電動のこぎり
退職して二年目の朝。ガレージに改造した作業場で、私は新しい電動のこぎりを眺めていた。
四十年間のお勤めを終え、ようやく自分の時間を思う存分に使える日々が訪れているのだ。
「これで作業がはかどるぞ。」
つぶやきながら、箱から取り出した道具の感触を確かめる。
金属の冷たさと頑丈さが手に伝わってくる。
これまでの手動ののこぎりとは比べものにならない性能だと期待に胸が膨らんだ。
妻は買い物に出かけている。
静かな家の中で、私だけの時間を楽しめる。
「説明書は…あとで読むか。」
厚い冊子を横に置き、早速電源を入れる。
機械が唸るような音を立て、刃が回転し始めた。その音が作業場いっぱいに広がり、私の胸を高鳴らせる。
今作っているのは、来月五歳になる孫へのプレゼント。
引っ張ると動く木製の犬のおもちゃだ。
パーツはほぼ完成していて、あとは細かい調整と組み立てだけが残っている。
作業台には様々な木片が並んでいる。
桜の木を使った本体、ヒノキの車輪、楓の耳と尻尾。
すべて自然の木目を生かし、無害な塗料で仕上げる予定だ。
孫の笑顔を思い浮かべながら、最後の部分を切り出そうと材木に向かう。
「さて、ここを切り出せば…。」
電動のこぎりを手に持ち、材木にあてがう。
刃が木に触れた瞬間、思った以上の振動が手に伝わった。
強力だ。
慣れない感覚に少し戸惑いながらも、押し進める。
木材を固定するはずのクランプが緩んでいることに気づいたが、ちょっとした切断だから大丈夫だろうと判断した。
長年の経験から来る勘が、警告の声を押し殺した。
「もう少しで…。」
切り口が半分ほど進んだところで、予期せぬことが起きた。
材木が急に動き、のこぎりの刃が跳ね返った。
金属が肉を裂く感触と共に、大腿部に鋭い痛みが走る。
「ぐっ!」
思わず声を上げる。
のこぎりから手を離すと、それはまだ回転したまま床に落ちた。
電源ボタンを踏み、やっと停止させる。
見下ろすと、ズボンの生地を通して深い切り傷がついている。
血が一気に噴き出し、衣類を赤く染めていく。その量におののく。
「まずい…これは…。」
立ち上がろうとするが、足に力が入らない。
作業台につかまり、なんとか体を支える。
近くにあったタオルを傷口に押し当てるが、すぐに真っ赤に染まってしまう。
動脈を切ったのではないか。
そう思うと、急に頭がぼんやりしてきた。
冷や汗が額から噴き出し、視界がちらつく。
「電話…電話を…。」
携帯電話はどこだっただろう。
思い出そうとするが、頭が回らない。
そうだ、リビングのテーブルに置いたままだ。
ここから歩いて取りに行ける距離ではない。
床に座り込み、ベルトを外して止血帯を作ろうとする。
手が震えて思うように動かない。
心臓の鼓動が耳元で大きく響き、呼吸が浅くなる。
「落ち着け…落ち着くんだ…。」
自分に言い聞かせるが、パニックが広がる。
妻が戻ってくるのはいつだろう。
少なくともあと一時間はかかるはずだ。その時間を耐えられるだろうか。
目の前の作業台には、完成間近の木製おもちゃが置かれている。
孫の顔が脳裏に浮かぶ。プレゼントを渡す予定だった来月の誕生日に、自分は立ち会えるだろうか。
いや、それどころではない。今は助かることだけを考えなければ。
這いずって出口に向かおうとする。
血の跡が床に残り、腕にも足にも力が入らない。
わずか数メートルの距離が、果てしなく遠く感じられる。
「誰か…。」
声を張り上げるつもりが、かすれた声しか出ない。
外にも聞こえるはずがない。近所の人は皆、仕事に出かけているか、家の中にいるだろう。
体がどんどん冷たくなっていく。もう止血用のタオルを押さえる力さえ残っていない。
視界が狭まり、天井がぐるぐると回り始める。
まさか自分がこんな形で命を落とすとは。
四十年間も働いて、現場で一度も大きな事故に遭わなかったのに、退職後の自宅で…。
それは皮肉としか言いようがない。
妻の顔、子供たちの顔、そして孫の顔が次々に浮かんでは消えていく。
伝えたかったこと、やり残したことが山ほどある。
でももう力が残っていない。
意識が遠のく中、最後に見たのは作業台の上の木製おもちゃだった。
あと少しで完成するはずだった、孫への愛情の証。
それを見つめながら、私の意識は永遠の闇へと沈んでいった。




