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06話:私はこうして館の中と暮らす人たちを知る。

【毎日昼の12時と夕方の18時の2回更新します】



 


 四階はすべてゲストルームになっていた。

 部屋数は十でその一室が末娘の(けい)の部屋だった。天井が高いかなり広い造りである。




 透明なガラスの壁の向こうに青空と海が見えていたが、彗がカーテンを引いたので室内は薄暗くなる。

 もちろん恵を落ち着かせるためである。




 部屋にはバスやトイレも備え付けられており、透き通った壁は隣の部屋が丸見えだが厚手のカーテンはすべての壁にあるのでプライバシーの問題は存在しない。

 万代が与えられた一室もこの階にあるとのことだ。




「……寝たわ」




 床に寝かせたあと万代と彗はベッドの両側にしばらく無言で立っていた。

 眠るまで側にいて、と頼まれたからである。

 万代の手にも彗の手にも恵の左右の手が握られていた。恵が二人にせがんだのである。




 迫水(さこみず)(けい)。十三歳。身長一四一センチ体重三八キロ。




 二年前の交通事故で車椅子生活を余儀なくされた迫水家の末娘で、父である敬一の愛人であった母はそのときの事故で失っている。

 その事故以来学校には通ってなく家政婦や家庭教師たちに囲まれた生活を送っていたが父が、ニコバレンに移住したことで現在はグラマン館に住まいを移している。




 万代は慧に聞かされたそんな恵のプロフィールを思い出していた。




「甘えん坊ね」




「ええ、それに我が儘よ」




 万代の言葉に彗はクスッと笑いながら答える。




「それにしても頭に来る男ね。あの山下って執事」




「あの人は昔からそうなの。なにを言っても無駄だわ」




「もし、あなたや恵が家を継いだなら即刻叩き出してね」




「ええ、考えておくわ」




 そう言って彗は微笑んだ。




「それと……ここで話すべきことじゃないかもしれないんだけど」




 万代が遠慮がちに尋ねる。




「なに? ええ……大丈夫。この子、一度寝たらすぐには起きないから」




 そういって彗はその手を離した。万代もそれを見て恵の手を離す。

 確かに目は覚めないようである。




「落ちてきたシャンデリアのことなんだけど。固定していたワイヤーに切断した跡があったわ」




「切断? ……どういうこと?」




「文字通りよ。ひとりでに切れたんじゃなくて、ニッパーかなにかわからないけど工具で切断された跡があったのよ」




 彗はハッとして口を押さえる。




「……じゃあ、やっぱり?」




「ええ。残念ながらそうなるわね。スロープの影から手を伸ばして切断したのよ。こんな風にね」




 万代は片手で身を支えてもう片方の手でワイヤーを切断した様子を再現して見せた。暗雲が立ちこめるような重い雰囲気が支配した。




「誰かいたの?」




「姿は見てない。シャンデリアの影に隠れていたし」




「そう。……ということはそのときにこの四階にいた人物が犯人ね」




「それはそうかもしれない。でもあの騒ぎに乗じて移動している可能性の方が高いわ」




「……そうね」




 そのときである。部屋の外から言い合いが聞こえてきた。男が二人である。




「騒々しいわね」




「兄よ。あの声は次景(じけい)兄さんね」




 次男の(けい)だから次景兄さん。

 慧からそう呼び分けていると聞いたことを思い出す。




 万代は慧とともにドアの外に出る。

 すると五階へと通じるスロープの途中に先ほどの無礼な執事の山下と、ポロシャツに麻のスラックス姿の三十歳くらいの男性がいた。

 その背は大きく真っ黒に日焼けした外見は一見してスポーツマンだとわかる。




「何度も言わせるな。オヤジに合わせてくれ」




 書類で見た迫水景である。

 体型と同じく大きな声は地声のようだ。

 その向こうに五階への扉が堅く閉ざされている。分厚い木製の頑丈そうなドアだった。




「ですから旦那様に禁じられております。それにそのことはお任せください」




 身長差は二十センチはあるが、勢いは押し止める小柄な執事の山下の方にあった。

 やがて山下との交渉をあきらめた次男の景がスロープを降りてくる。そして万代と慧に気がついた。




「次景兄さんどうしたの? 大きな声を出すとせっかく眠った恵が起きてしまうわ」




「どうしたもこうしたもないだろう。恵が死ぬかもしれなかったんだろ?」




「ええ、この女性が助けてくれたのよ」




 慧の紹介で次景が万代に向き直る。




「聞いてる。お手柄だったな。ええと一万円代だっけ?」




一円(いちまどか)万代(まよ)




