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脆落 ー日常の最期ー  作者: 速水静香


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アレルギー

 文学部の二年生になってから、毎日が目まぐるしく過ぎていく。

 講義のレポート、サークル活動、アルバイト。隙間なく詰まった予定の中で、それでも私はどこか充実感を覚えていた。


 そんな中、今日は久しぶりにサークル仲間と新しくオープンしたカフェに足を運んだ。


 窓際の席に腰を下ろし、店内を見回す。木の温もりが漂う内装、穏やかな音楽が耳に心地よい。

 壁には文学作品の一節が額に収められ、装飾として静かに存在感を放っている。


 本を愛する私にとって、この空間はまるで隠れ家のように落ち着ける場所だった。


 メニューを手に取り、目を細めて内容を読み込む。幼い頃からナッツアレルギーがあるため、外食の際はいつも慎重になる。

 原材料の欄を一字一句確認し、抜けがないか確かめるのが習慣だ。


「何にする?」


 向かいに座るサークル仲間が、明るい声で尋ねてくる。彼女はいつも軽やかな雰囲気で、私の少し神経質な性格とは対照的だ。


「うーん、パスタかな。このトマトソースのやつ、良さそう。」


 メニューを何度も見返し、ようやく決めた。

 アレルゲン表示にもナッツ類の記載はなかった。いつの頃か、私の日常には念には念を入れる癖がついていた。


 店員を呼び、注文前に確認する。


「すみません、このトマトパスタにナッツ類は入っていませんか?アレルギーがあるので。」


 若い店員は一瞬考え込むような表情を見せ、すぐに笑顔を浮かべた。


「トマトソースには入っていないと思いますが、念のため確認いたしますね。」


 彼はそう言うと、カウンターの奥へと消えた。

 私は席で待つ間、友人と軽い会話を交わす。最近読み始めた小説の話で自然と笑顔がこぼれる。


 数分後、店員が戻ってきた。


「確認しました。ナッツ類は一切使用していません。」


 その言葉にほっと息をつき、注文を確定する。

 友人たちとの会話はさらに弾み、久しぶりに心からリラックスできる時間が流れていく。


 やがて料理が運ばれてきた。

 トマトパスタは色鮮やかで、湯気が立ち上る様子が食欲をそそる。一口目を口に運ぶと、濃厚で奥深い味わいに感動が広がった。


「これ、めっちゃ美味しいね。」


 友人も自分の料理を頬張りながら頷く。テーブルを囲む空気は和やかで、笑い声が小さく響き合う。


 だが、数口食べ進めたところで、喉の奥にほのかな違和感が生まれた。

 かすかな痒みと、わずかに締め付けられるような感覚。

 あまりにも微妙な変化だったから、最初は気のせいだと思った。


 グラスに手を伸ばし、水を一口飲んで流し込む。


「どうしたの?」


 向かいの友人が、箸を止めて私の顔を覗き込む。

 彼女の声には心配の色が滲んでいる。


「いや、ちょっと喉が…なんでもない。」


 そう答えたものの、違和感は徐々に強まっていく。

 唇が少し重たくなるような感覚。

 息を吸うたびに、喉の奥が狭まるような圧迫感。


 これは、紛れもなくアレルギー反応の初期症状だ。


「やっぱり…まずい…。」


 言葉を絞り出すのも難しくなってきた。友人たちの顔が一瞬にして強張る。


「大丈夫?薬持ってるよね?」


 そうだ、エピペン。

 いつもバッグに入れているはずだ。

 震える手でバッグを探るが、指先が空を切る。


 あれ、ない。


 恐怖が胸を突き刺す。昨日、別のバッグに荷物を移したことを思い出した。

 エピペンはその中だ。


 顔が熱を持ち、呼吸が急激に苦しくなる。

 パニックが波のように押し寄せ、頭の中が真っ白になりそうだった。


「救急車…呼んで…。」


 かろうじてそれだけを口にし、テーブルにしがみつく。

 友人の一人が慌ててスマホを取り出し、緊急通報を始める。

 その声が、遠くで響いているようにしか聞こえない。


 店員が駆け寄ってくる。

 周囲がざわめきに包まれる。

 何か話しているが、言葉は私の耳を素通りする。意識を繋ぎ止めるだけで精一杯だ。


「ナッツ…入ってた…?」


 苦しみながら周囲に尋ねる。

 おそらく、調理場でナッツ類を取り扱っていたのだろう。

 もはや、目には見えない微量なアレルゲンの混入。

 それが私を苦しめている。


 もはや息ができない。

 胸が圧迫される感覚が強まり、目の前がぼやけ始める。


 友人たちの声が遠ざかる。


「救急車、すぐ来るよ!あと五分だって!」


 五分。

 その短い時間が、私の全てを決めるとは。

 物語の中で、人生の儚さを何度も読んできた。まさか自分がこんな形でそれを味わうなんて。


 遠くからサイレンの音が聞こえてくる。

 間に合うのか。両親の顔が浮かんだ。

 もしこれが私の最後なら、心配をかけることになってしまう。


 申し訳なさが胸を締め付けられる思いだった。


 視界が狭まり、音が遠くなる。

 友人の叫び声、店員の慌てた謝罪、周囲のざわめき。

 全てが一つのノイズとなって溶け合う。


 最後の力を振り絞り、バッグから手帳を取り出そうとした。

 そこには両親の連絡先が記されている。伝えたいことが山ほどあるのに。

 

 だが、手は思うように動かない。意識が急速に遠ざかっていく。

 読みかけの本、夢見た未来。全てが未完のままだ。


 店側も、どこでアーモンドが混入したのか、明確な答えを持たないだろう。


 誰も予期しなかった、日常の中の突然の終わりだった。


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