01話:私はこうして死体と依頼人と会っている。
【毎日昼の12時と夕方の18時の2回更新します】
万代が海岸公園に着いたときにはまだ朝靄が残っていた。
南国であってもこの時間は過ごしやすい。
木々の向こうには穏やかな海が横たわり、遠い沖合には朝日がプラチナ色に反射している。
公園はコンクリートで護岸された海岸線に沿って細長く造られており、
園内には芝生が敷き詰められ、木陰を作る背の高い緑と、錆びたベンチと、
球が切れた街灯と、溢れたゴミ箱と、
今は閉まっている落書きだらけの小さなホットドッグのスタンドがある。
昼間はそれなりに人が集まる場所ではあったが、
この早朝では遠くにジョギングしている人影がちらほら見える程度であった。
車を停めた万代はドアを開けて降り立った。
視界をぐるりと巡らすと桟橋の先に、
確かに青咲から聞いた情報通りのボートとダイビングスーツ姿の女性が見えた。
女性はロープで曳航してきたそれをたぐり寄せている。
その女性は若かった。
肌は褐色だがそれは健康的に日に焼けたからに違いない。
顔立ちや体型からするとほぼ間違いなく極東人、そしておそらく日本人。
背丈は身長一六九センチの万代よりも十センチほど低い。
「手伝ってもいいわよ」
背後まで近づいたとき万代は声をかけた。日本語だ。
日に焼けた女性はその言葉に驚いて振り向いた。
「金目当てじゃない。安心して」
太い眉と目元のほくろが特徴のその顔は美人と言えた。
年齢は万代よりも少し上、二十代前半だと思われる。
「手伝ってくれるんだ?……君は日本人? こんなとこで珍しいな」
「あなたが引っ張ってるものの方がよっぽど珍しいと思うけど」
「あはは。君って変な子だね」
万代は腰を折って水を吸ったロープを掴んだ。
作業する人間が二人に増えてもロープはかなり重く、
よほど握力を使わないとたぐり寄せることができなかった。
やがてそれが見えてきた。水死体である。
状態は俯せで顔は見えないが薄くて白髪ばかりの頭髪から老人の男性だと判断できる。
着ている服は就寝時に着るパジャマとタオル地のガウン姿で足は素足だった。
背の高さは背後の女性と同じく万代よりも十センチほど低い。
身体はふやけて青ざめており元の体積よりずっと膨らんで見えた。
しかし太って見えるがそれは溺死したせいで本来はやせ型に思える。
指先の一部が腐敗していて溶けているように見えた。
ところどころ露出している白くて堅そうな部位は骨かもしれない。
「……もしかしてこういうの見るのにずいぶん慣れてる?」
膝を折って桟橋に引き上げた死体を観察している万代に女性が話しかけた。
「……この街で暮らしていると年に二、三度はこういうのを見かけるのよ。
だから見慣れているのかもしれない。
でも仕事じゃなかったら決して近寄りたくないよ。私もあなた同様嫁入り前の娘だし、ね」
「嫁入り前?」
万代はその問いには答えず女性の左手の薬指を指さした。
女性は、ああ、と頷く。
確かにその指にエンゲージリングはない。
万代は横たわる死体のガウンを上から探ってみた。
どうやらポケットの中は空で身分を証明できるようなものはなにもない。
だが寝間着姿なのだからそれは当然といえた。
それ以外に唯一身につけているものといえば高級そうな左手の腕時計くらいであった。
「……海にさ、潜ってばかりいると時々こういうのを見かけるんだ。
最初はパニックになっちゃったけどね」
女性がそう呟いた。
万代は死体の肩を掴んで裏返した。
露わになった顔面を見て万代は一瞬だけ顔をしかめる。
眼球が収まっていた部分にはすでになくなっており、そこにたくさんの節足生物が蠢いていた。
潜り込んだ小さいカニたちの足である。
カニに取って生き物の死骸は大事な食料である。それが人間であってもエサには変わりがない。
背後の女性は黙ったままだ。
だが半ばこういう展開を予想していたようで悲鳴を押さえている様子はまったくない。
万代もかなりの神経だが女性も相当の神経である。
「仕事……仕事って言ってたね。君は警察関係?
そうは見えないから言うんだけど、こういうのはあんまりいじったりしちゃいけないんじゃない?