 愛想も愛嬌もなく万代はぼそっと答える。




 名前を間違えた次景兄さん、ぶっきらぼうに訂正する万代、そのどちらに対してだか不明だが慧はやれやれといった表情になる。




 迫水景。三十四歳独身。身長一八二センチ体重八○キロ。




 迫水家の次兄。

 手スポーツ用品店の店長を務めている。趣味はテニスとスキー。

 確かプロフィールに書かれていた内容はこんなものだった。そして派手で女好き。




 ちなみお盛んなのは母親譲りで、その美貌の母は健在で、父である迫水敬一以外にも情夫を何人も持っていると聞いている。




「それでなにを騒いでいたの?」




 慧が改めて次景に尋ねる。




「警察を呼ばれたくないからな。悪い評判は避けたい。あれは事故だ」




 あれとは車椅子の恵が襲われた件であろう。

 この兄はその「あれ」よりも勝手に進めている商談の方が大事だと思える。




 もっとも警察を呼びたくないのは当主の敬一氏も同じであるので万代はそれほど驚きはないが、ここまであからさまだとさすがに正直面白くない。




「事故ねえ。……そう思いこみたい事情があるんだろうけど、ちょっと短絡的じゃない?」




 万代は下から次景をまっすぐに見上げた。ちょっと万代ちゃん、と彗が袖を引く。




「なんだと?」




「落ちたシャンデリアには細工がされていたわ」




「俺が犯人だと言いたいのか?」




「そんなこととは言っていない。ただあれを事故で片づけるにはおつむが楽天的過ぎるって言いたいだけ」




 景の顔に不快な表情がすぐに浮かんだ。単純な男だ。

 もちろん持論を否定されたことに対して怒りを感じたからである。




 だが万代をつま先から頭の天辺までじっくりとなめるように眺めると、目元が緩んできたのがわかる。女好きがよく見せる好色の目だ。




 万代は更に不機嫌になる。

 バサバサの髪、痩せっぽちの身体、そして化粧気のない顔の万代だが、見方によっては美少女と言っても嘘ではない。

 ただ目つきがキツく笑顔が久しく絶えたその顔は決して万人受けする顔ではないが……。




「まあ、お前は恵の話し相手で雇われたんだ。あんまり余計なことに口を挟まないことだな」




  次男の景はそう言い残すようにして立ち去った。




「……ちょっと言い過ぎだった?」




「あの兄に頭ごなしに言う人少ないから」




 ……別にいいんじゃない? という顔を彗は浮かべた。


 


