03話:私はこうして乳バンドの意味を知り、壁の向こうへと向う。
【毎日昼の12時と夕方の18時の2回更新します】
翌朝、万代はまたしても早起きをする羽目になっていた。
むろん迫水彗に依頼された仕事を引き受けたからである。
「うー……」
気分は重度に鬱だった。
重いまぶたを開けるとめまいの後に頭痛と吐き気が同時に襲ってくる。
おまけに低血圧な性分から全身に力が入らない。
ベッドから足を伸ばしつま先で目当てのものを探し当てようとするが、ひんやりとして軽いなにかをひっくり返してしまう。
だがそれには構わない。
さらに足をブラブラさせる。そして宙を彷徨う裸足が目当てのスリッパにようやく触れた。
ひんやりと冷たかった。
「……最悪」
突っ伏した姿勢で万代はそう呟いた。
途端に気の抜けてしまった発泡性アルコールの臭いが鼻についた。
先ほど倒したのが昨夜の飲みかけのビール缶だとわかったからである。
万代は濡れたスリッパを突っかけてシャワールームに向かった。
手にしたのはバスタオルである。
そしてハンドルを捻った。だがシャワーヘッドから出てきたのは水である。
万代はここ三年間まともにお湯のシャワーを浴びたことがない。
それは徹底的にメンテナンスを怠っているこの空き倉庫のボイラーが原因であるのだが、
平均気温が二十七度のニコバレンでは身体が慣れてしまえばそのことはそれほど苦痛ではない。
タオルで頭をガシガシ拭いているとコーヒーの香りが漂っていることに気がついた。
どうやら相棒の青咲が起きているらしい。
万代は履き替えたさっぱり乾いたスリッパを鳴らして、
なんの遠慮もなしに相棒の部屋の中へと頭だけを突っ込んだ。
青咲は電話をしている最中だった。
漏れ聞こえてくるのは日本語。話しぶりからして国際電話に思えた。
ここリトルヨコハマに暮らす日本人との会話では必ずといっていいほどニコバレン訛りの英単語が混じるからで、それがない純粋な日本語なのだから相手は日本人に間違いない。
だが話内容を盗み聞きするつもりのない万代はリビングへと戻った。
そして湯気と香りが立ち上るコーヒーメーカーに歩み寄り持ち上げてみる。
中身はちょうど一人前であった。
「なんだ来てたのか?」
不意に声がする。
いつのまにか電話を終えた青咲がリビングに戻ってきたのだ。
だが万代は無言のまま椅子の上で両膝を抱えたままである。
「なんて格好だい、それにお前、それは俺のコーヒーだ」
万代は洗いざらしの生成無地の大きめなTシャツ一枚、下は素足である。
「……気持ち悪い」
「ん? なんだ?」
青咲は万代に歩み寄るがとたんに自分の鼻をつまんだ。
「う、お前二日酔いかよ……今日も仕事があるんだろ? そんなんでいいのか?」
「……説教は勘弁。
ここの国じゃ十八歳の飲酒は合法よ。親みたいなこと言わないで。
ちゃんと仕事までには酔いは醒ましていくから」
青咲は万代が手にしていたマグカップを横取りする。
その中身はほとんど減っていなかった。
「酒飲むなんて珍しいじゃないか。振舞酒しか飲まない倹約家のお前にすれば」
「……前金がね。ちょっとしたお金が手に入ったから昨晩部屋で飲んでたのよ」
青咲はカップを口に近づけながら万代の向かいの席に腰を下ろす。
筋トレの後らしく首にはタオルを巻き、上はタンクトップ、下は迷彩色のアーミーパンツである。
「前祝いか? それにしちゃえらく冴えない面だな」
「そんなんじゃないわよ……。
嫌なのよ。
外じゃどんな自分を演じていてもそこに帰ってくれば本音でいられるってのが本当の家族でしょ?」
「……それが今度のお前の仕事なのか?」
万代はそれには答えずに濡れた前髪をクシャクシャにする。
「ねえ、グラマン館って知ってる?」
「相変わらず突然だな。――金持ちで人見知りの爺様の屋敷だろ?
