05話:私はこうして、ガラスの塔「グラマン館」に到着した。
【毎日昼の12時と夕方の18時の2回更新します】
純白のドイツ車は真っ青な空へと駆け登っている錯覚に陥る。
急な斜面の頂上に見えるのは空だけだった。雲ひとつない空が車窓いっぱいに広がっている。
広大な迫水伯爵領もここまで来ると土地の幅が狭くなり大地の両端が視認できた。
岬の先端に近づいたのである。
「ちょっとちょっと、え? さ、さっきの森はなんだったのよ?
もしかしてもう森はお終い? ……これは想像してたのとは違うわね」
「ええ? ええ、そうよ。この先はもう岩場ばかりで高い木は一本もないけど。
……あなたなにを想像していたの?」
「グラマン館のことよ。
私はてっきり密林に埋もれている屋敷かと思ってたのよ。石造りでツタとか巨木の根っこがそこら中にはい回っているような」
助手席の彗は声をたてて笑った。
「廃墟ではないのよ。
それではまるで発見されたときの南米のピラミッドかアンコールワットね。残念ながらグラマン館は海辺にあるのよ」
「海辺?」
「ええ、切り立った崖と並ぶように建っているの」
しばらくそのまま進んだが屋敷は一向に見えなかった。
道はいよいよ細くなり車はのろのろと走り続けそしてとうとう頂上にまで登った。
だが見下ろすゆるやかな坂の下にその屋敷の姿はない。横の彗は微笑を絶やさないが万代にはそれが面白くない。
「……悪いけど私には行き止まりにしか見えないの」
車はガクンといきなり停車した。
助手席の彗は反動でシートベルトに羽交い締めにされた。この荒っぽいブレーキはわざとである。
「疑い深いのね?」
彗はやれやれといった表情になる。
「これのどれを信じればいいの? これもテストなの?」
「テスト?」
「ええ、前の人捜しと同じようにこれもテストなのか? って訊いてるの?」
車外に出ると視界の先がすっかり明らかになった。眼下遠くに白く砕ける波頭が見えるだけである。
「いい加減にしなさいよ!」
万代はボンネットを拳で叩く。
ゴツンと堅い音がするがへこんだ訳ではない。それなりの力で叩いたのであるが相手はボディの頑丈さに定評のあるドイツ車である。
「……短気ね。ここからでは見えづらいけどあの茂みの先に立て看板があるのが見えない?」
ドアを開けて彗も降り立つ。
万代は彗の指さす先を凝視した。
なるほど、確かに木製の立て看板が見える。初めて来る訪問者を迷わせるために作られたとしか思えないほど地味なものであった。
「……見えた」
「ならもう少しだけ辛抱して、そこに道があるから」
そう言って彗はさっさと右側の席に乗り込んでしまった。
残された万代はなにか言いたげな顔になるが無言でそのまま運転席へと身を滑らす。
「……別に凹んだ訳じゃないから謝らないわよ」
万代は横の彗を見ずにそう言い放つ。
「いいわよ。それよりもあなた、手、相当痛いでしょう?」
「別に……」
万代は真っ直ぐに前だけを見ていた。
拳がジンジン痛んでいた。だがやせ我慢はなれている。
それよりも……この女は絶対に笑っている、と思った。その方が悔しかった。
「この先を車で降りろ、ってこと?」
立て看板の真横に来たときだった。
助手席の慧が頷くのが見える。無愛想な看板は砂地に無造作に放置されただけのもので矢印は崖下に向かう道を指し示している。
万代は慎重に車を走らせた。
道は湾曲している崖の壁沿いに緩やかに降っている。そして海側にガードレールのようなものは一切なかった。
「崖からダイブってことはないわよね?」
「それはあなたの腕次第ではないかしら?」
道幅はそれほど狭くはないが、心理的にどうしても壁側に寄ろうとするのでそれなりに神経を使う。
そのときふいに眩しさを感じた。海側からである。
「な、なんなの? あれ?」
「あれがグラマン館よ」
最初に見えたのは朝の光を反射する白く光る円形の空中庭園だった。
あれがグラマン館なのだろう。
この場所よりも低い位置にあるが海面からは相当の高さである。その庭園の下は崖に遮られ、その屋敷の全容はまだ見えなかった。
