鉄骨
アラームが鳴り響いて五回目。
もう無視できないと認めて、重たい瞼を開けた。
デジタル表示された数字が目に飛び込んでくる。
七時二十分。
「やばい、やばい……。」
慌てて布団から飛び出す。
会議は九時から。
いつもなら既に電車に乗っている時間だ。
昨晩の突発的な資料作成で三時過ぎまで起きていたことが、今になって仇となった。
洗面所の鏡に映る自分の顔は、想像以上に疲れていた。
目の下にクマができている。
時間がない。
最低限のケアだけして、急いでスーツに袖を通した。
いつもより乱れた身なりだが、これが限界だった。
キッチンでは朝食を取る余裕もなく、冷蔵庫からペットボトルの水を一本掴んで鞄に放り込む。
玄関で靴を履きながら、スマートフォンを確認する。
既に上司から二件のメッセージが入っていた。
「会議の資料、確認した?」
「今日は他部署の部長も参加するから、遅れないように。」
焦りが胸を締め付ける。
私が遅刻すれば、全体の評価にも関わってしまう。
外に出ると、小雨が降っていた。
傘を広げる間もなく、小走りで駅に向かう。
髪が湿って首筋にまとわりつく感触が不快だ。
通勤ラッシュのピークは過ぎていたが、それでも駅は人で溢れていた。
電車を待つ間、スマートフォンを取り出し、昨夜作成した資料に目を通す。
これで問題ないはずだ。
電車に乗り込み、揺られること二十分。
目的の駅に着くと、時計は八時四十分を指していた。
駅から会社までは通常なら徒歩十五分。
このままでは確実に遅刻する。
「近道を行こう。」
決断して、大規模再開発中の工事現場脇の歩道へと足を向ける。
普段はあまり使わない道だ。
雨で濡れた地面が靴の底をすべらせる。
小雨は次第に強くなり、髪からは雨粒が頬を伝い落ちる。
傘もささずに歩く私の姿は、さぞかし惨めに見えるだろう。
スマートフォンが振動する。上司からのメッセージだ。
「もう会社?」
歩きながら返信を打ち始める。
「すみません、あと五分で到着します。」
メッセージを送信しようと画面を見つめながら歩く。
頭上では何かが動いている気がした。
不意に人々の叫び声が聞こえる。
「危ない!」
「上!上!上!」
頭を上げる間もなく、奇妙な音が全身を揺さぶった。
金属がこすれる甲高い音。
続いて何かが空気を切り裂くような音。
その瞬間、世界が急に暗くなった。
巨大な影が私を覆い尽くす。上を見上げれば、灰色の塊が猛スピードで落下してくるのが見えた。
鉄骨。
体を動かそうとする神経への命令と、実際の動きとの間に、決定的な遅れがあった。
「あっ…。」
言葉にならない声を漏らす。
逃げなければ。でも足が動かない。
時間が急に遅くなったように思えた。
落ちてくる鉄骨。
雨粒が空中でゆっくりと落ちてくる様子まで見える気がした。
そして、突然の衝撃。全身を貫く激痛。
私の意識は真っ暗に染まった。
『すみません、あと五分で到着します。』
その約束は、永遠に果たせなくなった。




