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読書感想文 

作者: オスママン

映せ

題名 走れメロスを読んで

 オスママン・オス・オスママン

 走れメロスは有名な物語だ。小学校や中学校の教科書に載っており、授業でも取り扱う内容なのでこの感想文を読んでいる方もきっとご存じだろう。走れメロスは二人の男の友情の物語とされている。自身に降りかかる苦境に負け一度は約束を破り、友を見殺しにしようとする主人公メロス。しかし、友を思う心が邪心を打ち破りメロスは友が待つは処刑場に帰ってくる。自身の命を投げうって友との約束を果たす。きわめて理想的な友情関係でその関係を描いたこの作品は素晴らしいと感動した方も多いだろう。

 しかし、この物語は視点を変えて読むと上記のような評価が覆る。この物語はメロスとセリヌンティウス(友)の友情の物語ではなく、それを利用し独裁国家を完成させた計算高い邪知暴虐の王の話であることが分かることだろう。では、何故そのように私が感じたか順によって説明する。

  そもそも走れメロスに登場する王の行動は不可解な点が多い。まず王が本当に完全な人間不信ならメロスに猶予を与えない。メロスが短剣を携えていたことから王を殺しに来たという可能性があると王が考えてもおかしくない。しかしこの場面で王はメロスを逃がした。これは王がメロスを自身に危害を加えない存在であることを確信していたことを示している。メロスがもし暗殺者なら隠密行動や変装など人に目立たない行動を心がけるはずだ。それに対して、メロスは正面突破を試みて捕まった。こんな場当たり的なやり方では暗殺などできるはずはないから王がメロスを暗殺者だと考えないだろう。それに正面突破を試みる男に仮に王を殺す意思があったとしても再び衛兵に捕まるだろう。だから王はメロスを信じて猶予を与えることが出来た。つまり、王はこの世の全ての人間を疑っていたわけではない。王は疑うべき人間を見抜くことができる。

 次に、劇中の様にメロスを大衆に見せる形で処刑するのは王にとってメリットがあまりない。確かに見せしめにすれば王に対し殺意を持つ者に対する抑止力として機能するだろう。メロスの無様な姿を大衆に見せつけ辱めを受けさせうっぷんを晴らしたいという考え方もまたある。しかし私が王なら劇中のようなメロスを公開処刑にはしないだろう。なぜならば、この時大衆は王を邪知暴虐の悪党だと考えているからだ。大衆がいる場にて王がメロスの処刑などしてしまえば王への不信感はますます強まるだろう。そのような状況下で王はメロスを見せしめにするだろうか。王も自身が大衆からよく思われていないことを全く知らないと言うことはないだろう。また、王はメロスに人を信用できないと発言している。もしこの発言が本当なら王は慎重な性格をしているはずだから大衆のことは当然信用していないと考えられるので自身の立ち振る舞いが大衆にどう受け取られるか慎重に考えるだろう。つまり、王はメロスやそれに近しい人間を殺すメリットがあまりない。あったとしてもそれは王の個人的な感情によるものだろうしメロスによる報復を防ぐ目的だけならばメロスを独房に入れておけばそれで十分だ。

 王は多くの人間を処刑した。しかしその処刑はむやみやたらに行われたものではない。まず、王は老爺のような一般的な庶民を殺していない。老爺曰く、王は世継ぎや妹や妹の子供や臣下を殺したという。これら名前が挙がった人々は全員社会的なステータスが高く、王になり替わる可能性が高い人々だ。だから王はこれら名前の挙がったような人々を殺し自身の地位をより安定的なものにした。王を狙うライバルはもういない。より安定的な地位を獲得するために王は次に何をするべきだろうか。無論、大衆の支持を得るべきだろう。

 これらのことを踏まえ私は、王がメロスを許す場面を大衆に見せることで大衆の信頼を回復させようとした可能性があるのではないかと考えた。ではここで、メロスが処刑場に帰ってこなかった時のことを考えてみよう。もしそのような事態になった時王がセリヌンティウスを許せばどうなるだろうか。「哀れなセリヌンティウスよ、貴様は友メロスに裏切られた。しかし貴様が友を思う心は本物だ。それに免じて今回は許す。」このように王が発言しセリヌンティウスが慈悲をかければどうなるだろうか。大衆は王が必ずしも罪人の処刑を行う人物ではないと学習するだろう、そして恐怖から解放された大衆は王を讃え支持するだろう。そう断言できるのは本作のラスト近くに王がメロスを許し、その様子を目にした大衆が「王様万歳」と声を上げるという場面があるからだ。本作はメロスとセリヌンティウスの友情を目にした王様が改心したとする解釈が一般的だが果たして本当だろうか。それは王が大衆に見せたかった王の姿なのではないだろうか。

また、王が自らの慈悲深さを大衆に見せることで大衆に疑問を投げかけることも出来る。王は改心してメロスを許すに至ったのか、それとも王が元々邪知暴虐ではなかったのだろうか。王に罵詈雑言を投げかけ暗殺までしようとした男を王は許したのだ。そのような慈悲深い人間がメロス以前多くの人間を処刑した。それは、処刑された人々の方に問題があったのではないかと。

ここまで書いのは私の憶測にすぎない。本文の所々に疑問点や不可解な点はある。しかし、それが私の憶測を憶測の域から脱する根拠にはなりえないだろう。作者が死んでしまった以上作者が何を意図して本作を書いたか分からない。そもそも作者が書いたことが読者に完璧に伝わることなどありえないし伝わったところでそれを完ぺきに読者が受け入れるとも思えない。作品とは作者と読者、読者と社会との間に存在する共通認識を探る行為なのかもしれない。

 ともかく私が言いたいのは、走れメロスは友情の話ではなく王がメロスを利用し大衆の支持を得ることで独裁国家完成させた話なのではないかということである


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