 □




 万代が旅装を解き部屋でくつろいでいたときである。

 しんと静まりかえっているグラマン館に変化が訪れた。

 大勢の人たちが出入りし会話が飛び交う人の賑わいである。日本語が多いが英語や中国語も混じっている。




「なんの騒ぎ?」




 廊下に顔を出すと彗が通りがかったので万代は尋ねる。




「兄たちが呼んだ商談相手たちよ。いろんな会社が来ているわ」




 階下の三階の玄関ロビー脇の応接スペースに人が集まっているらしい。




「騒がしいわね。いったいどれくらいの人が来ているの?」




「ざっと三十人以上、……もしかしたら五十人くらいかしら」




 万代は途端にうんざり顔になる。




「静かなところ、ないの?」




「じゃあ、二階に行きましょう。この階よりはずっと静かよ」




 彗が歩き出す。




「あの子大丈夫?」




「恵のこと? まだ眠っているみたいね。部屋にいればまずは安心だわ。鍵だってかかっているし」




 壁は透明だがカーテンが引かれているので内側の様子はわからないが、恵の部屋は静まりかえっていた。




「どんな会社が集まっているの?」




 スロープの途中から下に集まる人々が見えた。この暑い国でスーツ姿はご苦労なことである。




「私もよくはわからないけどリゾート会社や食品会社、製薬会社、なんかかしら」




 万代は製薬会社という言葉に敏感になる。首都のニコバレン市にシブタキ製薬の現地事務所が開設されているのを思い出したからである。




「観光ホテル、ゴルフ場、ダイビング……リゾート会社がやりたいことはわかるけど、その他の会社にはどんなメリットがあるの?」




「さあ、主に税制面かしら? 税金はこちらと相談だから条件によってはかなり安くなるわ」




 確かにどんな企業活動に取ってもできるだけ広い敷地は必要不可欠だが、そのために莫大な税金を支払うのはありがたくない。

 それが交渉次第で安くなるのであれば間違いなくうれしい話に違いない。




「あとは……法律面ね」




「法律?」




 万代は聞き返した。




「ええ、兄たちからの又聞きなのではっきりはわからないのだけど、例えば食品会社や製薬会社の場合はどうも実験施設とか実験農場を造りたいらしいの」




「実験と言うと?」




「食べ物や薬の研究開発をする場合、例えば日本ではまだ許可が下りなかったり禁止されていたりする薬品を使用できるのと、同じ理由である動物、植物などを使ったり育てたりするのに必要らしいのよ」




「なるほど……例えば麻薬とか」




 万代は思いつくなかでいちばん(たち)が悪い例を口にした。




「ええ、そうよ。もちろん犯罪に使うつもりなら許可はできないから、あくまで研究用ね」




 日本などの法律で禁止されている麻薬類も鎮痛剤として有用な医薬品の一種である。

 しかしその製造や入手、使用には厳重な管理が要求される。そしてその分だけ所轄官庁に提出する書類も煩雑になり費用も嵩むのはモノがモノだけに当然であった。

 簡単に言えば面倒くさい上に金がかかるのである。




「他にも新薬開発のためにヤバめないろんな植物を栽培してさまざまな実験を行いたい……か」




「ええ、そうよ。食品メーカーにしても似たようなものではないかしら? 他にも外部から隔離された租界地なのでセキュリティー面でもメリットもあるはずね」




 商談に来たビジネスマンたちは大きく分けてふたつのグループがあった。




 一方は長男の(けい)、つまり長慶(ちょうけい)兄さんと思われる男性が、もう一方は次男の景が応対しているのが見えた。

 彼らの中にはアタッシュケースの中から現金を取り出して机に並べている姿も見える。




「ずいぶん乱暴な商売ね。ふつうは電子決済なり口座なり手形なりじゃないの? 