「車はここまでなの。あそこの空いているところならどこにでも停めてかまわないわ」
彗が前方を指さした。
そこグラマン館から離れた陸地で広場のようになっていてその中央に屋根付きの大きな車庫があった。
車庫の中にはグラマン館所有と思われる四駆が一台とセダンが一台、少し大きめのトラックが一台停まっていた。
「……それにしても大きい」
ドアを開けた万代の足下に空中を隔ててグラマン館は存在した。
直下から吹き上げた風が万代のそれほど長くない髪を靡かせる。隣を見ると長い髪でスカート姿の彗が片手で髪を押さえ、もう片方の手でスカートを押さえていた。
「ここから先は歩きなの。出入り口は途中の階の三階だから二階分を下に降りるの」
トランクから自分の荷物を取り出した彗はそう言って先に歩き出す。万代もキャスター付きの大型バッグを引っ張り出した。
「と、言うと五階建て。そして最上階は五階なのね?」
「ええ、五階は父の部屋よ。
でも各階の天井が他の建物と比べると倍くらい高いので普通のビルだとしたら十階建てくらいになるわ」
坂道はゆるやかな石畳になっていて歩くのは苦ではない。
強い風から守るために右手は自然と崖に付き、そろりそろりとつま先を降ろすように徒歩を進める。
しばらくすると風がやんだ。
道の両側が背の高い岩壁になっていたからである。道はその岩の間を縫うように造られていた。
やがて視界が開け海側の背の高い岩を超えた。
するとグラマン館の全容が見えた。
南国とは思えないほどの荒々しい波が岩にぶつかり砕け散る。
そんな大自然の中に硬質な人工物のオブジェが垂直に聳え建っていた。あまりにも巨大であまりにもミスマッチである。
「驚いた。透明に見えるけどまさかぜんぶガラス?」
「そうよ。ぜんぶガラス張りなの」
「……割れたりしないの?」
当然の疑問である。
視線と同じ高さに最上階があった。
部屋は総ガラス張りで壁ぜんぶが窓であり壁であった。だがその内側は隠されていた。中からカーテンが引かれているのである。
「水族館の巨大水槽に使うアクリルガラスと同じらしいの。強度は推して知るべしね」
「呆れた」
本当に呆れた口調で万代は言う。
屋敷の形は円柱形の塔だった。
直径は三十メートル以上だろうか。下を見るとまっすぐ海面へと建物は続いている。
その高さはかなりのもので、五階建てだが実質十階建てと同じ高さと言う言葉は頷ける。
遙か下は波が押し寄せる海面で屋敷の底は見えなかった。
屋敷の基部は海底に直接設置したのかあるいは太い柱を何本も立ててその上に鎮座した形なのかわからないが、グラマン館の形状は海から伸びた巨大なガラス試験管だといえばわかりやすかった。
「……水族館と違うのは内側が人間で外側が海ってことか。……まさに道楽ね」
「そうね。どうもグラマン氏はこの領地購入よりも屋敷の建造の方が高くついたらしいわ。
ガラスは完全に透き通って見えるけど、五階でも厚さは五十センチ以上あるらしいの」
彗の説明によると屋敷は下の階に行くにつれて徐々に太くなっているとのことである。
「まあ考えたら下の方が重みもかかるし、波の衝撃なんかもあるから当たり前か」
万代はそう言って改めてグラマン館を見下ろした。
「……あれは橋?」
「ええ、屋敷と外界がつなぐ唯一の通路よ。あそこが玄関がある三階なの」
空中を渡る一本の鉄橋だった。
見ると橋の幅は二メートルほどで両側に手すりがあるだけの簡素な構造だった。
やがて橋に到着した。
「二階近くが海面なのね」
橋を渡りながら万代はそう尋ねた。
ここが三階だとすれば下には二階、一階とあるのが普通だが、今は二階の足下近くまで波が押し寄せていている。
その下に存在するはずの一階は完全に水没していた。波間に数匹の黒っぽい魚影が見える。
「今は潮が引き始めたからこれからもっと潮位は下がるけど、満潮になると二階の天井くらいまで来るときも多いわ」
「ここは大丈夫なの?」
万代は橋の欄干を叩く。
「橋のこと?」
