ベランダ
朝の日課である洗濯物を取り込もうと、ベランダへ出た。
築四十年を超えるこのマンションは、三年前に大規模なリノベーションを終えたばかり。
室内は白を基調とした清潔な空間に生まれ変わり、水回りも新調して不便は感じない。
キッチンは、大規模な修繕で、今風なダイニングキッチンになって、部屋は明るくなった。
ただ、外装工事は最小限に留めたため、目につかない箇所には経年の痕跡が残されていた。
管理組合の理事会でも、修繕積立金の使途について度々議論になる。
私も昨年、一年間だけ理事を務めたが、住民の意見は割れたまま。結局、費用の関係で外回りの補修は先送りになった。
マンション五階の広々としたベランダは、洗濯物が二列干せるほどのゆとりがあった。
しかし、その床である、灰色のコンクリートには、かすかな亀裂が走っていた。
以前、観葉植物のプランターを置こうとした時、夫に『劣化が進むから』と諭されたことを思い出す。
その時は過剰な心配だと思ったものの、今になって夫の慎重さが理解できる。
立ち止まって、ベランダ下の日常を眺める。
一メートルほどの手すりは、縦横に金属の支柱が組まれ、腰をかがめないと真下は見通せない。
私は自然と手すりに寄りかかった。
下では、いつもの光景が繰り広げられている。群れをなして歩く紺のカバン姿の中学生たち。
チェック柄のシャツに身を包んだ老夫婦が、ゆるやかな足取りで散歩を楽しんでいる。
急ぐように歩いている、スーツ姿の会社員。
耐用年数を考えれば、そろそろ大規模な修繕工事の時期かもしれない。
表面的には問題がなくても、鉄骨やコンクリートは静かに年月を重ねていく。
玄関のドアを開け閉めする時の音も、以前より重く感じる。
エレベーターの揺れも、わずかに大きくなったような気がする。
その時、違和感が全身を貫いた。
手すりの感触が、これまでとは明らかに異なっていた。
縦の支柱と横の手すり部分をつなぐ金具が、わずかにずれている。表面の白いペイントも剥がれ、赤錆びた金属が覗いていた。
「おかしいな。」
確かめるように、軽く手すりを押してみた。
その瞬間、長年の錆びが蝕んでいた部分が、音を立てて剥がれ落ちた。
重心を失った私の体が、ゆっくりと前のめりになっていく。
まるで腐った枝のように、縦の支柱が私の体重で折れ曲がった。
浮遊感。
私の身体は、ベランダの床から完全に離れていた。
地上十数メートル。
時間の流れが鈍くなったように感じる。
すべての感覚が研ぎ澄まされていた。
体は前のめりに傾いたまま落下を始め、徐々に回転していく。
最初は足が上がり、頭が下向きになる。
胃の中が持ち上がるような感覚。
ふと、四階のベランダが視界に入る。
知らない誰かの部屋の窓。カーテンが掛かっていた。
声を上げたいのに、声が出ない。
さらに体が回転する。
青空が目に入り、そして建物の壁。
三階の植木が置かれたベランダ。
誰かの干された洗濯物。全てが不思議なほど鮮明に見える。
回転しながら落ちていく身体は、私の意思とは無関係に動いていく。
それは糸の切れた操り人形のような感じだった。
二階の窓からは青白い光。
テレビだろうか。その前で誰かが動いているようにも見えた。
私の耳には、風を切る音だけが聞こえた。
最後の回転で、落ちてきた五階のベランダが見えた。
手すりの切れた部分が、この距離でもはっきりと分かる。
そのベランダよりも、上に見えたのは、青空。
その鮮やかな色彩が、まるで最後の贈り物のように私の目に飛び込んできた。
そして、地面が迫ってくる。




