第1章 少年との出会い 1
沙希がこの世界に転生してから、500年という長い年月が流れていた。
「…転生、というより転移ね」
4人掛けの長ソファの真ん中に座っていた沙希が、大きな独り言をこぼす。今このリビングルームには、彼女の他に誰もいなかった。
沙希は、前世から憧れていたシルク生地の黒いドレスを身に纏っている。オフショルダーのスレンダードレス。金の刺繍が胸元と裾に取り入れられていた。ここは室内なので今彼女は素足だが、ドレスに合わせられるように様々な色やデザインのパンプスやブーツもある。
前世ではこんなもの手に入らなかった上に、手に入ったとしても着て行く場所がなかったような高価なドレスを、沙希はこれの他にいくつも持っていた。
この世界に転生した時に来ていた黒のパンツスーツは擦り切れてしまったので、もうだいぶ昔に捨ててしまった。
ちなみに、ハイヒールはない。ヒールの高い靴はバランスがうまくとれず、前世の頃からよく足を捻っていたため、沙希はあまり好きではないのだ。
今沙希の手には、赤ワインが並々と注がれたグラスが握られている。前世の頃から元々人間関係が不得意な沙希だったが、酒が入ると、無性にもの寂しくなる瞬間があるのだ。
前世では居酒屋の店主との会話や、その時その時に出会う飲兵衛な客との会話を楽しみながら酒を飲むことがあった。そのため、何か音が欲しくなると独り言をすることが増えるようになってしまった。
寂しいのならば人がいる場所まで降りればいいとディオニュソスによく言われる沙希だったが、それとこれとは別だ。
変に顔を覚えられたり、相手に情が移ったりするのは面倒だった。
ふと、沙希の脳裏に500年前の記憶がよぎる。
この世界に転生して最初の日、沙希は例の水晶玉から、前世からずっと憧れていたドレスを出して身に纏い、同じく水晶玉から出した姿見鏡で自分の姿を映してみた。そうして、おやっ、と思わず声をあげたのだ。
転生、と聞いていたので、てっきり自分の見た目は前世とは違うものに変わっているのだろうと思っていた。だが、その容姿は前世とほとんど変わっていない。胸元には、前世にはなかった葡萄に大蛇が巻きつき、その実に食らいつこうとしている姿を表した刻印が刻まれていたが、それは、ディオニュソスからの祝福を受けたことを示す証明であり、神に祝福された人間全員の胸に、その者を祝福した神を表す刻印が刻まれるのだと、沙希は後からディオニュソスに教えられた。
しかし、それ以外で彼女の身体に前世との違いは全くなく、これでは転生ではなくて転移だ。
このまま一生変わらないものと思っていた沙希だったが、転生して20年経った頃に、彼女の容姿は現在の姿へと変わった。
沙希の瞳の色は前世と同じ黒だが、前世で黒だった髪の色は白。光に当たると反射して、オパールのようにキラキラと虹色に輝く髪に変わっていた。
そう変わり始めたのは、転生してから10年程経った頃だった。今までなかった白髪が少しずつ増え始め、最終的に全ての髪が白くなったのは、それからさらに10年後だった。
老けない身体である自分が、まさか20年経って髪だけ老化したのかと、当時はひどく驚き動揺した沙希だったが、その髪色はただの老化現象にしては妙な色だと思ったし、たとえ老化現象だとしても、生まれてたった20年でここまで老けるだろうかと、疑問に思った。
その時、たまたまディオニュソスが彼女の前に現れたのでその理由を聞くと、それは沙希の身体に魔力が馴染んで、自分の魔力の色に髪が染まったのだと教えてくれた。
この世界では、髪の色が魔力の色を表すらしい。転生してから、沙希は一度も自分以外の人間に会ったことがないので知らなかったが、魔力が身体に馴染めば馴染むほど、その者の髪色は徐々に魔力に染まっていくらしい。つまり、彼女の髪色の変化は、沙希がディオニュソスから与えられた魔力を、完全に自分のものにできたことの証明ということだ。
完全に染まった彼女の髪をディオニュソスが初めて見た時、彼は「白髪とは珍しいな」と驚いたような声を上げていた。
魔力の色はその人間の性格であったり、心の中にある本質を表すもので、白は“純粋”を表す色だ。だが彼が知っている限りで心から純粋な人間などほとんどいない。そのため白い髪の魔法使いは、千年前から現在にかけて思い返しても、片手で数えられる程度しかいなかったらしい。