それこそ警察の仕事だと思うんだ」
立ち上がった万代は女性の言葉を無視してスマホを取り出して撮影する。
相棒の青咲の言葉通りこの男が日本人だとは断言できない。
だがこの辺の地元民ではなさそうである。ガウンは生地がしっかりした高級品だったからだ。
ここらの貧乏人が室内着にこれほど金をかける訳がない。
「警察じゃないけど人捜しが仕事だから。
それに……ここの警察は日本と違ってあんまり熱心じゃないわよ。
海から上がったじーさんの身元不明の死体なんて、
こんな服装をしているから酔っぱらって酔い覚ましのために海辺を散歩して転落した死体として片付けちゃうのが関の山ね。
マスコミは警察発表しか載せないのがこの国の暗黙の了解だし」
「あはは。酔った上での転落死はこのおじいさんに限っては無理無理。
これはずいぶん沖に沈んでたんだ。それに……」
女性が沖合を指さした。
万代がそれを視線で追うと湾を塞ぐ形で位置する緑濃い巨大な岬だった。
その大きさは半島といっても差し支えない。
その土地はこの国に数多くある貴族の領地で今の持ち主は日本人だと聞いている。
もう三年もこの街で暮らしている万代だが、そういう土地は立ち入り厳禁の治外法権の領地なので、
さすがに足を踏み入れたことはない。
「……それにあの岬の向こうから強い潮の流れのうねりがあるんだ。
これはそれに流されて海の中の岩に引っかかってた訳なんだよね」
「うねり?」
万代は朝陽に照らされた海面を目を細めて見つめた。
三日ほど前にこの島を襲った大嵐のときとは違って、今の海はとても穏やかで静かに波打っているだけである。
「ここはそうでもないけど岬の向こうは急にとんでもなく深くなっているんだ。
この遺体もそこから流れて来たに違いないよ」
万代はふーんと呟いた。
ニコバレンの島々はそのほとんどが純白の砂浜とエメラルドグリーンの海である。
南洋の赤道近い島と言えば、誰もがその楽園風景を思い浮かべがちだが、それは島を囲む海に珊瑚礁がある場合だけである。
南の島と言えども周囲に珊瑚礁がないのであれば、その海の色は湘南海岸の江ノ島辺りの鉛色とそれほど差はない。
そしてここから見える海もそれであり、珍しくもない灰色がかった青色の海であった。
深い海の底にある海中火山の隆起で形成されたのがニコバレン諸島の島々であり、珊瑚礁を離れると海は急に深くなることを万代は地元の漁師たちから聞かされていたことを、万代は思い出していた。
そのとき遠方から聞き慣れたサイレンの音が聞こえてきた。
この女性が通報したと思われる警察が万代からだいぶ遅れての到着のようだが、この国の警察では当たり前の光景である。
「人捜しってことは君は探偵?」
「の、ようなもの。正直それだけじゃ食っていけないから、なんでも屋ってほうが正しいわね」
「例えば?」
「子守、行方不明のペット捜し、話し相手のいない年寄りのお供……もうなんでもね。
後はあなたみたいな観光客が引ったくりにあったときのバッグを取り戻すなんて仕事もあるわ……ただし出せる金額次第だけど」
「私?」
女性は驚いたように自分を指さした。
「私は観光客って訳じゃないよ。仕事で来たんだ」
「仕事……ね」
それは万代もわかっていた。
観光客がたったひとりでダイビングなどすることはないし、死体を見つけた場合通報する義務があっても、わざわざ陸まで引っ張りあげる訳がない。
つまりこの女性に興味が湧いたのでカマをかけただけである。
そのとき突然ドスンと大きな音が響いた。
その音で背後を振り返るとこの時間は閉めてあるホットドッグスタンドの辺りの芝生の上に、
黒っぽいなにかが散らばっていた。
いきなり現れたそれらの数はかなり多い。
「……なにこれ? サカナ……イワシかな?」
歩み寄った女性が屈んで子細に観察している。背が青い小魚だった。
「ここらの露店でバケツ一杯分が小銭で買える値段で売ってるわよ。珍しくもないけど」
「それはそうだけど、問題はどこから来たの? ってこと」
なるほど……。
確かに海から上がって芝生で寝ころぶ習慣があるサカナがいるとは聞いたことがない。
万代が空を仰ぎ見ると女性も顔を上げた。
空には無数の小粒が見えた。気のせいか空気も霧雨のように湿っぽい。
「もしかして降ってくるみたいね」
万代のその宣言通り数秒後には百を下らぬ数のサカナが降り注いでいた。
芝生や舗装された通路に直接落ちてくるのもあれば、樹木の枝に弾かれて遅れて落ちてくるものある。
改めて頭上を見上げる。
空は晴れ渡り、雲は遙か水平線上にいくつか見られるだけである。
この頭上には水産物を運ぶ飛行機の姿もなければ、生け簀を構えたレストランがある訳でもない。
むろんサカナたちがトビウオの仲間であることもなかった。
もちろんトビウオが地上の高高度まで飛べるならばと言う条件付きではあるが……。
