04話:兄はこうして見えない形で私をアシストしてくれているらしい。
【毎日昼の12時と夕方の18時の2回更新します】
神奈川県三浦郡葉山町。
ニコバレンと同じく冬の一月。
夜来の冷たい雨は先ほど止んだ。雪にこそならなかったものの海から吹きつける風はやはり相当寒い。
国道からひとつ逸れた交通の少ない裏道は鬱蒼とした木々に囲まれた閑静な屋敷が建ち並んでいる。
そのいちばん奥に澁瀧澤家の門構えがあった。
松林に囲まれたその奥に黒光りする瓦屋根を持つ寺院のような屋敷が垣間見える。
門を潜った一台の黒塗り高級乗用車がゆっくりと苔むした庭園を抜けて車寄せに近づいていた。
「母はおりますか?」
玄関脇に止まった大型セダンの後部座席から降り立った澁瀧澤宗一郎はドアを開けてくれた出迎えの執事の田代にそう尋ねた。
田代はこの屋敷に宗一郎が生まれた頃から勤めている男である。
年齢はもうすでに七十を過ぎているはずだが伸びた背筋と軽い足取りはいつ来ても変わらない。
「はい。奥様は執務室にいらっしゃいます。日課であるカナリアの世話でもされているかと」
「カナリア? ああ、あのカナリアね。大騒ぎになった」
「はい。先日大騒動になったカナリアです。
奥様はきっと狭い籠が嫌で逃げたのだとお考えになって一回り大きな籠に取り替えたばかりです」
田代の言葉に宗一郎は頷いた。
宗一郎の母は友人にもらったカナリアを大事に飼っている。
だが先日不注意で籠から逃げ出したのである。
幸い逃げた先が屋敷の中だったので捕まえることはできたが、屋敷中が大騒ぎになったと聞かされている。
だがそれ以来美声でさえずっていたそのカナリアは歌うことを忘れてしまっていたらしく、
母はそのことを電話先でしきりに嘆いていたのであった。
「しかし……謎が解けました。
奥様は今朝は早くからどことなくそわそわされたご様子でありましたが、坊ちゃんのお姿を見て納得致しました」
「今日は朝から会議があったんだ。……まったくやれやれだよ。
いい年して母の呼ばれたから早退するなんてね。
それと坊ちゃんはやめてくれないか、この年でそう呼ばれるとさすがに恥ずかしい」
本当に照れた宗一郎は頬を染めて少年のような笑顔になる。
田代はこれはこれはと言いながら、では《常務》と呼び直し屋敷へと宗一郎を促した。
玉砂利にふたりの足音が響く。
澁瀧澤宗一郎はこの屋敷の主である縫の一人息子で大手製薬会社であるシブタキ製薬を中心とした巨大企業グループの重役である。
会社の新人女子社員のほとんどは本気で二十代半ばと思いこんでいるが事実は今年で三十九歳。
だがそうは思えないさわやかかつ若々しい容姿で社内に隠れファンクラブを三つ持つと噂されている。
「他の来客はいないようだね。まずはひと安心だ」
駐車場にあるのが屋敷の車だけであることを確認した宗一郎はいたずら小僧のように舌を出す。
「いや待てよ。玄関に見知らぬ女性用の靴もないことを確認しないと本当に安心とは言えないね」
そう言ったのは過去になんどもだまされた苦い経験があったからである。
「桜の花が咲きましたよ。綺麗な絵を飾ったのよ。お父様の命日なのだから……。
あれやこれやと理由をつけて呼び出されて来てみればいつもいつも欺されてばかりだからね」
「ああ、そう言えばそんなことがありましたな。一度など私が急病で倒れたとかおっしゃられたことも」
田代は宗一郎がなにをいいたいのか理解した。そして乾いた声でハハハと笑う。
宗一郎は、また今回も勝手にお見合いの場を用意されているのかと勘ぐっているのがわかったのである。
「そう言えばあったね。あのときは本当に驚いたよ。だからすっかり欺された」
玄関に着いた。
嬉しいことに見知らぬ履き物はなかった。
宗一郎は出迎えた家政婦や、会社から派遣されている秘書たちに軽く手を振り迷路のような屋敷の中をすたすたと奥へと進んだ。
案内はいらない。
それは宗一郎が生まれたときから大学を卒業するまでこの家に暮らしていたからである。
屋敷に中はそのときとなにひとつ変わっていなかった。
□
屋敷の奥から母屋を離れて庭に建つ離れがある。
その離れ自体重厚な建物で一般的な建て売り住宅よりも遙かに大きく豪華である。
ここは母屋同様に大正時代に建築されたものである。
宗一郎は渡り廊下を歩き詰め所の秘書に黙礼をする。
この離れは縫の執務室である。
シブタキグループに限らず大手企業の相談役の勤務時間とはあってないようなものだが、
公私のけじめとして昼間のほとんどを縫はここで過ごす。
ただし必ずしも仕事だけとは限らない。そして今日もそうであった。
離れ内部は板張りの廊下があり右手には庭園を望むガラス戸がある。
左手は太い柱が建ち並びそのあいだ間に洋式の部屋がある和洋折衷の造りになっていた。
この廊下のいちばん奥が縫の執務室である。
「お母様、ご無沙汰しております」