ずっと不在にしていたが最近日本から戻って来たらしいな」
「他にはなにか知ってる?」
「うーん……。
あそこに限らずだが鎖国を貫いている租界地だと、
情報がまったくと言っていいほど入って来ないからな。
あ、そうそう、小耳に挟んだんだがグラマン館にはいろんな企業の社用車が、
ちらほら出入りしているらしいな」
「日本の?」
「いや日本だけじゃない。アメリカや中国系の企業も混じっているらしい」
「土地の切り売り? 相当広いようだけど」
「わからん。だが場所は治外法権……。
ニコバレンの法律にも縛られないから税制面だけでなく他の法律からも束縛されないからな。
それなりにうま味がある取引でもあるんだろ」
「そう……」
「次の仕事はそれか?」
万代は小さく首を横に振る。
「そこのお嬢様から仕事を依頼された。車椅子の少女のお守り」
「なんだ楽な仕事じゃねえか」
青咲は煙草に火をつける。
万代は手を伸ばしてマグカップを奪い返す。そして一気に飲み干した。
「そんなんじゃないのよ。その子……命を狙われているらしいの」
「なんだ遺産の奪い合いか? 犯人はどうせ身内だろ? わかりやすい事件だな」
「たぶんあなたの言う通りだと思う。だからこそ嫌な仕事なの……」
そうして万代は両膝に顔を埋めた。そんな万代を青咲は煙を吐きながら黙って見つめていた。
万代には他人には教えていないもう一つの名前がある。
――澁瀧澤万代――
実はこれが万代の本名であった。
澁瀧澤家は旧華族の家柄で『シブタキ製薬』を中核とした巨大グループを経営する一族である。
万代は十一歳のときに母を亡くしたことから澁瀧澤家に引き取られ十五歳までそこで過ごしていた。
そこでの生活はなに不自由しないものだった。ただし経済的にだけである。
万代の新しい母親は万代からすれば祖母といってもおかしくないくらいに年が離れていた。
そしてその養母は名家から嫁いできたプライドの固まりのような女で、万代とは全てにおいて価値観が異なる女性であった。
そのことから万代は中学卒業後、高校の初登校日にそのまま家を飛び出していたのである。
「……気になることがあるんだけど妙なこと訊いていい?」
ふいに頭を上げた万代は真っ直ぐに青咲を見つめる。
「ああ」
青咲は灰皿を引き寄せた。
「最近若い日本人の女から行方不明の男を捜して欲しいって依頼受けた?」
「それはお前が受けた仕事じゃねえか。美人の依頼人から頼まれた仕事だろう?」
あきれ顔で青咲は答える。
「そうなんだけど、あえて訊いているの」
「ない」
隠し事をしている顔ではない。
同業者として長いつき合いになる万代にはそれがわかる。
「……そう。じゃあ仲間内ではどう? なんか聞いてない?」
「ない……お前、なにが言いたい?」
「……なんでもないわ」
万代は窓の外の遠くを見つめた。
なにかありそうな気がするのだが二日酔いの頭では冴えた回答が浮かばない。
視界の隅で青咲が口を開きかけてまた閉じるのが見えた。
「まあ、なんだ……つまりお守りってことはメイドみたいなものだな」
沈黙を先に破ったのは青咲だった。
「まあ、そうね」
「そんな服じゃまずいだろ?
お前フリルが付いたフリフリのメイドの制服持ってるか? なければ俺が手配してやろう」
「……バカ」
万代はため息をついて起きあがる。そしてドアへと向かった。
「……ありがと。コーヒーご馳走さま」
「ひとつ言っておく。お前だまし舟って知ってるか?」
「だまし舟? ……折り紙の?」
ドアノブにかけた手を止めて万代は振り返った。
「ああ、そうだ。
これは俺の杞憂になるのかも知らんが、おそらくその屋敷の小娘を狙っているのは身内だろう。
だがもし予期せぬ展開になったら視点を変えてみろ」
「つまりだまし舟のように舳先を掴んでいたと思ってたら、
実は帆を握らされていたことになるかもしれない、ってこと?」
「そうだ。それともうひとついいか?」
「なに?」
万代は改めて青咲に向き直った。
「メイドの服は冗談だが、せめて乳バンドはしておけ……。
お前のそんな胸でも目のやり場に困ることがある」
乳バンド……?
古風な表現に一瞬思考した万代だが、青咲の視線を見、自分の胸元に視線を落とす。
わずかな膨らみだがその形だけはしっかりとTシャツに浮き出ていた。
……っ!!
