笑い
今日も私は、疲れ切った体でアパートの一室に戻ってきていた。
築年数を重ねた二階建ての建物の一階。
六畳ほどのワンルームは、私の生活を如実に映し出していた。
キッチンとベッドが窮屈に並び、洗濯機の中には数日前から放置された洗濯物。
小さなキッチンのシンクには、使用済みのコップや食器が積まれており、テーブルの上には、コンビニで買ったおにぎりの包み紙が残されている。
独身の私にとって、この一人暮らしの部屋でやることは限られていた。
仕事から帰れば、適当な家事をこなすだけで深夜になる。
だから、毎晩、恒例の儀式のように、ベッドに寝転がってスマートフォンを手に取っていた。
仕事から解放された深夜の時間、動画を見ながら眠りにつくのが私の日課だった。
今夜も缶ビールを片手に、画面を眺めていた。アルコールが心地よく回り、ほろ酔い気分だった。
「あはっはっは…。」
私は動画サイトを見ていた。
なかなか、そのちゃんねるの動画は面白い。
どきついジョーク、ぎりぎりに攻めた表現。
次々に動画を消費していく。
そのうち、推奨動画の中に見慣れない投稿者の作品が目に入った。
サムネイルは料理をしているもので、タイトルも調理に挑戦といった、ごくごく普通のもの。
再生回数は結構なものだった。
「あはは、なんだこれ。」
何気なく再生ボタンを押す。
画面には、ただの料理動画が映し出された。
失敗する様子を撮影したものらしい。私は思わず声を上げて笑った。
「あははははは…。」
最初は普通の笑いだった。
やばいやばい。
動画の中の彼のリアクションが面白い。
スマートフォンを置いた。
画面を見なくても、さっきの状況を勝手に頭が再生し続ける。
顔の筋肉が勝手に動き続ける。額に汗が浮かんできた。
「はっ、はっ、はははは…」
笑いながら時計を見る。午前一時を回っている。
隣室は静かだ。
この時間、誰もが眠りについているはずなのに、私だけが笑い続けている。
止まらない。笑いが止まらない。
顔の筋肉が引きつり、額から背中まで汗が流れ落ちる。
とっくに、スマートフォンの画面は消えているのにもかかわらず、私の頭の中では先ほどの料理動画が延々と再生され続けていた。
フライパンを床に落とした瞬間。慌てふためく彼の表情。調理器具が次々と散乱していく様子。
「くっ…くはははは…」
もう笑うまいと歯を食いしばれば食いしばるほど、記憶の中の映像が鮮明になっていく。
火を消し忘れたパスタが燃え上がる場面。必死に水をかける姿。
それすらも喜劇のように思えてくる。
呼吸を整えようと深く息を吸い込もうとする。でも、思い出すたびに全身が震え、新しい酸素を取り込む前に笑いが込み上げてくる。
「はぁっ…はぁっ…あははは!」
胸が締め付けられる感覚が強まっていく。
笑いを堪えようと口を手で覆うが、その仕草さえも動画の中の彼を思い出させる。
調理の失敗を隠そうとした彼の慌てた表情。
視界が揺らめき始める。
酸素が足りない。
それなのに、頭の中では延々と映像が繰り返される。玉ねぎを切る時の不器用な手つき。包丁を落として驚く表情。
「やめ…やめなきゃ…くっ、あははは!」
必死に笑いを抑え込もうとすればするほど、反動で更に激しい笑いが襲ってくる。
まるで体が私の意思と関係なく、勝手に反応している。
床に倒れ込んだ私の視界が、少しずつ暗くなっていく。
最後に浮かんだのは、彼が真っ黒こげのフライパンを見て絶句する姿。
「あ…あは…は…。」
混濁しつつも、笑いに支配された私の意識は、完全な闇の中へと沈んでいった。