心なしか小さな声になった宗一郎は母の執務室に足を踏み入れた。
天井が高く奥行きのある室内にすばやく視線を巡らし、ホッと息をつく。
部屋の中にいるのはひとり。
籠のカナリアの世話をする縫の他に女性の姿はない。
籠は前に見たものよりも確かに一回り大きくなっていた。
「宗一郎さん、あなた私に隠し事をしていませんか?」
挨拶も抜きに縫がいきなり尋ねてきた。
縫は今年で六十八歳になる。小柄でやせ型。
だが一分の隙もない和服姿と意志の強い目は年齢をまったく感じさせない。
そんな母が宗一郎は少々苦手である。
「はあ、まあ、あると言えばありますし、ないと言えば……ないかと」
「とにかくまずはお掛けなさい」
そう言って縫は宗一郎に目の前の席への着座を勧める。
はい、と返事をし温和しく座った宗一郎だが、
取調室でベテラン鬼刑事と向かい合う容疑者とその心境は変わりない。
「妾の子が見つかったそうですね?」
万代のことである。
万代の義母である縫のその突き放すようなその口ぶりからは、娘に対する愛情はまったく感じさせない。
「……よくご存じで。いや……実は近々その話を申し上げようと思っていたので……」
「――言い訳は結構」
縫はぴしゃりと告げた。
宗一郎の視線は知らず知らずに下になる。
母の情報網を決して侮っていた訳ではない。ニコバレンにシブタキ製薬の現地事務所が三ヶ月前できたことからこうなるのは時間の問題だとはわかっていた。
宗一郎が万代の所在を知ったのはそれより早く半年前のことである。
しかしこの話は非常にデリケートな問題なので、時を窺い母の機嫌が良いときにでも打ち明けようと思っていたのである。
万代がこの家に来たのは十一歳の頃。
今は亡き父の昇太郎が七十歳のときに愛人に生ませた孫ほど違う娘が万代であった。
だが万代の母は万代が小学生のときに死去し、身よりのなくなったことからこの屋敷に引き取られたのである。
腹違いではあるが宗一郎に取って唯一の兄妹が万代であった。
「呼び戻しなさい。
私は無理としても兄のあなたの言葉なら万代は聞くはずです」
「しかし……万代は向こうでの生活がすでにあります。
もうしばらくしてからでもいいのでは?」
縫は即座に首を振る。
「宗一郎さん、あの子はいくつになりました?」
「十八ですね」
「聞けば学校に通っていないそうですね」
「ええ、そう聞いています」
「今からでも遅くはありません。
高校に……、そうですね。二度と跳ねっ返りなことができないようにそれなりの学校に通わせます」
「それなりとは?」
「二度と逃げ出せないような全寮制で躾の厳しい学校のことです」
宗一郎は頷いた。
確かにそういう裕福の家庭の子供たちだけを入学させる学校はある。
教師の監視が絶えないことで学力向上に効き目があることはもちろんのことだが、
それ以上に効果があるのは絶対に間違いを起こさせないためである。
名門の家庭がいちばん恐れるのは世間体である。
スキャンダルな事件を起こして不必要にマスコミや世間の注目を浴びるのはなんとしても避けたいからだ。
宗一郎はそういう学校に通う万代を想像してみた。
だが途端に笑みが浮かんでしまう。そしていつしか笑い声が勝手に口を出ていた。
「なにがおかしいのです?」
「いや……。お母様それは無理ってもんですよ」
「なにが無理なのです」
「あの子……万代は何度でも逃げ出しますよ。
捕まっても捕まっても何度でも逃げようとします」
「……」
「万代は自由なんです。だから生き生きしています。
そしてそれは自分ひとりの力で生きているからです。もし私たちが力を貸すことでもしたら万代はあの鳥と同じことになりますよ」
「あの鳥?」
縫は宗一郎が指さす先を見た。
そこには籠の中で落ちつきなく無言で動き回るカナリアの姿があった。
「あのカナリアは元々籠にいたのです。
だからさえずらなくなったことと先日逃げ出したのを捕まえたことに関連があるとは断言できません。
それに鳴かないのは籠が前よりもずっと広くなったからまだ落ち着かないだけかもしれません」
憎々しげにそう言う縫を見て宗一郎は答える。
「確かに断言はできません。
でも一度外の広さを知ってしまった者には、例えどんなに広い籠を用意してもそれは自由を拒む囲いでしかありません。違いますか?」
「宗一郎さん、あなたが言うのも一理あるかもしれません。
でもそれはあなたが人の親になったことがないからです。あの子は鳥ではなく人間です。
人が人の世に生きるには例え不自由でもそれなりのことを身につけなくてはなりません」
そこで言葉を止めた縫は視線を真っ直ぐに宗一郎に向けた。それに宗一郎が答える。
「そしてこの澁瀧澤家の娘であるのならば、世間体のためにもそれ相当の学校は卒業すべきだと?」
縫はゆっくり頷いた。
「まあ、それに対しては否定しませんがね。
確かに人には学びは必要です。だけど学校で学べることだけがすべてじゃないでしょう?
