三日月と復員兵と名探偵
暗い船室の扉が開き、海に浮かぶ細い三日月が見えた。
俺が見る最後の月だ。
悲惨な戦争の終わった復員船で俺は死のうとしていた。
三日月はレモン色をしている。
愛読書だった詩集『智恵子抄』の「レモン哀歌」を思い出す。
死ぬ前にレモンを齧ったら俺の朦朧とした頭も正常になるだろうか?
入ってくる1人の男の影で月が隠れた。
「小田切…」
同じ部隊にいた小田切光臣は隠していたが名の知れた探偵だった。
だがなぜか探偵は俺を見て怯えている。
「頼む。俺の故郷の青菊島に行ってくれ。俺が帰らなければきょうだいたちが殺され…」
「ストップ!悪い。俺、名探偵小田切光臣じゃないんだ」
小田切の話を要約すると、目の前にいる小田切は約80年後の未来の大学生小早川蓮で、探偵小説の名作『青菊島』のドラマ配信を見ているうちに眠ってしまい、目覚めるとこの世界に来たそうだ。
だが時間はない。
「お前でいい。お前がこれから起こる事件を解決してくれ。犯人を知っているんだろう?頼むから青菊島に…」
最後まで言わずに俺、群青馨は死んだ。
目覚めると清潔なベッドにいた。
「草太!」
涙ながらに枕元で歓喜の声を上げた中年夫婦が、今の俺の両親だと知った。
そう、俺は80年後の日本人に憑依したのだ。受験に悩み自殺した佐伯草太に。
俺は一浪した後、前世と同じくT大学医学部に合格した。戦争のない世界で思う存分勉強ができ幸せだった。
この世界にも名探偵小田切シリーズはあった。けれど『青菊島』だけはなかった。
クション!
新たな世界には80年前にはなかった花粉症という病が蔓延っていた。
俺は耳鼻科の待合室で群青馨の愛読書だった『智恵子抄』を電子版で読んでいた。
順番が来た患者の名前が呼ばれる。
その時、俺は耳を疑った。
「小早川蓮さん、お入りください」
立ち上がったそいつを見ると背が高い二枚目だった。
俺は急用ができたと受付に断り、外で小早川が出てくるのを待った。
30分ほどして小早川が出てきた。
「小田切!」
俺が呼ぶと彼は振り返った。
「群青馨だよ。覚えてないか?」
「サイパンの部隊の…」
やはり小田切だ。
近くのマックに入りコーラで乾杯し近況を話した。
彼もT大の学生で法学部の1年生だった。
「医学部なんてすごいな。なあ群青、いや佐伯、お前、俺のワトソンになる気ない?」
ワトソンと言えば名探偵シャーロック・ホームズの親友の医師だ。
「悪くないな」
窓の外の暗くなった空にはレモン色の三日月が登っていた。
冒頭の復員船と名探偵は横溝正史の名作『獄門島』のオマージュです。
作中に出てきた詩集『智恵子抄』は、日本の詩人で彫刻家の高村光太郎が、心を病んだ妻の智恵子について書いた優しい愛の詩集です。
第二次世界大戦が始まった1941年に出版され、恋愛を知らずに出征する青年や、彼らを見送る少女たちの心を打ったそうです。