scene2
――2――
――父さんが、帰ってこない。
あの事件から、三日が経った。私は辻口さんの方針で療養期間をとり、なんとなく家で過ごしていたのだけれど……そろそろ、配信くらいはしていいのかな。風邪でお休み中、ということになっているのだけれど。
いや、私が私でなくなるのなら、このまま忘れられた方が良いのかも知れない。ひっそりと、霞の中に消えるように。yo!tubeだって、今はたくさんの配信者を抱えている。きっと、私のコトなんて直ぐに誰も見向きしなくなることだろう。
(だめだな……こんなんじゃ)
今まで、“友達との思い出”として心の支えにしていた五百円玉は、鵜垣に投げつけてしまった。そうなると、この、チョーカーだけが頼りだ。音の鳴らない鈴。つぐみのくれた、私のお守り。
どうしたら良いんだろう。今のうちに、母さんの日記を探す? いや、見つからなかった上で探した痕跡を見つかったら処分されかねない。慎重にことを運ばないと……。
――PiPiPiPiPiPi
そうやってあーでもない、こーでもないと考えていたら、不意に、スマホに通話が入る。父さん……だったら、メールで済ますはずだ。誰だろう? 恐る恐るディスプレイを見ると、そこには、『ロロ』の二文字。
「もしもし?」
『やっほー、ツナギ! 元気かしら?』
「う、うん」
『あらよかった。でもダメ!』
「へぁっ!?」
『閉じこもってばかりじゃ、キノコになっちゃうわ!』
急に否定されるモノだからびっくりした。というか、電話なのにテンション高いな。電話なんて、指示を伝えるツールに過ぎないはずなのに。
「そう言われても、家から出るわけには行かないよ」
『大丈夫、アタシに任せて。諭君に車を手配して貰ったわ』
「車……?」
『そ。その上、彼はしばらく帰ってこないわ。裏取りしたからね』
「そう、なんだ?」
父さん、帰ってこないのか。それなら日記……いやいや、だめ、だめだ。蝋人形周りを荒しでもしたら、下手したら私も蝋人形にされる。
『ということで、お出かけよ。んふふ、腕が鳴るわぁ』
「えーっと?」
『テキトーな格好で出てきて頂戴。家の前に黒塗りのバンが停まっているから、乗り込んでね。じゃ、待ってるわよ~!』
「あ、ちょっと、ロロ――切れちゃった」
強引だなぁ。いや、強引に来てくれないと、うだうだと動けない自分もいるのだけれど。
クローゼットから適当に服を引っ張り出す。デニムの上下で良いか。適当って話だし。ロロはいつもそういうの煩いんだけど……ロケバンみたいなの使うのかな。ひょっとしなくても、車内で着せ替え人形は確定かなぁ。
カツラもちゃんとずれないように整えて、上から押さえつけるようにキャップを被る。鏡に映り込むのは、いつもの私だ。母さんに、よく似た私の顔。
桐王鶫に、よく似ていると言われた母さんに、似た。
胸の奥で、灰が疼く。重く苦しい灰が、痛い、痛い、と叫ぶように。なんで、母さんは父さんを選んだんだろう。なんで、母さんは、父さんが良かったんだろう。なんで、優しかった父さんは――いいや、だめだ。考えても仕方がない。
母さんのことを知るための手段はもう、わかっている。母さんの日記さえあればいい。望みが叶うとき、日記も渡すと父さんは言ってくれた。そこにはきっと、父さんを元に戻す方法だってあるはずだ。
準備をして家を出る。スタジオに使っていたこともあるというこの家は、モニタールームや防音室など、資料で見るような一般家庭にないような施設も多い。父さんは基本的に、プライベートルームとモニタールームの壁を取り払った部屋で過ごしていて、私は、防音室が主な活動場所。私の部屋は元は仮眠室だったものらしい。玄関みたいなものは無理矢理取り付けた感じで、扉にはポストみたいなモノはない。適当なスニーカーを履いて外に出ると、外には黒いバンが見えた。
「あらあらあら待っていたわよ、ツ・ナ・ギ」
「一応、来たけど」
「さ、入って」
「う、うん」
後部座席に乗り込むと、そこはちょっとしたドレスルームになっていた。対面式の椅子に備え付けられたメイク一式。それから、カーテンとドレッサー。運転席には辻口さん……ではなく、知らない男の人。
「あの、彼は?」
「ああ、彼はアタシたちの協力者だから、気にしないで大丈夫よ。二郎君って言うの」
「はぁ……うん、まぁ、わかった」