 実際に現金が飛び交うなんて現代の企業同士の取引じゃまずあり得ないのに」




「それはあれよ。……相手はあくまで企業だけど当伯爵家はあくまで個人ですから。

 前時代的な身分相手なので相手もそれに合わせているのよ」




「所変われば品変わるか……」




 万代は呆れていた。

 パッと見でも相当の額が並べられている。紙幣も円、ドル、ユーロ、人民元と様々であった。




 スロープを歩き三階に降り立つと、万代は応接スペースから顔を背けた。この中にシブタキ製薬の人間が混じっている可能性が高いからだ。

 万代の顔をすべてのシブタキ製薬のスタッフが知っているはずはないであろうが用心に用心を重ねての行為であった。




 □




 スロープを降りると確かに喧噪は静まった。二階に降りたのである。

 薄暗いと思ったら館のいちばん外周の壁となっている分厚いガラス壁のすべてのカーテンが閉じられていた。




「おかしいでしょ? ……外を見てると波ばかりで船酔いすると言うものだから、ここはいつもこうなのよ」




「誰が船酔いするのよ?」




「この階の住民よ」




 万代の質問に彗は楽しそうに答えた。

 この階には家政婦の村田姉妹の居室がある。他にも食堂、厨房、浴場、そして談話室があった。




 彗はノックもせずに談話室のドアを開けた。壁が透けているので中には誰もいないのは明らかであるからだ。

 中には向かい合わせのソファと書棚とバーカウンターがあった。

 そしてカウンターの脇に三階ロビーの噴水にあるものと同じ男性像が置かれているのが目につく。ただしサイズはかなり小振りである。




「飲む?」




 彗がバーカウンターのボトルを指さし万代に尋ねる。




「そうしたいけど、この仕事が終わるまではやめとくわ。なにが起こるかわからないから」




「そうね。賢明ね」




 そう言って彗は部屋のすべてのカーテンを閉めた。




「最初はどの壁も透き通っているからこれはこれでおもしろいと思ったけど、意外と困りものね」




 万代が言うと彗は頷く。




「そうなのよ。ここまで凝った造りだと逆に不便ね。プライバシーもなにもあったものではないわ」




 ティーセットもあったようで彗はお湯を沸かし紅茶を入れた。空調がよく効いた室内で飲む暖かいお茶は悪くない。




「ひとつ疑問がある。他人の私が言うのもなんだけど、ああ言う話を当主の敬一氏の許可なく進めてもいいものなの?」




 万代は上の階を指さしてそう尋ねた。もちろん長慶と次景が勝手に進めている商談のことである。




「問題とは思うけど……父が黙認していると思っているみたいね。これも父が全然顔を見せないからなのよ」




「そんなに容態が悪いの?」




「わからないわ。でも意識はしっかりしているみたいだし、恵や山下の話だと最近は少し室内を歩いて屋上庭園などにも出向いていると聞いているのだけど」




「会えないかな?」




 不意に万代は言う。彗は口に運ぶカップを止めた。




「父と?」




「ええ。こうして雇われたんだから、せめて挨拶くらいと思ったんだけどね」




「無理じゃないかしら。父は本当に人嫌いだし、兄や私でも会えないのだから」 




「まして他人の私になど一層会いたくない、と」




「気分悪くした?」




「別に。こっちもどうしてもって訳じゃないしね」




 彗は視線を落とす。 




「……父は私たちを呼び寄せたけど。それも今では一時の気まぐれだと思っているわ。他人に関心などないもの。あの人」




「関心……ない、か」




 自分にもそれと同じ思いがあったことを万代は思い出していた。

 万代が物心ついたとき家には母とふたりだけであった。




 父は遠くで働いていて、なかなか家に帰って来られないと聞かされて育ったのである。

 幼稚園の入園式も、卒園式も、七五三も、小学校の入学式も、毎年やって来るクリスマスも誕生日も……常に母とふたりきりであった。




 母の名前は一円(いちまどか)佐代(さよ)。太めで美人とは言えないが優しい母であった。




 そんな母の元にいつから見知らぬおじいさんが訪ねてきたのかは覚えていない。

 ときには週に一度、ときには月に一度程度そのおじいさんは万代の家にふらっと立ち寄るのである。




 そのおじいさんは決して万代に話しかけなかった。だから万代に関心なんかないんだと思っていた。

 万代もそのおじいさんを恐れていて、柱の陰から隠れて見つめていたのしか覚えていない。

 目つきがするどいそのおじいさんのことが怖かった。目が合うだけで泣き出してしまったのも何度かあった。




 そんなある日万代は一度だけ母にそのおじいさんのことを尋ねたことがある。

 すると母は困った顔になり『……あの人はお母さんのお父さん。つまりあなたのお祖父さんなのよ』と、教えてくれた。





 ――そして万代が八歳になった頃である。




 冷たい雨が降っている日だった。

 万代はお母さんから黒い服を着させられた。お母さんも同じような黒い服だった。




 そして電車に揺られてバスに乗って遠くへ遠くへやって来た。

 お母さんは朝から泣きっぱなしで万代になにも説明してくれなかった。




 見たこともない大きな家に着いた。

 大勢の人たちがみんな黒い服で集まっていた。お葬式だとすぐにわかった。




 大きな部屋に入るといちばん奥に白い布の段々が作られていた。周りには花がたくさん飾ってあった。

 そしてその真ん中に大きな写真があった。

 万代の家にときどき来る万代のお祖父さんだった。『ああ、この人ついに死んじゃったんだ』としか万代は思わなかった。




 別に悲しくなかった。きっと万代はこのお祖父さんに関心がないんだと思った。

 知らない小父さんがやって来て万代の手を握った。

 万代に顔が似ていると思った。




『万代ちゃん?』




 と尋ねられた。



『うん』




 そして横にいるお母さんに尋ねた。




『ねえ、この小父さんが万代のお父さん?』




『どうして?』




 とても驚いている顔だった。




『だって、万代と似てるよ』




 そう答えるとお母さんと知らない小父さんは互いに顔を見合わせてとても困っていた。




『万代。あなたのお父さんはあそこで仏様になったのよ』




 お母さんは泣きながらいった。




『嘘! だってあの人は万代のお祖父さんでしょ? ねえ、この小父さんが万代のお父さんなんでしょ?』




 ……大きな声を出していた。




 周りの知らない小父さんや小母さんたちがびっくりして万代たちを見ていた。




『万代ちゃん、小父さんは万代ちゃんのお父さんじゃなくて、万代ちゃんのお兄ちゃんなんだよ』




 知らない小父さんはそういって万代の手をしっかり握った。




『嘘! 嘘! 嘘! お母さんの嘘つき!』




 ……悔しかった。大きな声で泣き叫んでいた。




 そして後のことはよく覚えていない。

 その葬式で仏様となった本当の父は享年七十八歳。




 そしてその三年後に母は他界した。まだ三十五歳の若さだった。 

 