そのような不思議な変化がありはしたが、顔や体型などは何百年経っても変わらない。やはりこれは転生とは言わないのではないかと、沙希は疑問に思っていた。
ぼうっと天井を見上げていると、ふと、男の乾いたような笑い声が沙希の耳元に響く。
沙希はハッと我に返り、誰の声かは考えずとも分かったが、一応声のした方に顔を向けた。
するとそこには、彼女の右側のカウンター席にどかっと座り、いつの間に食器棚から持ってきたのか、沙希がコレクションしている錫製のグラスを手にニヤッと笑みを浮かべる、ディオニュソスの姿があった。
噂をすればなんとやら、とはまさにこのことだろう。
ディオニュソスは、沙希が先程ぼやいた独り言に答えるかのようにして口を開く。
「仕方ないだろう。いくら死なぬからといえ、赤子の姿のまま永劫の時を過ごしたくはなかろう?」
転生する、ということはこの世界の誰かの元に“生まれ直す”ということ。しかしそれでは、沙希が転生する前に望んだ、「決して死なず、老いず、朽ちない体になること」を叶えることが難しくなる。
老いない、ということはつまり、彼の言う通り生まれたままの姿で一生変わらずに生きるということになるのだ。
いくらなんでも、赤子のままというのは不便極まりない。それに彼女を産むことになる親も、自分の子供の見た目が赤子のまま変わらないとなると、いくら我が子でも気味が悪いと感じることだろう。
「…まぁ、それはそうだけど」
沙希は、彼が突然来訪して我が物顔で椅子にふんぞり返っていることには触れず、なんでもないかのような様子で答える。
沙希の屋敷周辺は、心から救いを求める者以外は立ち入れないように結界が張られている。それを難なく抜けて、さも当然のように屋敷内に入って来れる人物は、ディオニュソスしかいないとわかっていた。だがいくら神とはいえ、彼はノックをするということを知らないのか。
そう思ったが、言っても仕方ないと思い、沙希は何も言わないことにした。
いきなり現れて、誰に問いたわけでもない質問に勝手に答える。それが、ディオニュソスという男の性格なのだと、500年の付き合いの中で沙希は嫌というほどよく知っていた。
沙希は足元に置いていたワインのボトルを拾うと、『浮遊の魔法』を使ってディオニュソスにボトルを軽く投げる。沙希のすらっと長い指に操られるようにしてボトルは宙を舞い、ディオニュソスの前まで来ると、空のグラスに向かって傾きワインが注がれた。
とくとくと音を立てて、酒杯にワインが満ちていく。ディオニュソスは目の前で浮かんでいるワインのボトルを手に取ると、銘柄を確かめるようにラベルをじっと見つめた。
その横顔に、沙希はそっと尋ねる。
「……いつ来たの」
「ん?今だ。お前がひとりで寂しそうに飲んでいるのが見えたのでな」
沙希は一瞬図星を突かれたような感覚になったが、いやいや、きっと気のせいだと心の中で首を振った。
ひとりでいたくて、ひとりで暮らすために、こんな周りに木々以外は何もない場所で500年も生きてきたのだ。今さら、ひとりでいることが寂しいわけがない。そう自分の心に言い聞かせてから、沙希は誤魔化すように答える。
「別に寂しくないんだけど」
「またまた。そう言いつつ俺に酒を注いでくれるではないか。一緒に飲む相手を欲していたのではないのか?」
「……あなたの目当ては私じゃなく酒でしょ」
沙希が冷たく言い放つと、ディオニュソスはやれやれ、というように肩をすくめてくっくと引き攣ったように笑ってから、グラスのワインを半分程一気に飲む。
「…お前が転生してから、もう500年か。時の流れというのは本当に早いものだ」
ディオニュソスは呑気な声でそう言いながら、手に持っていたワインのボトルを沙希に向かって軽く投げ渡す。わざと沙希の顔目掛けて投げてきていたが、ボトルにはまだ『浮遊の魔法』がかかっていたので、衝突することなく彼女のすぐ足元に静かに着地した。
ディオニュソスが彼女の顔目掛けて重いものをわざわざ投げるのも、いつものことだ。沙希が咄嗟のことにどれだけ対応できるのかを見て、楽しんでいるのだ。
沙希はそれを持ち上げると、残っていたワインを全てグラスに注ぎ、既に空のボトルがいくつも置いてある目の前のローテーブルの上に置く。
まるで我が物顔でカウンターテーブルに肘をつき、さも当然のようにワインを飲みながら、沙希の表情を見て心底楽しそうな顔をして笑う子供のようなディオニュソスだが、そのワインも、彼が持っているグラスも、全て沙希が集めたものだった。