ロロにそう答えると、ちょっとだけ、運転席の男性を盗み見る。黒髪をなでつけたガタイの良い男性で、堅物そうな雰囲気がある。そう思うと辻口さんを思い出して、なんだか少し落ち着いた。
「さ、せっかくの自由だもの。やりたいこと、やりましょ」
そう、妙に上手なウィンクと共に語りかけるロロの姿に、頬が引きつる。良いのかなぁ。父さんに怒られないかなぁ。出歩いている、なんてバレたら、また、たたかれるんじゃないかな。やだな。いたいのも、くるしいのも、つらいのも――かなしいのも。
「ツナギ」
自然と、足下を見ようと落ちていた視線が、ロロの声で引き戻される。ロロは相変わらず化粧が濃いけれど、その目はなんだかとてもキレイだった。
「良い? “楽しい”を知りなさい。“辛い”と“苦しい”ばかりでは、イイオンナ……イイオトコにはなれないわ。美しいも醜いも、楽しいも苦しいも……愛おしいも憎いも、両方知らなきゃ新しいステージには立てないの。覚えておいて、ツナギ。今はわからなくても良いわ。でも、いつか、アタシの言葉があなたのハートを磨き上げるために」
よく、わからない。わからないけれど、頷く。ロロは真剣だ。真剣に、私のためを思ってくれている。だから期待に応えたい。裏切りたくない。嫌われたくない。もう、なにも、零したくない。
「わかった、けど、どうしたらいいのかわからないよ」
「そうね。だから、聞いたじゃない。やりたいことはない? って」
「あ……やりたい、こと」
「思いついた端から言ってごらんなさいな。ね?」
やりたいこと――と、言われて思い浮かんだのは、あの日に私を抱きしめてくれた少女の姿だった。ほこり臭いコンクリートの部屋、差し込んだ光が照らす銀の髪。まっすぐ私を覗き込む、空色の双眸。優しくて強くて綺麗な、女の子。
「つぐみに、会いたい」
「あら! ふ、ふふふふ、そうこなくっちゃ!」
「え、あ、あ! い、今のはそのあのえっと」
「いいの、いいの、いいのよ! ああ、腕が鳴るわ」
祈るように両手を組み合わせて、きらっきらの表情で私に迫るロロ。そのあまりの迫力に、一歩下がってしまう。
「ほらほら、その調子で次、次!」
「ええー……急に言われても。あ、でも、母さんのことが知りたい、かも」
「エクセレェェェンット!! その調子よツナギ! アンタのオンナ、見せてみなさいな!」
「私、男だよ……あ、そうだ。つぐみにバレたんだけど、父さんには、言わないで」
「言うモノですか! んふふふふふふふふふふ!」
う、うるさい。申し訳ないけど、すっごくうるさい。あーでもない、こーでもないと呟き出すロロから目を逸らして、スマホを眺める。あの日、無事を願うつぐみからのメッセージが届いたのだけれど、まだ、返せていない。なんと返したら良いのか、急に、わかんなくなってしまったから。
言葉と、声と、姿と、匂いと、なにもかも。思い出す度に、どんな気持ちでどんな言葉を返して良いのかわからなくなる。
「あら、ちょっと借りるわよ」
「へ?」
そんな私の迷う指から、ロロはひょいとスマホをかすめ取る。なにやらささささっと指を動かすと、困惑する私の元にスマホが返ってきた。
「な、なにさ」
「ふふ、良い子ね」
「え――ぁ」
わけがわからないままスマホを確認する。そうすると、何故か、増えているメッセージ。一つは打ち込んだ覚えのない……というか、今、ロロが打ち込んだもの。もう一つは、つぐみからの、返信。
『ツナギ? 大丈夫? 無事? 怪我はない?』
『返信、遅れてごめん。無事だよ。ちゃんとお礼が言いたい。今日、逢えない?』
『三時以降なら大丈夫だよ! どこにする?』
あわ、あわわ、あわわわわわわ。
顔が熱くなる。なんて、なんてことをしてくれたんだ!
「ど、どどど、ど、どういう――」
「じゃ、準備、しましょうね?」
「――準備って、勝手にこんな! あっ」
再びスマホが取られる。今度は勝手な操作はされていない。だって、ロロの手には既に、メイク道具が握られていたのだから。
「さ、酸いも甘いも知る前に、オトコもオンナも知りましょうか。ね?」
「ね、じゃな――」
その勢いに、酸いも甘いも知らない私じゃ勝てるはずもなく、あっさりと、ロロに巻き込まれて捕まった。
どうしてこんなことに。い、いや、それよりも、これからどうなっちゃうんだろう。私は、恐怖と怯えと困惑を上塗りするかのような胸の高鳴りをごまかすように、ロロに身を委ねることしか、できなかった。