序章:私はこうして南の島で生きている。
【毎日昼の12時と夕方の18時の2回更新します】
南太平洋。
ニコバレン共和国。
一月。深夜。
リトルヨコハマ。
少女は男を追っていた。
ここはかつて米軍が使っていた港の荷分場の跡地。
破れたトタン板と、割れたガラスと、赤茶けて朽ち果てた鉄骨と、
欠けたコンクリート片がそこら中に散乱する、
錆と埃と磯の臭いが充満する破棄された無人の倉庫街である。
ときどきあるポツンと灯る街灯と豪奢な星明かりの中で、
追う者と追われる者のシルエットが壁に映った。
鉄板を踏む度にクワンクワンと硬質な足音たちが反響する。
少女の名前は一円万代。その名は《一万円代》と、よく金額と間違われる。
その万代は駆けながらも、
耳に響く靴音が追っている獲物と自分以外にもうひとつ多いような気がしている。
「撃つぞ! 撃つぞ! 本当に撃つぞ!」
追われている男が叫ぶ。
日本語だった。
……当たり、ね。
万代は確信した。
追われながらもときどき振り返るその男は見たところ三十代後半。
だが背丈は万代よりも少し低かった。
右手に拳銃を持っている。そして左手は革製の重いバッグを抱えている。
突然にクワンと音がした。錆びて朽ちた配管に男が躓いたのである。
堅いコンクリートの上に転げた男は這うようにして落としてしまった拳銃とバッグを引き寄せた。
「く、来るな! 来ると本当に撃つぞ!」
男は尻餅をついた姿勢のままで後ろへ後ろへと後ずさる。
街灯が落とす明かりの下に万代の姿がゆらりと浮かび上がる。
身長一六九センチ。折れそうなほどのスレンダーボディ。
髪は肩までのバサバサなショートヘア。
「……お、女かよ」
呆れた……。
万代は思った。この男は今の今まで自分を追っているのが女だとは気がつかなかったのである。
「へへ、へへへ……」
万代が女だとわかったことで少し余裕を取り戻した男は手からバッグを離した。
そして地面から身を起こす。右手の拳銃は万代に向けたままである。
だが男はそこでギョッとなり動きを止める。
万代が腰だめに身構えているそれを見たからである。
黒い大きな威圧感の固まり。それは米軍の自動小銃であった。
「そ、そんなの卑怯だ……」
男が自分の拳銃とそれを見比べて涙混じり抗議する。
その大きさは絶望的なほどに隔たりがある。
「あなたが一発撃つ間にこちらは何発撃てるか……わかんないの?」
……でもそれはそれは万代にもわからないことだった。
なにしろ万代は今構えている小銃どころか屋台の射的すら撃ったことがないからである。
「どこに当たるかわかんないわよ。運が良ければ急所は外れるかもね」
万代が狙いをつけたことで男はパニックになり右手の人差し指を引いた。
……銃声が轟いた。万代の足下のコンクリが爆ぜる。着弾は右横三十センチ。
「アッタマに来たわ……なによこのバカ! 本当に撃つなんて!」
万代は鼻息も荒く引き金を引く……。
が……小銃は沈黙していた。万代は思わず銃口を覗き込む。
「あれ? ……不良品? だからアメリカ製は信用できないのよ……」
不良ではない。
安全装置がロックされたままなのである。
しかし銃器はただ引き金を引けば弾が出るものだとしか万代は認識していない。
これが車であればエンジンをばらして組み直すことも朝飯前だが、
興味がない事柄にはとことん知識がないのである。
「へへ、へへへ……」
男の狂気じみた笑いが聞こえた後、二発目の銃声が倉庫街にこだました。
――直撃。
胸の中央に弾丸を受けた万代は衝撃のままに背中から倒れ込んだ。
「あ、当たった……当たったぞ。……へへ、死んだ。……死んだ……え、死んだ……?」