カウンターテーブルの向こう側はキッチンになっていて、その奥には沙希が魔法と前世の知識を合わせて開発した、電気なしの冷蔵庫がある。冷蔵庫といっても、食材は例の水晶玉で常に新鮮なものをその場で出せるため、食材ではなく、様々な種類の酒が入っていた。
それも、ワイン、シャンパン、日本酒と、種類に分けて冷蔵庫も変えているので、3台もの冷蔵庫が並んでいた。それも、キッチンの低い天井ギリギリまである高さの大型冷蔵庫だ。沙希の家にはこれの他に、地下にワインセラーがあって、そこにもワインが多く貯蔵されていた。
3台並んだ冷蔵庫の隣には板氷を入れた小型の冷凍庫と、さらに隣には冷蔵庫と同じ大きさ程の食器棚がある。ディオニュソスが持ってきた酒杯は、そこから持ってこられたものだ。沙希は前世の頃から茶器や酒杯、グラスなどにこだわりがあるので、飲む酒に合わせてコレクションしていた。
ディオニュソスがそれを勝手に持ってきて、まるでさも当然のように使っていることに多少の違和感はあるが、彼は多少なりとも気を遣っているのか、今持っている錫の酒杯以外を持ってきて勝手に使うことはないので、沙希もそれならまぁいいかと、その酒杯をディオニュソス用に目につく場所へ置いておくことにしたのだ。
沙希はグラスに並々注いだワインを半分ほど飲んでから、呆れたような、うんざりしたような顔でディオニュソスを見つめる。
「…ディオニ。あなたここに来るたびに似たようなこと言っているわよ」
「ん、そうだったか?」
悪戯小僧のようにクックッと笑ながら、ディオニュソスは答える。沙希は、彼のこういう人懐っこそうな顔には慣れっこだった。
彼女がこの世界に転生…もとい転移してから、ディオニュソスはいつの間にか沙希の前に現れて言葉を交わしたり、酒を飲んだりして満足したかと思えば、いつの間にか消える、というのを度々繰り返していた。
そんな年月を繰り返すたびに2人の距離は近づき、いつからか沙希は彼を“ディオニ”と呼ぶようになった。
はじめの頃は、なぜ彼がやってくるのか分からず、身構えたりもした。だがそのうち、きっと彼はただ気まぐれに来ているだけだろうと考え、以来彼に対し抱いていた警戒心は一気に消えた。豊穣の神である彼はワインが好きなので、きっと、沙希がコレクションしているワインを飲みにきている、というのもあるのだろう。
無断で結界を抜けていつの間にか目の前に現れる、というのはいい加減やめてほしいとも思うが、彼は人ではなく神だ。人の常識など求めたところで無駄だろう。
「……もう酔ったの?」
「まさか、この程度で酔ったりはしない。それに、知ってるだろう?我らは酔ったような気分にはなれても、酔うことはない」
ディオニュソスの言葉に、沙希はそうだったと小さく呟いてから、残りのワインを飲み干す。
不老不死になってからというもの、元々酒が強かった沙希は、さらに酒豪になった。
死なない身体、朽ちない身体を持った沙希は、酔った、という感覚を味わうことはできても、それは実質酔っていることにはならない。冷静になろうと思えば、酔ったような心地は一気に消えてしまうのだ。
ディオニュソスは、それを神の感覚だと言った。
神は腹が減ることがない。空腹だと感じなければ、何も食べずとも暮らしていけるのだ。その感覚が、不老不死者の沙希にもあった。
だが今のディオニュソスは、一口しか飲んでいないのにまるで酔っ払いのようだ。
呆れるようにため息をつく沙希に、ディオニュソスは心底面白そうに笑いながら、言葉を続ける。
「まぁ、いいじゃないか。俺もまさか、お前が500年もの間狂わずにこんな生活を貫き通せるとは思っていなかったから、正直感心しているんだ」
「……どうして私が狂うのよ」
「人というものは、あまりに長く生きすぎると気が狂うものだろう?俺たち神とは、根本的に違うのだから」
あぁ、そういうことか。
沙希は納得するように頷いた。
500年という、元人間だった沙希からすれば気が遠くなるほど長い年月を生きてきた。
沙希もはじめの100年間は、長いな、と感じたが、120年目を超えてから感覚が麻痺してきて、10年がまるで1日であるかのような気さえしてきていた。
……これが、終わらない時間を生きるということか。
人は長く生き過ぎると、人としての感覚や感情を忘れてしまうらしい。500年間、髪色以外は全く変わっていない沙希だったが、その心に、もはや人だった頃の感覚はない。沙希は、自分がとっくの昔に人間の枠から外れてしまっていると、自覚していた。
