている。
テレビで見た映像とは、まるで違う迫力だった。
一気に身体が震える。冷たい汗が背筋を伝う。
指先から血の気が引いていった。
逃げるしかない。
でも、体が思うように動かない。
長年の事務仕事で衰えた脚は、すでに震えている。
「落ち着け。ゆっくりと後ずさりするんだ。」
自分に言い聞かせるように呟く。
一歩、また一歩。
足元の落ち葉を踏む音が、異様に大きく感じられた。
熊は依然として私を見つめている。
距離にして十メートルほど。この距離なら、まだ。
その時だった。
低い唸り声と共に、熊が突進してきた。
地面を踏みしめる音が轟く。
「うわっ!」
咄嗟に横に跳んだ。
背中に鋭い痛み。
ジャケットが引き裂かれる音。一瞬の判断が、命を分けた。
転がるようにして立ち上がり、必死で走り出す。
背後から重い足音。
でも、もう息が続かない。
年齢を感じた。若かったら、もう少し。
脚が鉛のように重い。
しかし、背後の気配が近づいてくる。
重い足音と荒い息遣い。
もう、すぐそこまで。
振り返った瞬間、時間が止まったように感じた。
目の前に大きく開かれた口。
鋭く光る牙。
そして、ゆっくりと振り下ろされる前足。
爪が、まるでスローモーションのように、私に向かって降りてきていた。