万代はバシンとドアを勢いよく閉めた。正確に言えば蹴飛ばしたのである。
「オヤジ! 変態! 死ね! ばかやろう!」
廊下からは万代のののしり声が盛大に聞こえてきた。
□
パンツスタイルのスーツ姿で万代は車に乗っていた。
自らハンドルを握らずに助手席に収まっているのは久しぶりだった。
乗っているのは貴族に相応しいドイツ製の純白大型高級クーペ。
運転しているのは迫水彗。
そして向かう先はグラマン館である。
ちなみにではあるが、この国では電気自動車はまず見かけない。
電力供給が不安定でちょっちゅう停電を起こすこの国では、電気で動く自動車は実用的ではない。
そしてそもそも充電できる箇所がほとんどないからだ。
「どうしたの? 私ばかり見て」
彗が質問するのも無理はない。
万代は前ではなく左横に座る彗の胸元ばかり見ていたからだ。
「……乳バンドしてない」
「え? 乳バンド?」
大きくあいた胸元に彗は手を当てる。
そこには凹凸だらけのアスファルトの振動を拾って上下する、ほれぼれするほど見事な胸が収まっていた。
「……なんでもないわよ。
働かず暮らせるお嬢様にしては運転が上手いと思っただけ。
これ純粋に褒めているだけだから他意はないわよ」
「ありがとう。
……でもあんまり上手くないのよ。日本でもこれと同じ車も運転しているから慣れているだけなのよ」
並の人物がこれを言えば自慢か嫌みにしか聞こえないが、
彗があんまりさらりというので万代は口をつぐんだ。
信号が赤になり彗は車を停車させた。
その両脇を三人乗り、四人乗りの現地人のバイクたちがけたたましくクラクションを鳴らして、
信号無視で通過して行った。
車はやがてニコバレン市の中心街を抜けた。
辺りは薄暗い森になり建物も通行する車両も極端に少なくなる。
アスファルトの路面を横切り蛇行する乾いた茶色い幅広い筋が見えた。
南国特有の大量の降雨が運んだ泥水の乾いた跡だった。
対向車が来た。小型のバイクだった。
その両脇には天秤にぶら下げられた一抱えもある褐色の羽毛の束が見える。
よく見ると、それらは全部両足を縛られ逆さまに吊された何十羽もの生きたニワトリで、
市場で生きたまま食肉として売られるものであった。
道の両側に並ぶ樹木のすべてに根元から、一メートルほどの高さまで白ペンキが塗られているのが見えた。
街灯が一切ないこの道で、夜間に道路を見失った車両の立木への激突事故を防ぐためであった。
そしてしばらく走り続けた。
すると視界が開け道端にガソリンスタンドが見えた。
彗は給油のためにそこに車を停めた。
ドアを開けて外に出ると店員が現れる。
だが店員といってもこの辺りではよく見かける家族で経営する店なので、やって来たのは背中に幼子を背負った中年に差しかかった女性であった。
エプロンで両手を拭いているところを見ると炊事か洗濯でもしていたのに違いない。
「……お手上げね」
そう言って彗は万代を見た。
スタンドの女性は英語がほとんど通じないからである。
公用語として英語が指定されているのが、このニコバレンである。
だが、現地ではニコバレン語の方が一般的だ。
学校へ通っていない子供がまだまだ多いこの国で、
英語が話せるのは上流階級の者、公務で働く者ばかりである。
「ちょっと待って。現地語通訳のお金はもらってないわよ」
「細かいのね」
「でなきゃ年若き乙女がたったひとりで異国で生きていける訳ないでしょ」
むろん万代は本気で言っている訳ではない。からかっているだけである。
「……困ったわね。
だとするとこの車はガス欠でまもなく動けなくなるわ。
すると予定時刻に到着できないあなたにペナルティが発生する。
これは査定に響くけど、どうするの?」
「わかったわよ」
しぶしぶと万代は納得し、店員の女性と価格交渉を始めた。
万代の粘りでかなり割引になったが、それでも純白のクーペはタンクがほとんど空だったことから満タンを要求したことで、子供を背負った女性は満面の笑顔であった。
給油を終えると彗は車の右側に回りキーを車体の屋根越しに投げた。
陽光に反射したキーはきれいな放物線を描く。
それを片手で受け取った万代は左側のドアを開ける。
「運転させてくれるの?」
「通訳のお礼よ」
瞳をキラキラと輝かせた万代の問いへの答えは、小首を微妙に傾げた優雅な令嬢の笑顔であった。
万代は遠慮なく運転席に滑り込む。