ディオニュソスは感心した様子で、さらに言葉を続ける。
「よくもまぁ、こんな変わり映えのない生活を500年も飽きずに続けていられるものだ。神である俺でさえ、こんな毎日は退屈すぎるぞ」
まぁ、そんなお前の様子を見ているのは面白いが、と付け加えてニヤニヤと笑うディオニュソスを、はいはい、と軽く交わしてから沙希は返答する。
「……まぁ、この500年、それなりに色々あったから、何にも変わってないってわけでもなかったわ」
しみじみ、といった様子で呟く沙希の脳裏に、この500年間の出来事がよぎる。
変わらない時間、終わらない命を手に入れた沙希だったが、ふと、思った。どうせ長く生きるのならば、不老不死の自分にだからできる何かをしようと。
本来限りある命を、自分のわがままで歪めてしまっているのだから、神によって与えられたこの力を、他者のために使おう。沙希の屋敷を囲う結界は、そんな思いから作られたものだ。
自ら進んで誰かを助けることはないが、もし誰かが心から助けを求めるのならば、自分はその者に手を差し伸べよう。そう思ったのだ。
つまりこれは、命への対価だ。
無限の命の対価を、他者の命を救うことで支払おうと考えたのだ。
彼女を不老不死者にした張本人は、そんなことをしろとは一言も言っていない。むしろ、他者に傷つけられて挙句殺されたというのに、それでもなお他者を助けようとするのかと、何やら面白がっている様子だった。
とはいえ、元々人が寄り付かないらしいこの山で、彼女の元に現れるのは飢えて苦しむ獣や、怪我を負ってやってくる魔獣ばかり。
一度だけ、この世界の滅亡の危機を救ったこともあるが、他は魔獣や獣たちばかりだ。獣は用が済めばすぐに結界の外に逃げていってしまうが、魔獣の中にはたまに人間の言葉を話す者もいて、相手が沙希に怯えて逃げ出さない限りは言葉を交わしたりすることができるため、これまで退屈したことはあまりなかった。
本人には決して口にする気はないが、こうしてディオニュソスがたまに顔を見せにきて、一緒に酒を飲んだりすることも、彼女にとって実はいい退屈しのぎになっていたりもした。
このことを聞いた彼が、本当に楽しそうにニヤニヤと笑いながら、揶揄うような口振りで「そうかそうか」と頷き声を殺して笑うだろうということが容易に想像できるので、沙希は、絶対に言うまいと心に決めていた。
そういうわけでこの500年、彼女が退屈することは特になかったのだが、最近、その魔獣たちが救いを求めてやって来ることがめっきり減っていた。最近、といっても、神の感覚でいうところの“最近”であって、実際は十数年前からの話であるが。
沙希の手助けがいらないほど平和な状態が続いている、というだけの理由ならば喜ばしいことではあるが、そうではないと沙希は確信していた。
魔獣が来なくなった分、獣たちがひどい怪我を負って結界に入って来ることが増えたのだ。どの獣も、まるで別の獣に傷つけられたような咬み傷や引っ掻き傷があり、他の獣か、もしくは魔獣の仕業なのは明らかだった。
“弱肉強食”の世界は、獣たちにとっては当然の常識だ。それは分かっているが、傷を負った獣たちは、どうも食べられるためではなく、ただ傷付けられただけのように思えてならない。
ウサギや狸なら分かるが、食物連鎖上では他の動物に食われることがあまりない熊や狼などの動物たちが、酷い姿で沙希の前に現れるのだ。
沙希は、まさかそんなことはないだろうと思いながら、一応確認するようにディオニュソスに尋ねた。
「……ねぇ、ディオニ。魔獣って、熊食う?」
「……突然なんだ?」
「ちょっと、気になって」
尋ねられたディオニュソスは、少し驚いたような顔をしたが、すぐ考えるような顔で低く唸り、否定するように首を振って答えた。
「お前も知っているだろうが、この世界の魔獣たちは知能が低く臆病だ。奴らが食すのは他の獣と同じく、虫や木の実や、自分より体の小さな獣だけだ。わざわざ熊に向かっていくような魔獣はいないだろう」
やはり、そうか。
沙希は納得するように小さく唸った。
魔獣の性質は、沙希も長く彼らと関わってきてよく知っている。魔獣自らがそれを語ってくれることもあった。