「これってファフロツキーズ現象とか言うらしいわ。
竜巻とかでサカナなんかが海水ごと空に巻き上げられたとかなんとか。
体験するのは初めてだな。ちょっと感激するよ」
女性がそう説明した。
「そう言えばこの国の人から聞いたことがあったわ。
てっきり作り話かと思ってたんだけど事実だったのね」
万代は同業者との雑談で聞いた話を思い出す。
裏社会で聞く冗談はすべて誇張された嘘ばかりだと思っていたが、
たまにはホントの話もあったことに少し感心した。
「なにこれ? あんまりにもきときとだと思ったら生きているのが混じっているじゃない……」
無数のはね回るサカナたちを見て女性はそう呟いた。
サカナのすべて生きている訳ではなかったが、死んでいるものも鮮魚店に並べられてもおかしくないくらいに新鮮であった。
だが万代はそんなサカナたちよりも女性が口にした言葉の方に反応した。
(きときと……?)
どこかで聞いた方言である。
万代はその意味を尋ねてみようと思い、辺りを探すと女性はいつの間にか水死体の方へと戻っていて屈んでなにか調べているのが見えた。
そのときサイレンの音が近くなった。
赤色灯をつけた迷彩色の四輪駆動車が公園の入り口を塞いだ万代の車を迂回して、芝生に乗り上げて停車するのが見える。
そしてドアが開きオリーブ色の制服を着た男たちがワラワラと現れた。
頭には鉄兜を被り、肩に提げているのは自動小銃である。
「……私が呼んだのは警察だよ? なんで軍隊が来たの?」
万代の傍らに戻って来た女性が呟く。
「ここでは同じなの」
万代がそれにそっけなく答える。
ほとんどの国家では警察と軍が指揮命令系統が違う別組織であるのが普通だが、共に治安維持のために国家によって武装を許された組織という点は同じである。
ただその治安を維持するために銃口を向けるべく対象が内向きなのか外向きなのかの違いがあるだけだ。
無論、内向き、つまり国内対象なのが警察であり、外向き、外国対象なのが軍隊である。
だが日本で言えば、ひとつの県くらいの面積しかなく人口ではちょっと気の利いた地方都市程度しか有していないニコバレンでは、そういう機関はすべて一緒くたに存在していた。
警察はニコバレン陸軍の中にある警察隊が受け持ち、火災やレスキューを受け持つ消防隊も軍の管轄であった。もちろん海上警察も同様だ。
「きゃあっ!! 血っ!! 血っ!!」
突然の叫びで万代は女性の指さす先に視線を移していた。
その先にはホットドッグスタンドがあった。
そしてその閉じられたドアの隙間からおびただしい血液が流れ出ていたのであった。
警察隊が到着しさっそく小さなスタンドのドアがこじ開けられた。
そして……その中には屋根を突き破り頭部の中身をぶちまけた男の死体があった。
男はスーツ姿で顔面からコンクリートの床に激突したと思われた。
先ほどのドスンという大きな音の原因はこの男性であったようだ。
空からはサカナだけでなく人間も降ってきたのは間違いない。
■ ■
人口十万人ほどの首都ニコバレン市。
その内陸の郊外にこの国唯一の国際空港がある。
その周囲には新築の高層ビルがそびえ、百貨店や銀行や高級レストラン、輸入自動車のディーラーなどが軒を連ねている。
国際通りと名付けられたこの目抜き通りはニコバレンで最も衛生的で近代的な街である。
行き交う人々も多く、渋滞の車列を見下ろす位置にあるコンコースにはスーツ姿のビジネスマンや流行のファッションに身を包んだ若者たちで溢れていた。
街としての規模と日差しの強さと濃い影を落とす街路樹の種類は違っているが、ここの風景はまるで東京近辺のそれとあまり変わりがない。
これらを作ったのはすべて日本を始めとした外国資本で商用や旅行で訪れる外国人のために外国の企業が用意した街であった。
そんな外国のための通りの一角に外国の航空会社が建てた白亜の高級ホテルがある。
今朝早く二つの死体発見で警察に同行する羽目になった万代だったが、すでに顔馴染みの警官たちからの事情聴取を終えて、帰宅したのが昼。
そしてそのまま休む間もなくこの街へと足を運んでいた。
理由は仕事の依頼人に呼び出されていたからである。
事務所に電話があり青咲が取り次いだのだ。
万代が目的のホテルに到着したときは徹夜明けな上に空腹で気分も顔つきも相当険悪であった。
「性悪な女ね。
我が子の安否を気遣うあまり一時間ごとに電話する馬鹿親じゃないんだから、目星が立った時点で必ず連絡するって言ったこちらの言葉は信じて欲しいわ」
ここまで一息で言い切った万代だったが、まだ台詞を終わらせるつもりはないようで大きく息を吸うと発言を再開した。
「――それともなに? あなたは探偵に依頼をしておきながら仕事を適当に邪魔して成果を完璧にさせないようにして料金を値切ろうって人種だったのかしら?