あるいはむしろ外の世界でひとりで生きていくことの方がもっと学べることが多いかもしれません」
宗一郎がそう告げると縫は執務机にあった写真立てを持って来た。
見るとすっかりセピア色に変色した白黒写真が収まっていた。
古風な飛行服を着た若い男の写真で、背後にさほど大きくはないプロペラ機が写っている。
その男はどこか縫と似た面影があった。
「どなたです?」
「あなたのいちばん上の伯父上です」
「と、言いますとお母様のお兄様ですね」
「ええ、兄の京極院勝。
第二次大戦中ニコバレンで亡くなりました。陸軍の飛行機乗りでした」
縫は遠い昔に思いをはせるように目を閉じた。
「……そうですか。
え? 陸軍ですか? ニコバレンは周りがすべて海の島国ですが?」
「当時は二戸馬連と呼ばれていて日本統治領でした。
もちろん駐在しているのは海軍がほとんどですが、陸軍の部隊もわずかながらいました。
そして兄はその戦闘機隊の隊長だったと聞いています」
縫はテーブルの上に指で二戸馬連と書いた。宗一郎も真似してみる。
「なるほど。それは知りませんでした」
「……最愛の兄を亡くした不吉な土地に私の娘を置いておくことは許しません。
例えこのお腹を痛めていない子であってもです」
「なるほど……」
そう言って宗一郎は深く目を閉じた。
「お母様の強い意志はわかりました。
だが……ここは私に任せてくれませんか?
なあに気まぐれな若い娘のことです。万代もいつまでもニコバレンにいるつもりではないでしょう」
宗一郎はここで意図的に一息入れる。
長すぎる話は相手に正確に伝わらない。まるで仕事上の交渉事のときのようだと思った。
「そして学校のことですが、あいつの頭なら今から高校に入り直さなくても大学受験の資格など一発で取れますよ。
苦手な英語もニコバレンですっかり覚えたみたいですしね。だからもう少し待ってください」
ふたりはしばらく無言のままになった。
鼻をつんととがらせた小生意気なチビ娘……。
それが宗一郎に取っての当時の印象であった。
万代がこの屋敷に来た十一歳のとき、宗一郎はすでに三十二歳であった。
親子ほど年が違う兄妹……。
万代は新しい母である縫にいつまでも懐かずに、縫さんと呼び続けていた。
叱られても叱られてもそれは一行に直らなかった。
涙いっぱい浮かべながらも決して屈しない強情な少女。それが万代であった。
それから四年の月日が流れた。
受験に受かった高校に初めて通う日の前の夜、万代が宗一郎の部屋を訪ねてきた。
そして、明日から新しい生活を始めようと思う、とだけ告げて去って行ったのである。
それが明日からの新しい学校生活のことではなく、
遠い異国の地でひとりで生きていくことを意味していたのを宗一郎が理解したのは、
なにもなくなった万代の部屋を見た翌日のことだった。
痛快な妹だと思った。
「訊きたいことがあります」
沈黙を先に破ったのは縫の方だった。
「なんでしょう?」
「宗一郎さん、あなたはどうして万代を見つけることができたのですか?」
「その回答はひとりに人物に行き着きます。
私が海外赴任していた先で出会い心を許した親友がいます。
その男がニコバレンで万代と同じ仕事をしたことから万代を見つけることができました。
そして万代のことを頼んであります。信頼できる男です」
「仕事? あの娘はどんな仕事をしているのです?」
「……日本人観光客相手の仕事です。……通訳などをしているようです」
宗一郎はそこで言葉を切った。
内容は嘘ではないが万代が、マヨネーズの異名で裏社会で恐れられていてそれ以上の仕事をしているとはさすがに言えないからである。
「確かなのですね?」
「……はあ、確かです」
「違います。あなたのその友人のことです」
「と、言いますと?」
「間違いは決して起こらないと言えますか?」
縫の顔は真剣であった。だが宗一郎はその真意がわからない。
「間違い、ですか?」
「……仮にも万代は年頃の娘なのですよ。
開放的な南国で、その男と間違いが起こらない可能性のことを訊いているのです」
は? と一瞬固まった宗一郎だったが次の瞬間には吹き出していた。
「なにがおかしいのです?
