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入浴

「今日も疲れたな…。」


 リビングのソファに深く腰掛けて、一人、呟く。


 午後十一時。


 今日も遅い帰宅だった。

 テーブルの上には、先ほど食べ終えたコンビニ弁当の残骸が残されていた。


 スマートフォンの画面に目を落とすと、未読メールが十五件。

 全て仕事関連のものだ。

 先月からずっと続いている案件。


 それに関連したやり取りを思い出し、疲労の波が、再び私を襲ってきた。


「この企画書が通るまでは…。」


 言葉を途中で止める。

 今の会社に転職して早1年。

 入社する前までは、こんな生活になるとは思ってもいなかった。


 テレビをつけると、深夜のニュース番組が始まっていた。

 画面の中のアナウンサーが、明日の天気予報を伝えている。その声が、遠くからぼんやりと聞こえてくるようだった。


 ソファの背もたれに頭を預け、天井を見上げる。

 部屋のエアコンが、風を送り続けている。


「はぁっ…。」


 思わず、ため息が出た。


 目を閉じる。すると、今日一日の出来事が走馬灯のように過ぎていった。


 朝のミーティング。昼食を取る間もなく、資料作り。夕方の予想外の修正依頼。

 スケジュール通りに物事が進まないことへの焦り。

 それらの全てが、重たい疲労となって、体の奥深くまで染みわたっていくようだった。


「お風呂でも入って、ゆっくりしてから寝よう…。」


 珍しく、私は自分に甘いことを言った。

 スマホに着信しているメールの確認は、明日の朝でもいいや、と思った。


 私は、ソファから身を起こした。

 そのまま、キッチンの壁面に設置している、給湯器のスイッチを入れるのだった。


 私が給湯器のボタンを押す。


 ピッ。


 電子音が鳴る。その温度は少しだけいつもよりも高めに設定した。


 そして、キッチンに立ち、冷蔵庫から麦茶を取り出した。

 そこにあるコップに麦茶を注ぐ。


 リビングへと戻り、麦茶で喉を潤しながら、スマホの目覚ましアラームをセットした。


 午前六時。


 たった六時間後には、また新しい一日が始まる。

 そのまま、スマホで時間を潰していると、給湯器の電子音が鳴った。


 さて、風呂か。

 手にしたスマホの画面を消す。

 今は、この疲れ切った体を癒すことだけを考えよう。嫌でも、明日からはまた新しい戦いが始まるのだ。


 近くにあった充電器に、スマホを繋いだ。

 そして、私は立ち上がる。 


 脱衣室。


 そこに入った私は、着ていたシャツのボタンを外していく。

 一つ、また一つと。

 シャツのボタンを外す手が、やけに重たい。

 今日は本当に疲れているんだな。


 肩のこりを確かめるように首を回すと、筋肉の凝りが痛みとなって返ってきた。

 ズボンを脱ぎ、下着も床に置く。

 裸となった私の身体が、その温度に慣れていくかのようだった。 


 そのまま、私は浴室のドアを開けた。

 モワッとした、蒸気が私を包み込む。


 真っ白だった。


 浴室全体が温かな空気に満ちている。


 けれども、すぐに私の目は慣れた。

 見れば、浴槽には、すでに湯が張られ始めていた。


 ああ、ゆっくりとできそうだ。


 浴槽の湯面に手を入れて温度を確認する。

 少し熱いかもしれない。


 …まあ、湯船に浸かれば、慣れるかな。


 私は、この温度で体の芯から温まりたかった。


 まずは足を入れる。

 熱さに顔をしかめながらも、少しずつ体を沈めていく。

 湯が腰まで達し、胸まで達し、そして肩まで。


「ふぅ…。」


 思わず声が漏れた。

 肩まで湯に浸かると、重たかった頭が急に軽くなったような気がする。

 同時に、目の前がほんの少しだけ暗くなった。


 立ち眩みかな?


 そう思いながらも、この心地よさに身を委ねてしまう。

 長時間のデスクワークで凝り固まった体が、熱い湯で緩んでいく。


 天井を見上げる視界が、少しずつぼやけてきた。


 瞼が重い。


 今日は本当に疲れているんだ。

 少しだけ…目を休めよう。


 意識が遠のく。


 何度か目を開けようとするが、体が言うことを聞かない。

 ハッとして目を開けた時、口元に湯の熱が触れる。


 何かがおかしい。


 体を起こそうとするが、手足から力が抜けている。

 いつの間にか、体が沈みかけていた。


 まずい、上がらないと!!!


 浴槽の縁を掴もうとする。


 手足が動かない。

 熱い湯に長く浸かりすぎて、血圧が下がっているのかもしれない。

 …いや、それとも酸欠なのか?


 分からない。


 しかし、体を起こそうとするが、湯船に浸かっている身体からは、ふらふらとした感覚しかない。

 湯船の中で力を入れれば入れるほど、逆に体が沈んでいくかのようだった。

 それに気がついたとき、恐怖が私を支配した。


 喉に湯が入り、咳き込んだ。


 その反動で、さらに体が沈む。

 もがけばもがくほど、さらに湯が口の中に入ってくる。パニックで呼吸が乱れ、状況は悪化していく。


 視界が霞み、意識が遠のいていく。

 なんとか声を出そうとしても、開いた口に湯が流れ込むだけだった。


 鼻まで湯に浸かった時、最後の力を振り絞って体を起こそうとした。

 でも、もう遅かった。


 肺に湯が入り込む感覚。喉が焼けるような痛み。体が痙攣するように震える。

 もう抵抗する力も残っていない。


 混濁する水の音。

 水中であることが分かる視界。

 その中で私の意識は真っ暗な闇へと落ちていった――。

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