この世界での魔獣は、恐ろしい見た目とは裏腹に臆病者で、彼らがこの森にいるのも、人間を避けるためだと言っていた。人間は、その見た目で勝手に彼らを恐れ、近づかないようにしているが、実際は魔獣の方が人を恐れ、自分達からは近づかないようにしている。人が魔獣を討伐せんと森にやってきた時には仕方なく応戦するが、進んで人に危害を加えようとはしないのが彼らだ。
そんな彼らは、自分より力の強い魔獣や、体の大きな獣を恐れる傾向にある。そのため、彼らが自らの意思で熊を襲ったというのも、彼女にしてみれば信じられないことだったのだ。
「……熊が、どうしたというのだ?」
気遣うようなディオニュソスの声を耳元に感じて、沙希はハッと我に返る。振り向くと、カウンターにいたはずのディオニュソスがいつの間にか沙希の右隣に座って、彼女の顔を覗き込んでいた。
沙希は驚いて、思わず息を呑む。
彼の顔にいつものニヤニヤ顔はなく、本当に沙希のことを気遣っているような、案ずるような目を向けてきていた。普段いたずらっぽい笑顔ばかり向けてくる分、たまにこういう表情を向けられると調子が狂う。
沙希はふぅっと小さく息を吐いて、冷静さを取り戻してから、答えるように口を開いた。
「熊がどうこうじゃなくて、最近、魔獣たちの様子がおかしいから、気になっただけ」
臆病者だったはずの魔獣が、突然熊に襲いかかるなど、何かしら原因があるに違いない。それに、熊を瀕死に追いやるほど凶暴化した魔獣。今は獣たちだけが被害に遭っているのだとしても、今後彼らが人間を襲う可能性もある。
……いや、もうすでに被害を受けた人間もいるかもしれない。
沙希が最後に屋敷の外に出たのは、200年ほど前だ。それ以降は一度も外に出たことがなかったため、沙希はこの世界の人間たちの様子がさっぱり分からないのだった。
沙希が神妙な面持ちで深く考え込んでいると、それを見たディオニュソスは何がおかしいのかふっと笑った。沙希は顔を上げ、怪訝な表情で彼を見る。
「……何笑ってるの?」
「いや、見ず知らずの人間のためにそこまで考え込むお前がおかしくてな」
「何よ、それ」
「そうだろう?だってお前は、人と関わりたくないから、こんな森の中に住むことを望んだのではないのか?」
その言葉に、沙希は押し黙る。
確かに、そうだ。
自分は他人と関わりたくないがために、こんな、何もない山の中に屋敷を建ててもらうよう彼に頼んだのだ。
だというのに、まだ関わったことのない、関わりたくもないと思っている人間のことを気にかけるなど、矛盾している。ディオニュソスに笑われても仕方ない。
だが沙希の心には、永遠に終わらない時を生きることへの、多少の罪悪感があった。
両親を亡くし、祖父母も亡くし、自分も一度命を落とした。沙希は、命というもののがいかに尊く、儚く、大切なものなのかをよく分かっているつもりだった。
命は、ほんの一瞬の出来事で、最も簡単に消えてしまう。まるで蝋燭に擦れる淡い炎のように、吹けば消えてしまうようなもの。だから人は命の重みを噛み締めながら、後悔のないように生きなければならない。
……そう、分かっているからこそ、沙希は自分だけが“死なずの存在”であることに、何かの意味を持たせたいと、自分がそう生き続けることに、何かしらの理由をつけなければと考えたのだ。
そうでないと、自分はもはや生き物ですら無くなってしまう。
無限の命に操られるだけの、操り人形になってしまう。
沙希が他者を助けるのは、そんな自分勝手な理由だった。これでは、自由気ままに、気まぐれに生きているディオニュソスと一緒だ。
考え込んでいた沙希は、ふと、隣に強い視線を感じて、顔を上げる。視線の先に顔を向けると、ディオニュソスのエメラルド色の瞳とぶつかった。
宝石のようなその瞳は、淡い光を放っている。それは決して光の反射ではなく、魔法を使う時や何かに集中している時などに、ぼうっと光を放つのだ。
まるで瞳の中に星屑を散らしたような輝きと、その瞳の奥で、青白い炎がゆらゆらと揺れているような、不思議な瞳。それを見ていると、本当に、この男は人間とは違う、本当の神なのだと、改めて実感するのだ。
沙希はこの世界の人間を、遠目からでしか見たことないが、少なくともこんな目をする人間はいなかった。
平静を装い、沙希は声を漏らす。
「…なに?」
「……お前、神になる気はあるか?」
一章がどうしても長くなってしまうので、いくつかに分けて投稿しようと思います。
読みづらいかもしれませんが、温かい目で見守ってくださると幸いです(*^^*)