男は自分がやってしまったことの意味に今更気がつき、
うわああ、と怯えた声を上げるとバッグを拾って倒れた万代の横を駆け抜けようとした。
が、そこで足首を掴まれて顔面と胸部からコンクリに抱擁されるはめになる。
鼻血を出してのたくり回る男を今度は逆に万代が見下ろしていた。
「アッタマに来たわ……。ホントにアッタマに来たわ! 殺す気?」
万代は自動小銃を逆さに持ち直し銃身を握り肩当ての部分で男の尻を目一杯叩いた。
男は蹴飛ばされた野良犬のような悲鳴を上げる。
だが万代は手を休めない。息継ぎの間もなく容赦なく続けざまにフルスイングする。
……これではまるで石器人である。彼らに小銃を渡せばきっと同じような使い道をするに違いない。
「ひいっ……。や、やめてくれよお……。お尻が……お尻が……痛いよお」
男はそこら中を転げ回り涙と鼻血と鼻水と、そしてよだれを流しながら必死に哀願する。
ズボンの尻はすでに破れて露出した臀部は血まみれである。
「お、鬼だ。……お前は鬼だ」
万代は手を止める。
そしてハアハアと大きく肩で息をするその形相は般若。
瞬きを忘れた男の目に焼きついたのは情けの欠片も感じさせない異形が放つすさまじい怒りだった。
男は、ひいっ……と悲鳴を上げて両手で顔や胸を確かめる。
すべての臓器が縮み上がるほどの戦慄だった。
自分の身体をズタズタに貫いた刺し傷がいくつも開けられたと錯覚したからだ。
この女のつり上がった細い両眼から注がれる鋭い視線は、
人を射殺すことが絶対にできるに違いない。
確かにこの女、鬼以外の何者でもない。
「……お、思い出した。
……女……日本人……二十歳過ぎ……その形相……お前、マヨネーズか?」
「物知りね。……でも正確にはまだ十八よ」
万代は男の股の間の地面に小銃をズンと突き刺した。
それはコンクリートの継ぎ目部分に見事に刺し込まれた。
銃身は曲がりすでに飛び道具として使い物にならなくなっているのだけは間違いない。
そして男だが、気の毒に恐怖のあまり失禁していた。
股の周りに生暖かい液体が広がり始めていたが、
それを自覚できるほど正気に戻れる状態ではなかった。
そしてまだ怒りが収まらない万代は地面から小銃を抜き、振りかぶる。
「死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ……」
男は両腕で頭を庇いこの世の最後を覚悟した。
……思えば波乱の人生であった。
このニコバレンに来なければ男は妻とひとり娘とともに、
平凡だがそれなりに幸せな暮らしを過ごしていたのかもしれない。
そして小銃のひゅっと風を切る音がして男が身を縮めた瞬間だった。
「よお、……少しは女らしくなったか?」
そんな声が聞こえてきた。
男がこわごわと目を開けるといつの間にか現れたプロレスラーのような筋肉を持つ巨漢が、
振り下ろされた小銃を軽々と片手で掴んでいるのが見えた。
「……久しぶりね」
「お前……太ったか?」
「し、失礼ね。なによ! スケベ! 変態! オヤジ!」
万代はジャケットを脱いだ。
するとその下から胸元が被弾した防弾ベストが姿を見せる。
そしてそれを脱ぎ捨てるとTシャツ一枚のほっそりとしたシルエットが現れた。
余分な贅肉は一切ない。だから……胸もない。
「……あんまり前と変わらないな」
「代わりにあんたを殴るわよ」
巨漢はフンと鼻で笑う。
そして失禁男だが、現状はまだまだ安全ではなかった。
二メートル近くもあるこの巨漢が仁王像のような極太の片腕で男の髪を掴み、
軽々と持ち上げたからである。
「うわ……汚ねえな。こいつお漏らししてるじゃないか?
