コンロ
仕事も終わり、帰宅した私を迎えてくれるのは、沈黙した空気だけだった。
もちろん、部屋には誰もいない。ドアを開けると、冷え切った室内が私を包み込む。玄関に足を踏み入れた瞬間から、一人暮らしの現実が重くのしかかってくる。
カバンを置き、靴を脱ぐ。
日中の疲れが一気に押し寄せてくる。毎日この時間、静まり返った部屋に帰ってくるのは辛い。
でも、今の仕事は、残業も多いが、やりがいはあった。
…ああ、それにしても。
これから家事をしなければならない。
キッチンに向かう前に、ため息が漏れる。
誰かに「お疲れ様」と声をかけてほしい。そんな些細な願いもあるけれど。
部屋の隅々まで、静けさが染み込んでいる。テレビをつけることもできるが、それは本当の会話ではない。誰かと言葉を交わしたい。温かい人の声が聞きたいと思った。
壁の向こうには、きっと誰かが暮らしているはずなのに。この場所では、隣人の気配すら感じられない。
私は毎晩、この密閉された空間の中で、孤独と向き合っている。
サイドテーブルに置いたスマートフォンが時刻を知らせる。
もう午後十一時を回っていた。
冷蔵庫の中身を確認する。野菜炒めくらいなら、まだ作れそうだ。
それ以上の時間は、かけるきにもならない。
豚肉と野菜を取り出し、手早く切り始める。
包丁を動かしながら、私は今日の出来事を思い返していた。
会議の内容も、上司との会話も、全てが遠い記憶のように感じられる。
フライパンに油を引き、強めの中火にかける。まずは豚肉を炒めることにした。肉が焼ける音とともに、部屋に香ばしい匂いが広がっていく。この音と香りだけが、私の存在を確かめるように感じられた。
野菜を投入する順番を考えながら、まずはもやしを入れた。
スマートフォンが再び鳴った。メッセージの通知音だ。
急いで画面を確認したくなる衝動を抑えながら、キャベツを加える。
とりあえず、入れ終わった。
だから、私は思わずスマートフォンに手を伸ばしていた。
画面には、友人からのメッセージが届いていた。
「今週末、みんなで集まらない?」
思わず顔がほころぶ。返信しようと、画面に目を落としたまま指を動かし始める。
「行きたいな。何時に…」
言葉を綴りながら、ふと鼻をつく匂い。
はっとして顔を上げる。フライパンから白い煙が立ち昇っていた。
「あっ。」
慌てて箸を伸ばす。その瞬間だった。右手の袖がフライパンの縁に触れた。
「痛っ!」
驚きとともに、服に火が付いた。
一瞬の出来事だった。
炎は、まるで生きているかのように袖を伝い上がっていく。
パニック。
頭が真っ白になった。体が動かない。
「誰か!」
反射的な叫び。しかし、私の声は静かに部屋の中へと消えていった。
深夜のマンション。
誰も、私の声など、聞いてはいない。
炎は次第に大きくなり、上着全体へと広がっていった。
私は床に倒れ込み、必死で服を脱ごうとする。
しかし、その間にも炎は瞬く間に上着全体へと広がり、布地を這うように進んでいく。
焦げた繊維の刺激臭が鼻を突く。
熱さと痛みで思考が混濁する中、私は床に倒れ込み、指で服に手をかける。
しかし、熱で溶けた服が皮膚と癒着しはじめており、もはや脱ぐことができない。
皮膚に伝わる熱が、刃物で切り裂かれるような痛みに変わっていく。
もはや立っていることすらできず、床をのたうち回る。
喉からは意味をなさない叫び声だけが漏れ出る。
熱い。
熱に耐えきれず、私は床を転げ回る。
それで、なんとか炎を消そうとしたが、消えない。
喉からは嗚咽のような声が漏れる。
それが精一杯の行動だった。
視界が歪み始める。まるで遠くから見ているような感覚。
熱と痛みは依然として激しいのに、どこか現実感が薄れていく。
天井の明かりが、ぼんやりと揺らめいて見える。
耳鳴りが始まった。まるで深い海の底に沈んでいくような感覚。
周りの音が遠ざかっていく。
自分の心臓の鼓動だけが、異常に大きく聞こえる。
そして、その鼓動すらも、次第にゆっくりと、遠くなっていった。
最後に意識の中に残ったのは、激しい痛みだけだった。