エンジンを火を入れる。
すると鎮座する白色の車体は途端に緩やかな身震いを始める。
乗り手が代わったことで、絹のような吹き上がりを持つと世界的に評判であるこの十二気筒エンジンがその本来秘めたポテンシャルを発揮した。
五百馬力の覚醒である。
「飛ばすわよ。覚悟して」
「ご随意に」
けたたましくホイルをスピンさせ、焼けたゴムの臭いを周辺に漂わせロケットダッシュでクーペは車道に復帰していた。
激しく暴れる荒馬のような後輪を宥めた万代はその後適切なハンドル操作とアクセル操作を行い車体は猛然と空気を切り裂いた。
流線型のボディは熱帯の荒野を解き放たれた矢のように疾駆し始めた。
景色は流れ、やがて目の前に追いついた先行車はもはや完全停止したただの障害物に過ぎなかった。
ときには左右に車体を滑らせ、ときにはストレートで数台纏めてごぼう抜きをやってのけた万代が、
目的の領地に到着したのは予定よりも三十分ほど早い時刻であった。
□
視界が開けると左手に高い壁が続いていた。
垂直に聳え立つ灰色のコンクリート製のそれは、高さ五メートル程もある。
「もしかしてこれ?」
スピードを落とした万代が尋ねると彗はゆっくりと頷いた。
「ええ、そうよ。
この先……このまま真っ直ぐに進むと、まだだいぶ距離があるけど入り口のゲートがあるわ」
「なんだか物々しいわね。はっきり言えば国境の壁みたい」
「似たようなものよ。あっち側とこっち側は違う国と考えた方がいいわ」
確かに国境といった方がわかりやすい。
壁は灰色で無地、その上には螺旋状に絡ませた鉄条網が設置されている殺風景さは眺めているだけでも冷たさを感じさせる。
「この土地が伯爵領になったのは租界地制度ができたばかりの初期の頃なのよ。
今ではそんなことはないのだけれど、当時は豊かな外国人資産家が領主になったことで、
恩恵にあずかれると思った人々がかなり押し寄せたらしいわ」
「なるほどね。つまりはベルリンの壁か……」
万代は感心顔で呟いた。
威圧感があるのは当然であった。もともと余人を寄せつけぬために造られたからである。
今から十数年ほど前の話であった。
慢性的な財政難で観光以外にこれといった資産がないニコバレン政府は、国内に数多く存在する未開地や無人島を世界の富裕層に対して所有を持ちかけたのである。
そして多くの外国人財産家がニコバレンの貴族として迎えられた。
その結果共和制であるにも関わらず多くの領主が誕生したのである。
地位はその領地の位置や面積に比例して公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵と無難に分かれている。
爵位は基本的に世襲制だが売買されることも多い。
このグラマン館がある伯爵領も、初代当主であるグラマン氏一族から迫水家が譲り受けたものである。
「で、その押し寄せた人たちどうなったの?」
「そのほとんどが追い返されたらしいわ。
当時伯爵だったグラマン氏はこの土地が大勢の人々で賑わうことを望まなかったみたいなの。
晩年は厭世家だったらしいし、おそらく景色が良い土地で心を許した一部の人々に囲まれてひたすら静かに余生を過ごしたかったみたいね」
「ふーん。なるほどね」
万代はため息に似た相づちを打つ。
制度ができたばかりの頃の話は確かに聞いている。
その当時租界地は駆け込み寺のように人々に思われていた。
貧しさに追われた人々は職を求めて各地の租界地に殺到したのは容易に想像できる。
「私の父も考え方はグラマン氏と変わらないわ。
静かに余生を過ごすためにこの地に戻って来たのだし」
「確かにこの場所は都市から遠すぎるし、
一部の貴族がやっている多角経営には向かないわね」
「それは経済特区やカジノのことかしら?」
彗の言葉に万代はうなずいた。
国内に多くある貴族領の中には自分の城下町を栄えさせた領主たちも多い。
独自の法律を制定し自由商業地域として栄えさせているのである。
さらにニコバレンでは非合法であったギャンブルを合法化して、
ラスベガスのような巨大歓楽街を築き上げた領主などもいる。
世界的に見てかなり特異な制度ではあることは間違いなく、
その前時代的な身分制度に批判の声も世界から寄せられてはいる。
しかし一方で領主がその地位や土地を購入するために支払われた莫大な金は、
ニコバレン国内の学校や病院などの整備に多大に貢献しているのも事実であった。
