自動車
降り始めた雪が、フロントガラスに小さな結晶となって積もっていく。
ここ数時間で、雪の量は予想以上に増えていた。
「やっぱりテント設営は無理かな…。」
独り言を口にしながら、私は車のダッシュボードに地図を広げる。
年に一度の休暇。家族との時間も大切だが、時には一人で自然と向き合う時間も必要だと思っていた。
日頃の営業の仕事からくる疲れを癒すためにも。
当初の計画では、この山間の湖畔でテントを張り、星空を眺める予定だった。
しかし、天気予報は外れ、雪は止む気配を見せない。
「仕方ない。今夜は車中泊だな。」
決断を下し、SUVの後部座席を倒してスペースを作る。
車中泊用の簡易マットレスと寝袋を広げ、小さな空間を寝床へと変える。
携帯電話を取り出し、妻にメッセージを送る。
『雪が降ってきたからテントは諦めた。明日の昼には帰るよ。子供たちにはお土産買っておいた。』
返信を確認すると、外の様子を見に出る。
雪は次第に強くなり、足跡はすぐに白く埋まっていく。
車のマフラー付近も薄く雪に覆われ始めていた。
「明日の運転が心配だな。」
車に戻り、暖房を入れる。外気温はマイナス三度。このままでは凍えてしまう。
エンジンをかけたまま過ごす決断をした。ガソリンは十分にある。メーターを見ると、満タンに近い量が残っている。
一晩中かけていても問題ないはずだ。
後部座席に移動し、寝袋に潜り込む。
ナイロン生地の触感が肌に心地良い。車の暖房の温かさとは違う、寝袋特有の包み込まれるような温もりを感じる。
小さなランタンの明かりだけが、車内を淡く照らしている。その光が天井に反射し、不思議な空間を演出する。
温かい缶コーヒーを飲みながら、持ってきた本を開く。紙の匂いがほのかに鼻をくすぐる。
好きな作家の最新作だ。
普段は時間がなくて読む暇もなかったが、今夜はたっぷりと時間がある。
時折、風が車体を揺らす。軋む音が不規則に鳴り、その度に車全体が微妙に揺れる。
窓の外は既に真っ白な世界に変わっていた。
山の静けさと、雪の降る音だけが聞こえる。雪の粒が窓にぶつかる柔らかな音は、不思議と心を落ち着かせる。
本を読み進めるうち、徐々に眠気が襲ってきた。一日の疲れが出てきたのだろう。
時間を確認する。まだ九時前。
少し早いが、明日は早めに出発したいので、もう眠ることにした。
どうせ朝は早く目が覚めるだろう。
ランタンを消し、寝袋にもぐりこむ。
エンジンの小さな振動が、かすかに伝わってくる。
目を閉じると、すぐに睡魔が押し寄せてきた。意識が遠のき始める中、外の雪が積もる音が子守唄のように感じられた。
ここは安全だ。そんな思いと共に、私は深い眠りに落ちていった。
何時間経ったのだろう。
突然、喉の渇きで目が覚めた。乾いた砂を飲み込んだかのような不快感。口の中がネバついている。頭が重く、こめかみが脈打っている。
脈拍が耳の中で反響するようだ。
水を飲もうと体を起こそうとするが、妙に力が入らない。手足が鉛のように重い。
寝袋から這い出すことすらままならない。
「どうした…んだ…。」
言葉が上手く出てこない。思考も鈍い。
車内の空気が変わったように感じた。息苦しい。呼吸をするたびに、胸が痛む。
酸素が足りないのか。暖房の温度が高すぎるのか。
判断する力が自分から抜け落ちていくようだ。
窓の外を見ると、雪はさらに激しさを増していた。
フロントガラスは完全に雪に覆われ、視界はほとんどない。
わずかに見える部分から、雪がまだ降り続けていることがわかる。
マフラーの辺りは完全に雪に埋もれているに違いない。
そのとき、恐ろしい可能性が頭をよぎった。
――排気ガスが車内に逆流している。
パニックになりかけた私は、窓を開けようと腕を伸ばす。
しかし、腕が思うように動かない。
体中に鉛が流れているような重さ。
携帯電話に手を伸ばす。
しかし、そのわずかな距離が届かない。
頭痛がさらに強くなり、吐き気も込み上げてくる。
車のエンジンを切らなければ。ドアを開けなければ。
しかし、体はもう言うことを聞かない。視界がぼやけてきた。
一酸化炭素中毒。遠い記憶のように蘇る。
閉め切った車内で一酸化炭素が充満すると、気づかないうちに中毒となり、意識を失うと。
無色無臭の毒が、今この車内に満ちているのだろう。
「愚か…だった…。」
かすれた声でつぶやく。
自分の不注意が招いた結果。
家族の顔が脳裏に浮かぶ。
妻の穏やかな笑顔。息子の元気な声。娘の甘えるような仕草。
もう二度と会えないのか。約束した明日のお土産も渡せない。
思いもよらない形での最期。
車内は静かで、外の世界は白い雪に覆われている。
美しい最期の風景。
けれど、こんな形で命を終えるつもりはなかった。
「ごめん…帰れなくて…。」
静かに、穏やかに、私は最後の瞬間を迎える。
ただ安らかな眠りに誘われるような感覚。永遠の静寂へと沈んでいくような感覚。
それが、この世での最後の記憶となった。