いったいなんの悪さをしたんだ、こいつは?」
「会社の金をちょろまかして、
それがバレてさっきまで裏街に隠れていた密輸犯の小悪党よ……」
それが男がこの場で聞いた最後の声だった。
恐怖のあまり気を失ってしまったからである。
耳に残ったのはニコバレンの裏世界で知らない者は少ない《マヨネーズ》の声であった。
――《マヨネーズ》
その言葉がどういう意味で使われ始めたのかは万代自身も知らない。
おそらく二つ名、コードネーム的な隠語として誰かが勝手に使い始めたのだろうと思っている。
□
ちょろまかしの男は簀巻きにして警察署の前に置き去りにしていた。
きっと今頃はニコバレンの警察官が、
猿ぐつわをされた男といっしょに置かれた密輸の拳銃が詰まったバッグを見つけて
手柄で沸き返っているに違いない。
「日本の商社マンか……エリートなんだろ?」
巨漢――青咲比呂がソファにもたれかかったまま万代に尋ねる。
ここは万代たちの事務所件住居がある倉庫の中の、二人が共有している居間である。
場所は先ほどの荷分場の一角であった。
元々は米軍所有だったが基地が縮小化したためそのまま放置されているのである。
ところが米軍の粋な計らいか、それとも管理が単に杜撰なだけなのか、
料金は支払っていないのに電気ガス水道はしっかり繋がっていた。
「どうだかね?
……経理担当だから自分がお金のプロと勘違いしていただけじゃない?」
ちょろまかしの男のことである。
男は最近ニコバレンに開設された日本の商社の現地駐在員で単身赴任でやって来た男だった。
だが非合法のギャンブルに溺れ、その借金の返済のために会社の金に手をつけてしまったのである。
そしてそれがバレて以後は、
身を隠し裏世界の約束通りに転落して密輸拳銃の運び屋に成り下がってしまった
典型的な駄目人間であった。
だから警察に身を預け罪を償うことだけが全うな世界へと戻れる唯一の道なのである。
「お前は他人を更生させる商売でも始めたのか?」
「まさか……私の身元が割れたからよ。
リトルヨコハマで私のことで尾ひれのついた変な武勇伝を吹聴されても困るからよ。
商売は別。
ある人物から日本人の男を捜す仕事を依頼されたのよ。さっきの男でもう二人目ね」
変な武勇伝……?。キレたら鬼のようにとことん怖い女。真実そのものじゃねえか?
青咲は顔には出さずに苦笑した。
万代は一応は探偵である。
二日前、万代は若い女性から行方不明者を探す仕事を依頼されていた。
対象は日本人で三十代から七十代くらいまでの男である。
「美人なのか? その依頼人は?」
「超美人女子大生」
「……じゃあ、ハネムーン途中で逃げられた旦那を探すためじゃないな。
男の年齢が離れすぎている」
実際にそういう仕事がない訳でもない。
……青咲が背後を振り返った。そこには先ほど万代が使用した小銃と防弾ベストが転がっている。
「……しかし、まあ、なんとも派手に使ってくれたもんだ。
ベストはともかく銃の方は二度と弾は撃てないな」
「そう? 使い方は別として本来の武器の役割はちゃんと果たしたわよ」
青咲はやれやれとため息をもらす。
それらはすべて青咲が苦労して手に入れた横流し品だったからである。
青咲比呂は年齢は三十代前半。
身長は一九七センチ、体重は百キロ程の髭面の男で万代の同業者兼相棒である。
「久しぶりに帰ってみれば……リトルヨコハマも変わったな。
丘の上の日本企業の現地事務所がいつの間にか増えてやがる」
煙草に火をつけた青咲は煙を深々と吸い込んだ。
健康志向から禁煙が進んだ先進国と違い、
この国では煙草はまだまだふつうに大人のアイテムであった。
――ここは日本からはるか南に下ったミクロネシアに位置するニコバレン共和国。
大小百近い島々からなる人口二十万人ほどの小国である。
南洋らしく海辺の風景は絶景だが国が貧しいことから治安はそれなりであった。
リトルヨコハマは首都ニコバレン市の外れにある街だった。
海岸沿いに作られた芝生の公園の先にはもう動くこともない退役した大型客船が碇を降ろし、