 そのとき初めて出会った見知らぬ小父さんが自分の腹違いの兄で、当時二十歳過ぎの大学生だった宗一郎だと理解したのは澁瀧澤家に引き取られた夜のことであった。





 □




 カップの紅茶が冷たくなっていた。

 万代は席を立ち書棚から適当に本を選びページをぺらぺらと捲っていた。




 彗は先ほど家政婦の村田姉妹に呼ばれて談話室から姿を消していた。

 迫水家の女側の主として食事の献立やら時間について、また屋敷の清掃やベッドメイクについてあれこれ指示している様子だった。




『だ、誰だお前は!』




 突然ドアが開いて英語で怒鳴る四十代の男性が現れた。

 身長は万代とほぼ同じ。やせ型で髪が薄い神経質そうな男だった。




『……勝手に屋敷に入るな! さっさと出て行かないと警察を呼ぶぞ!』




 拳を握り虚勢を張っているが、その顔には見知らぬ万代に対して恐怖を感じているのがすぐわかる。

 ……大した男じゃないわね。

 万代はソファに座りゆっくりと返答した。




「ご挨拶ね。あなたが長慶(ちょうけい)兄さん?」




「……なんだ日本人か」




 男は途端に力が抜けたようになる。




 長男の迫水(さこみず)(けい)。年齢は四十三歳。身長一七○センチ体重五十五キロ。




 大手自動車メーカーの系列会社で総務課長の職に就き、職場結婚した妻との間に高校生の長男と中学生の長女がいる。

 万代は長慶のそんなプロフィールを思い出す。

 疲れた顔、痩せた身体。その容姿から相当苦労してきたのは理解できるが仕事のストレスで胃を悪くしているのもすぐわかる。




 ちょうどそのとき彗が戻った来た。




「なんの騒ぎ? 長慶兄さん?」




「……彗、誰なんだこいつは?」




 彗は万代を見て微笑む。




「恵の話し相手として呼んだ一円万代さん」




「……そんなこと私は知らないぞ」




「先日お話しました。覚えていらっしゃらないのかしら?」




「……知らん、とにかく知らん。……まあ、お前が雇うのは勝手だが、私は請求書は受け付けないからな」




 そう言った長慶はカウンターからウィスキーのボトルを取り出すと、自分でグラスになみなみ注いで一気に飲み干した。だがその場でゴホゴホとむせ返ってしまう。




「どうしたの? ずいぶん慌てているみたいだけど?」




「これが飲まずにいられるか」




 慶はニヤリと笑った。




「今日の商談だけで私の年収分の三倍近くだぞ。……もうサラリーマンなんかしていられるか」




 会社なんか即刻辞めてやる、と、呟きながら慶は部屋を出て行った。




「……ご感想があるならどうぞ」




 彗は肩を竦ませてソファにへたり込んだ。




「……まあ、なんて言うか……大変なお兄様ね」




「気苦労が多いのよ。妻が見栄っ張りな上に二人の子供の学費にお金がずいぶんかかるみたいね」




 ドアが静かにノックされた。彗が応対に出ると外にいたのは執事の山下だった。




「恵が目を覚ましたみたい。あなたのことを呼んでいるらしいわ」




「わかったわ」




「……もう好かれたみたいね。大変だけどよろしくね」




 万代は苦笑しながら立ち上がった。そして冷えた紅茶を景気づけ代わりに一気に飲み干したのだった。






よろしければなのですが、評価などしてくださると嬉しいです。


私の別作品

「甚だ不本意ながら女人と暮らすことに相成りました」連載中 


「墓場でdabada」完結済み 

「甚だ遺憾ながら、ぼくたちは彼の地へ飛ばされることに相成りました」完結済み

「使命ある異形たちには深い森が相応しい」完結済み

「空から来たりて杖を振る」完結済み

「その身にまとうは鬼子姫神」完結済み

「こころのこりエンドレス」完結済み

「沈黙のシスターとその戒律」完結済み

 も、よろしくお願いいたします。

 

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