悪いけどかかった費用とかは全部払ってもらいますからね」
万代は立ったままそう言い終えた。
とてもじゃないが金を払う依頼人に対して口にする台詞じゃない。失礼も甚だしい。
だがソファに腰かけた依頼人――若い日本人女性はどこ吹く風で見事なまでに優雅に万代の言葉を聞き流している。
「まずは掛けたら?」
万代は着席をすすめられた。
ホテルのロビー内に設けられたカフェは空調が良く効きボリュームを抑えたクラッシックが静かに流れていた。
人の背の高さよりも高い大きな窓ガラスの外には木々に絡まったツタからは水気ある大振りの肉厚な葉が覆い茂り、その周りには赤、桃色、黄色のブーゲンビリアの花たちが咲き乱れている。
広く作られたカフェには多くの座席があったが万代たちの周囲には人の姿はなかった。
万代がアイスティーを注文すると頼んだ覚えのないサンドイッチが運ばれてきた。
裕福な外国人相手のこのホテルの料理は、例え軽食といえどもニコバレン国民の平均的な月収の半分以上は確実にする。
この国で自分の稼ぎだけで暮らす万代には当然これらを食する機会は希有である。
そのことから万代の頭には、おそらく万代が昨夜からなにも口にしていないのを知った上での依頼人の懐柔だとわかっていたが、気持ちはかなり和んでしまっていた。
してやられたと言う訳だ。
「……で、調査はどこまで進んだの?」
依頼人は尋ねた。
「正直に言うけど、まだ未解決よ。それに期限だってまだのはずだけど」
「それはわかってるわ」
微笑しながら頷く女性は今回の仕事を依頼した人物で名前は迫水彗。もちろん日本人である。
彗は身長は万代よりも少し低く万代同様にスリムである。
だが万代と決定的に違うのはその胸であった。
麻のジャケットを羽織ったその上からでもその見事な大きさと形は確認できる。
年齢は二十二歳。
日本であれば誰でも知っているお嬢様大学に通う女子大生である。
長い髪は南国に合わせてアップにしているが、そのために肌の白さが余計に際だっている。
だが最も人目を引くのはその顔の造りである。
細めの小顔には大きめで切れ長な瞳と長いまつ毛、細く整った鼻と潤んだ唇がある。
つまり俳優やモデルでも十分に食っていける女であった。
「……契約の打ち切り? ヘマした覚えはないんだけどなあ」
万代は口をモグモグと動かしながらもしばらく突然の依頼人の呼び出しの意味を深読みしていた。
食べていたのはもちろん迫水慧が追加注文してくれたサンドイッチだ。
そして皿の上にはもうなにも残っていない。
万代が数日前に彗に依頼されたのは、ある日本人男性をリトルヨコハマ近辺で捜して欲しいという仕事だった。
その男は年齢は三十代から七十代の人物で名前も顔も一切知らされていない。
ただ数日前から行方不明となっていることだけが唯一の手がかりだった。
まるで雲を掴むような話である。
日本からの直行便はないニコバレンだが近年観光や商用で訪れる日本人がそれなりに増えており、首都以外でも姿を見かけることはそう珍しくない。
だが、それをこれだけの条件で探し当てることの難しさは万代にも当然わかっていた。
そのことを伝えると彗は条件に合うそれらしき人物がいれば何人でもかまわないのでそれらの人物の所在を教えてくれれば良いという条件を提示してきた。それも生死を問わずにである。
正直胡散臭いと万代は思った。
だがこの仕事には断れないような魅力があった。報酬が高額だったのである。
――『米ドルで一万ドル、もしくはその時点での円にて払うわ。もちろん現金でね』――
それが彗が明らかにした金額だった。
その額はこの国では贅沢さえしなければ半年以上暮らせる金額である。
万代がその場で決断したのは言うまでもない。
「その辺の心配はあなたの報告次第ね。途中経過でも構わないから報告してもらおうと思ってね」
彗はそう言うが万代には安心を感じられない。
もし契約終了ならばそれで支払われるのはおそらく提示額の半分以下、サンドイッチはすでに胃の中であるがこれも現金に戻してもらいたいくらいの心境である。
