キノコ
朝の空気が澄んでいた。
私は、裏山の散策を日課としていた。
妻に先立たれて三年。
一人暮らしの寂しさを紛らわすためにも、自然の中で過ごす時間は欠かせない。
山道を進むと、落ち葉の香りが鼻をくすぐる。
ゆっくりと足を運ぶ。
年齢を重ねた身体には、この緩やかな坂道でさえ、それなりの運動になる。
「おや、これは何だ?」
足元に目をやると、鮮やかな赤色が目に飛び込んできた。
見たこともないキノコだ。
傘の部分が鮮やかな赤色で、茎は白い。まるで宝石のように美しい。
私は料理が趣味だ。
自分で採った山菜やキノコで料理をするのが、孤独な食事の楽しみだった。
このキノコは食べられるのだろうか。
慎重に観察してみる。見たことのない種類だが、近くには毒キノコの警告を示す斑点もない。
「持ち帰って調べてみるか」
ビニール袋に数本のキノコを丁寧に収める。
帰る道で、どんな料理に合うだろうかと想像を膨らませる。
炒め物か、それとも汁物の具に。新しい食材を試す期待感が胸を満たす。
家に戻ると、まずはインターネットで調査だ。パソコンの前に座り、『赤いキノコ 食用』と検索する。
いくつかの画像が表示されるが、正確に一致するものはない。似たような種類はあるものの、微妙に色や形が異なる。
「うーん、これは何だろう」
植物図鑑のサイトもチェックしてみるが、決定的な情報は得られない。食用のキノコに似ているようにも見えた。
判断に迷いながらも、料理好きの好奇心が勝る。
「たぶん大丈夫だろう。」
自分を納得させるように呟く。
きっと、日本のキノコなら、危険なものは少ない。
それに少量だけなら、試してみれば分かるだろう。
夕方になり、夕食の準備を始める。
赤いキノコは水で軽く洗い、細かく刻む。香りは普通のキノコと変わらない。
これをフライパンで炒め、味噌汁の具として使うことにした。
一人分の食事を整え、テーブルにつく。
味噌汁からは香ばしい香りが立ち上る。
キノコの赤い色は煮ることで薄くなり、見た目は普通の味噌汁だ。
「いただきます。」
一口すすってみる。キノコの味は独特だが、悪くない。
少し苦みがあるものの、山の香りがする。
テレビをつけながら、ゆっくりと食事を楽しむ。
一人の食卓は寂しいが、自分で採ったキノコを料理する満足感がある。
食事を終え、食器を洗い終えたころ、違和感を覚え始めた。
胃の辺りがチクチクと痛む。
「消化が悪いのかな。」
胃薬を飲んで横になる。しかし、時間が経つにつれて症状は悪化していく。
鈍い痛みが急激な腹痛へと変わり、吐き気が込み上げてくる。
慌ててトイレに駆け込む。激しく嘔吐する。
汗が噴き出し、身体が熱くなる。
「まさか…あのキノコ?」
恐ろしい現実が頭をよぎる。
毒キノコを食べてしまったのかもしれない。救急車を呼ばなければ。
リビングに戻ろうとするが、足がもつれる。
めまいがひどく、まっすぐ歩けない。
壁を伝いながら、電話のある場所へ向かう。
しかし、数歩進んだところで力が抜け、床に崩れ落ちる。
腹部の痛みで体が丸まる。
「助けて…。」
声を絞り出すが、誰も聞いていない。
一人暮らしの家には、私の苦しむ声だけが虚しく響く。
スマートフォンを取ろうとするが、テーブルの上。今の私には手の届かない場所だ。
視界がぼやけ始める。冷や汗が全身を伝い落ちる。
毒が体内で広がっているのが分かる。
判断力も鈍ってきた。
息苦しさを感じながら、自分の軽率さを悔やむ。
もっと慎重に調べるべきだった。キノコなんて簡単に食べるべきではなかった。
「こんな…ことで…」
かすれた声が漏れる。
山歩きを楽しみ、自然の恵みを味わってきた人生。
その楽しみが、最期の原因になるとは。
部屋の隅に、朝採ってきたキノコの残りが見える。
あの鮮やかな赤色が、今は死の色に見える。
意識が混濁していく中、最後の思いは家族のことだった。
遠く離れた息子たち。もっと連絡を取っておけば良かった。
最後に会ったのはいつだったか。
そんなことを考える間もなく、深い眠りに誘われるように、私の意識は闇の中へと落ちていった。