丘の上にはそれを見下ろす公園があり、その近くには外人墓地がある。
そんな風景が横浜に似ていることからいつの間にそういう名前で呼ばれていた。
無論、日本人も住んでいる。
だがその数は百人程度でごく僅かなコミュニティを形成している。
近年訪れる日本からの観光客も徐々に増えているが、
まだ直行便がないことから見知らぬ日本人を見かけるのはまれであった。
「半年前くらいからね。この街を見下すみたいに建ち始めたわ」
日本企業の現地事務所のことである。
高台の上が造成されてオフィスビルができたことから、企業が続々と入居しているのであった。
「シブタキ製薬の事務所もあったな。……お前知っているんだろう?」
万代は頷いた。
「できるだけ近寄らないようにしている。……手遅れかもしれないけど」
青咲は煙を吐き出した。
「ん……? なんだこれ?」
青咲が床の隅に落ちていた見慣れぬ財布を拾い上げた。
さっきここで簀巻きにしたちょろまかしの男の持ち物のようであった。
「悪いことしたわね。後でついでに警察に放り込んでおくわよ」
「待てよ……。これは……」
青咲は財布を開いて中身を改めていた。中には僅かな紙幣と数枚の写真が入っていた。
「小皇帝? ……ああ、化粧が違うが間違いない。
八龍団の小皇帝だ。
……万代、もしかしたらお前は虎の尾を踏み始めているかもしれないぞ」
万代は写真を覗き込んだ。
「……ただの幼女じゃない」
「そう見えるだろ? だがこいつはお前よりも俺の方に年が近い……」
八龍団は大陸沿岸部を拠点とした新興マフィアである。
その勢力は極東の方へと伸ばし始め、今では日本にも着々と足場を固めているとのことである。
そしてその中の中心人物のひとりが小皇帝と呼ばれる小柄な童顔の女であった。噂では日系中国人らしい。
「まさかこのニコバレンにまで手を出し始めたとは知らなかった。
……ま、たまたまさっきの男が写真を持っていただけって可能性もあるが」
説明を終えた青咲が写真を財布にしまった。
万代は立ち上がる。廊下を隔てた自分の部屋に戻ろうとしたのである。
「持っていただけの可能性の方に期待するわ。明日も仕事だから寝る」
窓の外を見るとうっすらと明るくなっている。
夜明けは近い。
そのとき突然電話が鳴った。
青咲のスマホであった。
そして誰かと話していたが、やがて会話はすぐ終わり青咲が万代を見る。
「お前が探している男って、死体じゃ駄目か?」
「……日本人の男であれば取りあえず構わないけど」
「日本人って断定できる訳じゃないが、日本人の女のダイバーがさっき死体を海で見つけたようだ。
今はボートでそれを引っ張っている」
「こんな時間に? あなた漁師にでも友人がいるの?」
「……まあ、そんなところだ。俺は友人が多い」
青咲は謎が多い男だった。特にその情報網の広さと正確さは驚愕に値する。
……三年前に日本からたったひとりでやって来て、ボロクズ同然だった万代がここに転がり込んで二年半ほど経つが、まだ相棒の青咲の正体を万代はわかっていない。
場所を告げると万代は飛び出すように事務所を出て行った。
そして直後に夜明け前の静寂を破るかのように車のエンジン音と激しいタイヤの音が聞こえてきた。
青咲は立ち上がってそれを見ていたが、
ふと視線を落とした先のゴミ箱に国際郵便の手紙を見つけた。
手に取るとそれは未開封の手紙で万代宛のものであった。
「……澁瀧澤宗一郎……か」
青咲は差出人の名前を確認するとそれをポケットにねじ込んだ。
よろしければなのですが、評価などしてくださると嬉しいです。
私の別作品
「甚だ不本意ながら女人と暮らすことに相成りました」連載中
「墓場でdabada」連載中
「甚だ遺憾ながら、ぼくたちは彼の地へ飛ばされることに相成りました」完結済み
「使命ある異形たちには深い森が相応しい」完結済み
「空から来たりて杖を振る」完結済み
「その身にまとうは鬼子姫神」完結済み
「こころのこりエンドレス」完結済み
「沈黙のシスターとその戒律」完結済み
も、よろしくお願いいたします。