「そう。そのときは波飛沫とか来るんじゃないの?」
「ええ、そうよ。
夕方までは飛沫だけですむけど、今は新月の頃だからそれ以降はもっとよ。だからなのだけれども……」
彗はそこでいったん言葉を切り万代を振り返った。
「……ひとつ忠告しておくわ。この辺りは元々潮位の差が激しいの。
そして夜には決まって強い風が吹くから波の高さは更に上がるからまずこの橋は水没するわね。
だから私たちは例え干潮の時間になっても日没後は決してこの屋敷から出ないようにしている……」
彗の説明によると、ここの潮位差は相当なもので満潮と干潮の差が時には十五メートル近くなることもあるとのことだ。
同様な条件を持つらしいカナダのファンディ湾とかいう場所同様に、潮位の差を利用した潮汐発電施設の設置を、この屋敷を造ったグラマン氏は本気で検討していたくらいであったと告げた。
「なるほどね……ガラス張りの透明な塔だけど陰謀は隠されて見えない。
そして夜は外界から完全に孤立した閉ざされた城……か」
万代は歩き出した彗の背中を見ていた。
そしてその向こうに聳え建つ屋敷を改めて見上げる。
館は朝陽を全身に浴びて白く反射していた。それがグラマン館であった。
□
「……中は涼しいのね?」
「総ガラス張りだから空調設備は相当強力なのよ」
外の熱気が嘘のようだった。
明るさは外界と同じだが別世界である。
人影はなく硬質な素材の床に彗と万代の靴音がカツカツと響く。
玄関の中は天井が遙か頭上にあるとても広がりがあるロビーであった。
日本の一般的な二階建ての建売住宅がすっぽり入る高さで広さは二軒分はある。
湾曲した壁の左側に上の階に繋がるスロープがあり、同じく右側には下の階へと降りるスロープがあった。
「誰かを呼んで来るから少し待っててくれるかしら……」
そう言って彗はこの階の奥へと姿を消した。万代は荷物ともに一人残された。
ロビー中央にはガラス張りの噴水があった。
中央にはやはりガラス製の透明な太い円柱がありその上に大きな金属製の立像がある。
顔立ちがはっきりしない男性の裸体像であった。
高い天井を見上げると無数の大きなガラス製のシャンデリアがあった。
空調の強い風に吹かれてかすかに揺れている。
「誰?」
遠くから声がした。女の声だ。
万代はぐるりと周囲を見回した。
すると……スロープの所に車椅子に座る少女の姿が見えた。上の階から降りてきたところだった。
「あなたが恵?」
少女はこくんと頷いた。
彗に見せてもらったレポート同様に長い髪とフリルがついたブラウス姿で、膝の上にはクマだがイヌだかがピエロの扮装をしたぬいぐるみが置かれている。
万代はゆっくりと近寄った。四階から降るスロープの終点付近である。
「……もしかして万代姉ちゃん?」
「当たり」
万代が来ることは慧から事前に聞かされているのは容易に想像がついた。
だがそうは返答したものの……なんともサラダにかける卵と酢でできたソースのような万代姉ちゃんという響きに苦笑する。
目線は落ち着かなく恵は少し警戒しているようだった。
内に籠もった少女なのだから人見知りは当然と思えた。だが万代はその視線がほんの一瞬だけ上に向けられたのを察知した。
――そして聞こえるカタンという音。
「……あぶない!」
万代は瞬時にダッシュした。
そして恵を抱きかかえて両手の中で守るように床を転げた。その足下にガシャンという激しい衝撃音がした。ガラスと金属が硬い床で砕ける音だ。
やがて訪れた静寂の中、万代はゆっくりと目を開けた。すると腕の中の恵が全身を振るわせてまっすぐに万代を見つめていた。
「……大丈夫?」
「……うん。万代姉ちゃんは大丈夫?」
「私? 私は平気よ」
わずかの差であった。三十センチ後方に砕けたシャンデリアがあった。
直径は一メートル以上の重量感たっぷりなものだ。直撃していたら大怪我は免れない。
真上を見上げるとびっしり並んだシャンデリアの中に一部がぽっかりと空いた歯抜けのような天井が見えた。スロープにほど近い位置である。