壁沿いの遠くに尖塔が見えてきた。
その塔は二つあり窓があることから監視塔に思えた。
「あそこが入り口よ」
彗の言葉に万代は頷いた。
万代は車のスピードを更に落とす。
塀は湾曲していて入り口は壁に遮られてまだ見えなかったが、
そこから出たと思われる一台の日本製の高級車が右折してこちらに迫ってくるのが見えた。
黒塗りのその車は社用車で車体に白文字で英語と日本語で社名が書かれている。
高級ホテルを母体としてゴルフ場やスキー場を各地で経営する日本の巨大リゾート産業であった。
「貧乏人を拒む壁は未だ健在でも、お金を持ってる海外からの来客は受け入れるようね?」
万代がそう言った。
その口調にはもちろん皮肉がこめられている。
「……兄たちへの来客だわ。
父が病床なのをいいことに勝手に商談を進めているのよ」
肩をすぼめて彗は答える。
ニコバレンの法律に縛られない租界地は、職種によってはかなり魅力がある土地になる。
殺人などの重犯罪はもちろん論外だが、場合によっては許されるような小さな犯罪は合法にすることもできる場所になる。
そのことで、さしずめ賭けゴルフツアーなどを金持ち相手に企画したいときは、
これらの領地は隠れ蓑にちょうどいい。
「……あそこよ。車は詰め所に横付けにして」
彗が指さす先にはニコバレン陸軍の軍服に身を包んだ警察隊が見えた。
地上三階建ての二つの尖塔が両脇に並ぶグラマン館の入り口ゲートである。
踏切に似た遮断機が降ろされ完全装備の警官たちが見えた。オリーブ色の迷彩服にヘルメット。肩から吊っているのは陸軍本体と同じ米国製の自動小銃である。
「窓を開けてください。パスポートを見せてください」
車体の左側に来た発音にかなり現地訛りがある二十代の若い上等兵の階級章をつけた警官が、
日本語でそう告げた。
だが彗は万代に窓を開けることは指示したもののパスポート提示には同意しなかった。
「隊長さんはいるの? 呼んでもらえないかしら?」
アメリカの影響が強いこのニコバレンでは、その国民の半数弱程度は英語が通じる。
そして公務員になるには英語が必須であることから、
軍属は日常会話ではほぼ完璧に英語を理解している。
だが彗はあえて日本語でその命令を告げていた。
それはもちろんこの土地の支配者が日本人であるからであるからだろう。
話しかけられた警察上等兵は直立不動で敬礼してその場を去った。
やがて先ほどの上等兵とともに警察少尉の階級をつけた四十代の男が現れた。
小太りで容姿は冴えないが実直そうな男である。
「これは彗お嬢様。ご帰宅ですか?」
腰を屈めて車内を窺いながら少尉は頬を紅潮させて彗に日本語でそう告げた。
彗は両腕を組んで微笑を浮かべている。
その腕に持ち上げられた豊かな両胸は今にもこぼれそうであった。
ホテルで見せてもらったプロフィールにはモデル並のスリーサイズが記載されていたが、
バストサイズはそれよりも大きいかもしれないと万代は思った。
この娘が二十歳のとき父の愛人であった慧の母は、他の男と幸せな結婚をしていると聞かされている。
その相手は堅実なサラリーマンらしい。
しかし慧は新しい父とは暮らさずに実父の性を名乗っているのは、
この女性がそれだけ計算高いからに違いない。
「ティトゥ。あなたがいて良かったわ。妹の恵の世話役として、
この女性がしばらく屋敷に滞在するわ。私の家族同然だから見知りおくように」
ゲートはすぐに解放された。
そう言い放った彗にティトゥと呼ばれた将校は最敬礼を返してきた。
それに習って居並ぶ数名の警官たちも同様な敬礼を返していた。
「権力者ね」
「ええ、だってわたくし伯爵令嬢ですもの」
彗の皮肉交じりの冗談に万代は口元を緩める。
そして車をゆっくりスタートさせた。
それは居並ぶ警官たちに敬意を表した訳では決してない。
ただ深くて暗い熱帯雨林へと続く道路が未舗装の狭い砂利道だったからである。
道は左右に曲がりながら奥へ奥へと続いていた。
「……噂には聞いていたけど、本当にニコバレンの警察隊が駐在しているとは思わなかったわ。
治外法権だからてっきり自前の衛兵みたいなのが警備していると思っていたのに」
「ああ、さっきの警官隊のことね? なにか気になるの?」
「気になるって訳じゃないんだけど、
伯爵領なのにどうしてニコバレンの公務員が仕事しているのかな? ってね」
「ああ、そのこと?