「……その前にはっきりさせておきたいことがあるんだけど」
不安を隠す万代がこう切り出した。
「なに?」
「例えこのまま打ち切りになったとしても、その分の料金は支払ってもらうわよ。
支払いは現金。捜査費と必要経費やもろもろを併せて七千ドルってとこ」
「構わないわ」
驚いたことに彗はすんなりと頷いた。
万代はもちろんふっかけたのである。実際はその半分の費用もかかっていないのでしてやったりと思う万代だが心の中の不安のすべてが消えた訳じゃない。
「そうそう、そう言えばなんだけど今朝の食事はもう済ませた?」
万代はバッグの口を開けたまま手を止めて彗に確認を取る。
「ええ。だいぶ前に軽く済ませたけど?」
「……ならいいけど、お昼以降の食欲は保証できないわよ。そうとうグロなものが多いから覚悟して」
万代はブリーフケースを取り出し開いた。中には今回の調査の写真やレポートが入っている。
「該当者は四人。
名前までわかるのが最初のふたりまで、あとに見つかった二人はすでに死体で警察でもまだ身元不明」
レポートの一枚目の男は元々は観光客としてニコバレンに来た人物だった。
この男は麻薬の売人を行っていた。
今は売り物の薬に手をつけて廃人と化している。
次は元ビジネスマンの男であった。
この男は現地事務所の会計を任されていたが、会社の金の相当な額を着服していたのが発覚し裏世界に身を隠している最中であった。
そこを万代と青咲によって警察に放り込まれていた、ちょろまかしで簀巻きにされた男であった。
「……で、三人目と四人目は今朝見つけたの。確実に日本人であるという証明はできないけどね」
そういって万代は一、二枚目に続き三枚目と四枚目のレポートをテーブルの上に差し出した。
三人目とはダイバーの日本人女性が海から引き上げた溺死体であり、四人目はホットドッグスタンドの床に頭の中身をぶちまけた人物である。
ただし四人目に関しては空から降って来たことまでは書き加えていない。
のことはまだ確定ではないし、空から人が落ちて来たという話を裏付けるための余計な調査が付け加えられることは避けたかったからである。
彗は無言のまま一枚目から四枚目の写真付きレポートを穴が開くほど見つめている。
やがて彗はすべての資料を詳細に読み終えた。
「一枚目と二枚目はすべてに渡ってしっかりと調べてあるから合格。
三枚目の顔写真は水死体だから顔つきを含めた全体の雰囲気が変わってしまっているし、この男の名前や住所が不明ね。それにそもそもこれでは日本人かどうかもわからないから失格よ。
そして四枚目もお話にならないわ。身元に関する情報がすべて不明な上に顔がこうまで潰れていたら例え身内でも判別できない」
「……だからまだ未解決だっていったでしょ! そっちこそお話にならない!」
万代はテーブルを叩いた。
カップ跳ねて硬質な音をたてる。
彗の理不尽さに腹を立てただけじゃない。
まだ期限前である仕事なのにも関わらずそれを失格呼ばわりされたことにプライドを傷つけられたのだ。
今まで三年近くこのニコバレンで探偵を営んできたが、かつて一度たりとも仕事をこなせなかったことはないし、こんな仕打ちを受けたことも初めてであった。
「私としてはもうこの調査であなたの実力を知るのに十分だと思っただけよ。
期限前に呼び出して報告させたことは謝るわ」
そう言って彗は軽く頭を下げた。
意外であった。
だが素直に謝られても万代は決して嬉しい訳じゃない。
「……その分のお詫びを含めて支払いはそれ相応にさせてちょうだい」
彗の細い指先がバッグの留め金を外した。
そして取り出されたのは皺ひとつない指が切れそうなほど真新しいドル札の束であった。
万代は彗が差し出すままにそれを受け取り周りに誰もいないことを確認した。
そしてそれを数え始める。
だがすぐに万代の顔に怪訝な表情が浮かんだ。
「ひとつ質問してもいい?」
万代がそう尋ねると彗は頷く。
「……あなたの狙いはなに?
