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スリッパ

 朝食の食器を片付け終えると、洗濯物を取り込む時間だ。

 夫と子供たちは既に出かけており、静かな家の中に私一人だけが残されている。


「よし、次は二階の掃除をしよう。」


 自分に言い聞かせるように呟いた。

 三十代後半になった私の日課は、常に家事の連続だ。

 専業主婦として家族を支えること。

 それが私の役割であり、誇りでもある。


 キッチンの流しを拭き上げ、よれよれのスリッパを履き替える。

 この使い慣れた白いスリッパはかかと部分が少し折れているが、まだまだ使えるだろう。

 新しいものを買おうと何度も思いながら、つい後回しにしていた。


 階段を上りながら、今日の予定を頭の中で整理する。

 掃除、洗濯物の整理、夕食の準備、そしてPTA会議の資料確認。忙しい一日になりそうだ。


 二階の廊下に積まれた洗濯カゴを手に取り、片付けを始める。

 子供たちの部屋はいつも散らかっている。

 何度言っても片付けないのは、きっと父親譲りの性格なのだろう。


 苦笑しながら衣類を畳んでいく。


 洗濯物を片付け終えると、掃除機をかける。

 各部屋を丁寧に掃除していく。

 汚れを見逃さない目は、私の自慢だった。


 時計を見れば、もう十一時を回っている。

 あっという間に時間が過ぎていく。

 早めに昼食を済ませて、午後の予定も進めなければ。


 掃除機を元の場所に戻し、階段を降りようとする。

 階段の一段目を踏む。


 その瞬間だった。


「あっ」


 白いスリッパが抜けてしまった。バランスを失った。

 咄嗟に手すりを掴もうとするが、指先はわずかに届かない。


 前のめりに倒れていく感覚。

 頭から落ちていく。


 鈍い衝撃が頭部を襲う。

 階段の角に頭をぶつけた。

 激しい痛みが走り、目の前が真っ白になる。


「がっ…。」


 かすれた声が漏れる。何が起きたのか理解するのに数秒かかった。

 私は階段の途中で横たわっていた。

 動こうとすると、頭に鋭い痛みが走る。


 手で触れてみると、温かい液体が指に絡みついた。

 血だ。

 かなりの量が出ているようだ。


「電話…スマホ…。」


 助けを呼ばなければ。


 でも、スマホは二階の寝室に置いたまま。

 固定電話は一階のリビング。


 どちらも今の私には遠すぎる。


 這って移動しようとするが、身体が思うように動かない。

 頭の痛みで視界がぼやける。吐き気がこみ上げてくる。


 これは良くない兆候だと分かる。


 子供たちが帰宅するのは夕方。

 夫は仕事で遅い。誰も来ない。


 その事実が恐怖となって心を締め付ける。


 頭を打った場所から、じわりじわりと血が床に広がっていく。

 その様子を見ていると、不思議と恐怖よりも諦めの感情が湧いてくる。


 徐々に意識が遠のいていく。考えることが難しくなる。

 もっとしっかりとしていれば、スリッパのことにも気を付けていたはずなのに。


 天井が揺れて見える。まるで波のように。


 夫への伝言、子供たちへの言葉、言い残したことが山ほどあるのに。でも、もう声を出す力さえ残っていない。


「ごめんね…。」


 誰に向けた言葉かは自分でも分からない。


 家族への謝罪か、自分自身への言葉か。


 目を閉じれば、少し休めるかもしれない。

 そう思った瞬間、深い眠りに誘われるように、意識が暗闇へと落ちていった。


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