私も細かい規定のすべてを知っている訳ではないのだけれども政府との約束があるらしいのよ」
「約束? どんな?」
万代は身を乗り出して彗に向き直る。
もちろん運転中だ。彗は思わず万代の袖を引く。
「……国内に数多くある貴族領と言うのはあなたがいう通り治外法権だわ」
彗は万代が運転に集中するのを確認してから口を開いた。
「だからここは半分外国だといってもいい。
殺人などの重犯罪が起こらない限りニコバレン政府に口出しされることはないの」
彗の言葉に万代は頷く。
「でもそれ以外にも、いいえ、それ以上にニコバレン共和国としては、
どうしても認めることができないケースがあるのよ」
「それはどんなこと?」
万代が質問した。
だが彗はウフフと笑ったままである。
「探偵さん、推理してみたらいかが?
ヒントはそうね……国家の主権に関わることかしら」
「主権?」
「ええ、そうよ」
万代はしばし考え顔になる。
こういう挑戦は嫌いじゃない。そしてしばらく無言でいたが、ああ、と納得の声が出る。
「独立ね。
ニコバレンから独立して勝手に国家を名乗られたら、たまらないでしょうね。
他にも外国に呼応して他国の領土を宣言されるのも同じく困るでしょうね。
……ああ、なるほど。わかったわ」
「なにがわかったの?」
「古来から独立の意思表示は軍備と決まっている。
なるほど……だから独自の武装を認めないために、
警察軍を送り込み監視させることを領主に認めさせている」
「当たりよ。でも例外もあるのよ」
「例外? どんな?」
「インテリアといって差し支えないものね。
例えば応接間に飾ってあるアンティークな銃などかしら。
他にも槍やサーベルを持った古い甲冑とかね。それらは趣味の範囲ってことで黙認されているわ」
「それらが本物でも?」
ニコバレンは日本同様に銃砲刀の勝手な所持は認められていない。
だがあくまでもそれは表向きの話で裏社会では困ったことに日本以上に流通している。
「ええ、あくまで美術品や骨董品の扱いとしてね。
……ふふ、ウチにもそういうものがあるわ」
「なるほどね……でもさっきの隊長を見る限りあんまり監視の効果はなさそうね。
領主は貴族院の議員という権力者でもある訳だし、それ以外の理由もあるみたいだし」
万代の言葉に彗は優雅に微笑した。
もちろん肯定の意味であることは当然である。乳バンドの有無はそういう効果もあるらしい。
万代は自分の胸を見下ろそうとしたがやめることにした。
やがて道は明るくなった。陽光が眩しく感じられる。
周りは木々に囲まれてはいるが下草にまでしっかり陽が当たっている。
枝葉の向こうに海が見えた。
今まで走ってきたのが、
ギャギャギャと鳴く気味悪い鳥たちの声ばかりが響く薄暗い密林だっただけに、
その開放感は相当なものだった。
「集落があるのね。意外だわ」
道は丘の上に達していて、切り立った崖の下に白い砂浜とその近くに密集する三十戸ほどの素朴な家屋が立ち並ぶ村が見えた。
万代はいちばん見晴らしの良さそうな高台で車を停止させた。
「太古さながらの漁をしている人々よ。
さすがのグラマン氏もいくら土地を買ったとは言えども、遙か昔から住んでいる人たちを退去させることはしなかったわ。
それは父も同じで彼らとは上手く付きあっているの」
「愛しき領民ってこと?」
「ええ、彼らの暮らしに干渉はしない。
現金での税金を納めさせることもしない。その代わりこちらが主であることを認めさせている」
「善政ね」
もちろん皮肉だ。
「そうね。その感謝なのかしら?
屋敷での食卓にのぼる海産物は彼らが毎日のように持ってくるらしいわ」
「機会があれば行ってみたい。駄目かな?」
「かまわないわよ。
それこそ恵を連れて行くといいわ。彼女に必要なのは刺激だから」
沖にいくつもの小さな浮遊物が見えた。
よくよく見るとそれぞれに小さな帆があり、人が乗っているのがわかる。
それらはたぶん彼らが漁に使う原始的な小舟に違いない。
「行きましょう。もうすぐ着くわ」
彗に促されて万代はアクセルを踏む。グラマン館はもう目と鼻の先であった。
よろしければなのですが、評価などしてくださると嬉しいです。
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「甚だ不本意ながら女人と暮らすことに相成りました」連載中
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