行方不明の人物捜しじゃないのはわかった。最初の二人はすべてを調べ上げたのにあなたはそれで満足しないからこの二人はハズレでしょ?
そして三人目は失格だというし四人目もお話にならないという」
「つまり?」
「つまり……つまりまだ身元がわからない三人目の水死体と四人目の頭部をぶちまけた死体についてももう調査をしなくていいと結論している。
それを意味するのはこの二人もあなたが捜していた人物じゃないと思えるの。……そしてなんだけど」
「だけど?」
「いくら治安がいいとは言えないこの国の裏社会でも、そうそう行方不明者が出るもんじゃないの。
まして日本人という特定の人種で数日前からの失踪者であるという条件でさらに絞ってしまえばもうそれに該当する人物はほぼいないと断言してもいい」
「そういうことになるわね」
彗はすんなり肯定した。
「悪いけど……これお返しするわ」
万代はドル札を彗の目の前にどさりと放り投げた。
慧はそのテーブルに視線を落とす。
「少なかったのかしら? あなたの仕事ぶりを十分に評価した上での金額よ」
「はっきり言えば気に入らない。私は必要とされる分の仕事はしたと自分で断言できる。
でも納得できない金額を受け取ることは私の職業意識が許さない」
万代の言葉はかなり挑発的だ。
だがそれに対して彗は無言で微笑さえ浮かべている。
万代が突き返した金額は決して少ない訳ではなかった。
その額は一万ドル丁度でそれは仕事をすべてこなしたという条件のときにのみ支払われる金額であった。
本来探偵の仕事とは依頼人から依頼されたことだけを調べることにある。
その依頼人がなぜどのような理由でそれを依頼したかという依頼人の背後関係には触れないことが良い探偵の条件だ。
少なくとも万代は常日頃そう自分に言い聞かせている。
だが今回万代はあえて禁を犯した。報酬を突き返してまでも依頼人である彗の真意が知りたいと思ったからである。
しばらく睨み合いに似た状況が続いた。
強気に出た万代だが実は心の隅で不安を感じている。
最悪のケースは彗が真相を一切に語らずにドル札を回収してしまうことである。
その結果訪れるこの先の生活のひもじさを考えると少し早まったかな? と思わざるを得ない。
「……わかったわ。あなたには話しても良さそうね」
折れたのは彗であった。
そしてバッグを開けるとさらに倍のドル札を上乗せした。万代は思わず顔が綻びかけたがそれを必死に押さえた。
ハードボイルドを目指す女は金で釣られるような安っぽい笑顔は禁物だからである。
そしてこの先の生活が一年は保障された安堵を感じながらも、万代には頭の隅で考えていた別のことがあった。
今朝のダイバーの女性といい、この彗といい、グロテスクな死体やその写真を見ても眉一つ動かさなかった異常さである。
ダイバーの女性は海でたびたび見かけたことがあるというからまだ理解できるが、一介の日本の女子大生に過ぎない迫水彗にそれらを何度も見かける体験があったとは到底思えなかったからであった。
よろしければなのですが、評価などしてくださると嬉しいです。
私の別作品
「甚だ不本意ながら女人と暮らすことに相成りました」連載中
「墓場でdabada」連載中
「甚だ遺憾ながら、ぼくたちは彼の地へ飛ばされることに相成りました」完結済み
「使命ある異形たちには深い森が相応しい」完結済み
「空から来たりて杖を振る」完結済み
「その身にまとうは鬼子姫神」完結済み
「こころのこりエンドレス」完結済み
「沈黙のシスターとその戒律」完結済み
も、よろしくお願いいたします。