独身のあなたには男女の色恋のことがわかっていないのです。
恋は思案の外と言うもので何が起こるかわからないものなのです」
「いや、すみません。
そういうシチュエーションは考えても見ませんでした。
あいつの好みと万代は明らかに違うし、私と同年代ですから万代のことはせいぜい姪っ子程度にしか思っていないでしょう」
……恋は思案の外、なるほどな。
宗一郎は我が身のことを振り返りそう感じた。言い得て妙だと思ったのである。
「こう考えてはどうでしょう? 冒険のない人生なんてつまらないじゃありませんか?」
そういって立ち上がった宗一郎はカナリアの籠に手をかけた。
一瞬躊躇したカナリアだったが開かれた扉から翼を広げ外へと羽ばたいた。
縫はハッと息を飲む。
「どうです?」
満面の笑みを浮かべた宗一郎が振り返る。
執務室には自由を得て飛び回るカナリアの美しい囀りが響いていた。
「……そうですね。
私は少々臆病になっていたのかもしれません。飛べる鳥は羽ばたくことに意義がある……」
カナリアの声に耳を傾けながら縫は言う。
「意義? なんのことです?」
「亡くなった兄の言葉です。
兄が乗っていたのは隼という戦闘機でした。
兄は押し寄せるアメリカの新型グラマン戦闘機の群れに立ち向かい、弾が切れるまで獅子奮迅の戦いをしたそうです。
戦後遺骨を持って来てくださった部下の方が、生前兄がそうよく話していたと聞きました」
「……」
「部下の方がおっしゃっていました。
隊長は飛べることがなによりも嬉しいと常日頃口にしていました……と。
だから地上で座して死を迎えたのではなく大空に散った兄は案外満足だったのかもしれません」
初めて聞く話である。
宗一郎は母に兄がいたとは聞いているが、そういう死に方をしたとは知らなかった。
そして伯父が死んだニコバレンに今は万代がいることになにか運命的なものも感じていた。
「万代のことは少し待ちましょう。でも……それには条件があります」
縫は表情を引き締めた。それを見て宗一郎は席に戻る。
「さて、なんのことでしょう?」
「宗一郎さん、あなたが身を固めることです。
嫡男のあなたがいつまでも独り身でフラフラとしていることは許しません」
「ですから……それは――」
「――宗一郎さん、あなた私に隠し事をしていませんか?」
縫は宗一郎の言葉を途中で切った。
「はあ、まあ、あると言えばありますし、ないと言えば……ないかと」
「最近、密かにおつきあいしている女性がいるそうですね。
……あなたはもういい年になりましたので、私も細かいことはあれこれいうつもりも、もうなくなりました。
どんな家庭の娘でも躾次第でどうとでもなりますが、世間に対して恥ずかしい女だけは困ります。
あなたには女性を見る目がないのでそれだけが心配なのです」
「……はあ、まあ……」
宗一郎は近頃、自動車教習所に通い始めていた。
幼い頃から運転手がいるので外出に困ることはなかったのであるが、自分でも運転してみようと思い自動車免許を取得しようと考えたのである。
そしてそこで出会った女性がいた。同じ教習生だった。
女性は夫に先立たれ生活基盤を失ったことから免許を取得して自立しようとしている未亡人であった。
出身は平民、そしてバツイチ。
明らかに母が好まない条件を持つ女性。それが宗一郎が恋した会田葉子という女性であった。
よろしければなのですが、評価などしてくださると嬉しいです。
私の別作品
「甚だ不本意ながら女人と暮らすことに相成りました」連載中
「墓場でdabada」連載中
「甚だ遺憾ながら、ぼくたちは彼の地へ飛ばされることに相成りました」完結済み
「使命ある異形たちには深い森が相応しい」完結済み
「空から来たりて杖を振る」完結済み
「その身にまとうは鬼子姫神」完結済み
「こころのこりエンドレス」完結済み
「沈黙のシスターとその戒律」完結済み
も、よろしくお願いいたします。