落ちてきたのは数多くあるこれらのシャンデリアのひとつに間違いない。
万代は服をはたいて破片を落とす。
「……どういうこと?」
万代は倒れた車椅子を起こしそこへ恵を座らせた。そして砕けたシャンデリアの取り付け金具を見て唸る。
「な、なにが起こったの?」
奥から姿を見せた彗が走って来る。
そしてその後ろに五人ほどの姿が見えた。すべて中高年で男性が二人、女性が三人であった。
「どうもこうもないわよ。いきなりこれが落ちてきたの」
人々は無言で足下のかつてシャンデリアだった残骸を見、上の天井を仰いだ。
「二人に怪我は?」
彗が尋ねる。
「ないわ」
「……万代姉ちゃんに助けてもらったの」
肩をすぼめて縮こまる恵の小さい身体が一層小さく見えた。その手は彗の袖をしっかりと握っている。
「こういうことが毎日?」
「ええ、ほぼ毎日……」
小声で万代が彗にささやくと同じように彗が小さな声で返答した。
「村田さんたち、まもなくお客様が見えますのでこれを片付けてください」
黒い上着を着た男性が双子と思える中年女性たちにそう命じた。まるでコップが床で割れた程度の平然とした様子である。万代はその男の態度にカチンと来た。
「ちょっとそれはないんじゃない? あなた使用人でしょ? 主人の娘が危ない目にあったのにその態度でよく仕事が勤まるわね!」
だが男性はそんな万代を見下すように冷ややかな視線を向ける。
「怪我はなかったのだから特別騒ぎ立てるような必要はありません」
「ど、どういう意味?」
「私はこの屋敷の主である敬一様に長く仕えているのです。今日から仕えるあなたに指図される覚えはありません」
「……下郎」
万代は怒りのままに拳に力を込める。
「……やめて万代姉ちゃん。ケンカはヤだよ」
驚いたことに万代の腕を掴んだのは恵であった。
万代はそれでなんとか思いとどまる。正直、二、三発叩き込んでやりたいと感じていた。
男は山下幸三というこの家の執事であった。
年齢は六十一歳。身長一六一センチで中肉中背。三年前から勤めている迫水敬一の秘書兼執事だと聞いている。
執事として当主の敬一氏から信頼されているというが、冷ややかで融通がまったく利かないタイプなため彗たち兄妹の評判は悪い。
その山下の横にいるのはその妻の聡子で料理を担当している。
腕はいいが寡黙な女で、彗でさえ必要以上に話したことはないという。
その夫妻が当主の敬一氏とともにニコバレンに来たのは三週間前である。
「村田さんたち、お願いしますよ」
「はい」
一瞬の沈黙の後、村田と呼ばれた中年姉妹が片付けに取りかかる。
女性たちは住み込みの家政婦で双子であると紹介された。背丈はどちらも一五○センチ半ば程で、共に同じく痩せ気味の体型だった。
姉が茜で妹が椿という名だが万代にはどちらが茜で椿なのか区別がつかなかった。
「どれ、私も手伝いましょう」
もうひとりの男性がそう申し出る。穏やかな表情の好々爺だった。
「そんな、先生。私たちだけで大丈夫ですよ」
「いや、私は正直暇なのですから」
そう答えたこの男性は、この家の顧問弁護士で中西安治という老人だった。最近契約したばかりで日本からわざわざグラマン館を訪ねて来たと言う。
「取りあえず恵を休ませましょう」
彗の提案に頷いた万代は、恵の車椅子を背後から押した。
そして緩やかで長いスロープを登り始めた。
そして先ほどまでシャンデリアが吊されていた場所に目をやる。そこには残された細いワイヤーが空調の風に揺れているのが見えた。
よろしければなのですが、評価などしてくださると嬉しいです。
私の別作品
「甚だ不本意ながら女人と暮らすことに相成りました」連載中
「墓場でdabada」連載中
「甚だ遺憾ながら、ぼくたちは彼の地へ飛ばされることに相成りました」完結済み
「使命ある異形たちには深い森が相応しい」完結済み
「空から来たりて杖を振る」完結済み
「その身にまとうは鬼子姫神」完結済み
「こころのこりエンドレス」完結済み
「沈黙のシスターとその戒律」完結済み
も、よろしくお願いいたします。