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脆落 ー日常の最期ー  作者: 速水静香


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15/19

コンロ

 仕事も終わり、帰宅した私を迎えてくれるのは、沈黙した空気だけだった。

 もちろん、部屋には誰もいない。ドアを開けると、冷え切った室内が私を包み込む。玄関に足を踏み入れた瞬間から、一人暮らしの現実が重くのしかかってくる。


 カバンを置き、靴を脱ぐ。

 日中の疲れが一気に押し寄せてくる。毎日この時間、静まり返った部屋に帰ってくるのは辛い。

 でも、今の仕事は、残業も多いが、やりがいはあった。


 …ああ、それにしても。

  

 これから家事をしなければならない。

 キッチンに向かう前に、ため息が漏れる。

 誰かに「お疲れ様」と声をかけてほしい。そんな些細な願いもあるけれど。

 部屋の隅々まで、静けさが染み込んでいる。テレビをつけることもできるが、それは本当の会話ではない。誰かと言葉を交わしたい。温かい人の声が聞きたいと思った。


 壁の向こうには、きっと誰かが暮らしているはずなのに。この場所では、隣人の気配すら感じられない。

 私は毎晩、この密閉された空間の中で、孤独と向き合っている。


 サイドテーブルに置いたスマートフォンが時刻を知らせる。

 もう午後十一時を回っていた。


 冷蔵庫の中身を確認する。野菜炒めくらいなら、まだ作れそうだ。

 それ以上の時間は、かけるきにもならない。


 豚肉と野菜を取り出し、手早く切り始める。


 包丁を動かしながら、私は今日の出来事を思い返していた。

 会議の内容も、上司との会話も、全てが遠い記憶のように感じられる。


 フライパンに油を引き、強めの中火にかける。まずは豚肉を炒めることにした。肉が焼ける音とともに、部屋に香ばしい匂いが広がっていく。この音と香りだけが、私の存在を確かめるように感じられた。


 野菜を投入する順番を考えながら、まずはもやしを入れた。

 スマートフォンが再び鳴った。メッセージの通知音だ。

 急いで画面を確認したくなる衝動を抑えながら、キャベツを加える。


 とりあえず、入れ終わった。

 だから、私は思わずスマートフォンに手を伸ばしていた。


 画面には、友人からのメッセージが届いていた。


「今週末、みんなで集まらない?」


 思わず顔がほころぶ。返信しようと、画面に目を落としたまま指を動かし始める。


「行きたいな。何時に…」


 言葉を綴りながら、ふと鼻をつく匂い。


 はっとして顔を上げる。フライパンから白い煙が立ち昇っていた。


「あっ。」


 慌てて箸を伸ばす。その瞬間だった。右手の袖がフライパンの縁に触れた。


「痛っ!」


 驚きとともに、服に火が付いた。

 一瞬の出来事だった。


 炎は、まるで生きているかのように袖を伝い上がっていく。

 パニック。


 頭が真っ白になった。体が動かない。


「誰か!」


 反射的な叫び。しかし、私の声は静かに部屋の中へと消えていった。


 深夜のマンション。


 誰も、私の声など、聞いてはいない。


 炎は次第に大きくなり、上着全体へと広がっていった。

 私は床に倒れ込み、必死で服を脱ごうとする。


 しかし、その間にも炎は瞬く間に上着全体へと広がり、布地を這うように進んでいく。


 焦げた繊維の刺激臭が鼻を突く。


 熱さと痛みで思考が混濁する中、私は床に倒れ込み、指で服に手をかける。

 しかし、熱で溶けた服が皮膚と癒着しはじめており、もはや脱ぐことができない。


 皮膚に伝わる熱が、刃物で切り裂かれるような痛みに変わっていく。

 もはや立っていることすらできず、床をのたうち回る。

 喉からは意味をなさない叫び声だけが漏れ出る。


 熱い。


 熱に耐えきれず、私は床を転げ回る。

 それで、なんとか炎を消そうとしたが、消えない。

 喉からは嗚咽のような声が漏れる。


 それが精一杯の行動だった。


 視界が歪み始める。まるで遠くから見ているような感覚。

 熱と痛みは依然として激しいのに、どこか現実感が薄れていく。

 天井の明かりが、ぼんやりと揺らめいて見える。

 耳鳴りが始まった。まるで深い海の底に沈んでいくような感覚。

 周りの音が遠ざかっていく。

 自分の心臓の鼓動だけが、異常に大きく聞こえる。


 そして、その鼓動すらも、次第にゆっくりと、遠くなっていった。


 最後に意識の中に残ったのは、激しい痛みだけだった。

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