opening
――opening――
きつく、黒髪のカツラを被り直す。もしも人前でこれをとったことがバレたら父さんに――いや、考えるのはよそう。つぐみしか、見ていなかったんだから。
幸い、はっきりと見ていたのはつぐみと犯人の二人だけで。犯人は御門さんに顎を砕かれていた様子だった。まともにしゃべれるようになった頃には、私の髪色なんか忘れている、と、思う。
つぐみ……つぐみは、きっと、言いふらしたりはしない。あの子はそういう子だ。優しくて強くて、どこか、母さんにも、似た女の子。
私みたいな、半端な人間とは、違う。
抱き合うつぐみと御門さんの様子を脇目に見て、目をそらす。私には、あんな風に抱き合って喜んでくれるような人間はいない。でも、父さんの望みを果たせば、きっと……きっと。
「ツナギさん。おうちの方がいらっしゃいましたよ」
その場に居た警察官の方がそう告げる。誰だろう、辻口さんかな? あの人も、よくわからない。よくわからないし、とても堅物なような気はするけれど――私のことを尊重も、してくれている。
「ツナギィィィィィィッッッ!!」
「うわっ、えっ、へぁっ!?」
「ああん、心配したわよツナギどこにも怪我はない!?」
「ロ、ロロ!? なんでロロがここに!?」
カラフルに染色した髪と妙にマッチしたレースの服。端整で濃い顔立ちから放たれる女言葉。私の事情を知る数少ない人間の一人、専属スタイリストの天岡露炉亜――ロロがその豪腕で私をひょいっと持ち上げて頬ずりする。
「さ、帰りましょう、ツナギ」
「で、でも、事情とかそういうのは……」
「細かい手続きやなんかは、ほら」
ロロが指差した先では、警察の方相手にお話をする辻口さんの姿。
「怖い目を見たんでしょう? だったら、大人に任せておきなさい。ね?」
「うーん……別に」
「いいから。そういうのはあとから来るモノよ? おねえさんに任せなさいな」
人のこと言えないけれど、ロロはお兄さんじゃ……いや、良いか。
怖いか怖くないかと言われたら、蝋人形とイチャイチャする父さんの方が怖いから、なんとも言えない。鵜垣とかいうあの男も怖くはあったけれど、父さんの方が上だ。そういう意味では、私よりもつぐみのことが心配、かな。
「天岡さん」
「あら諭君、終わった?」
「はい。カウンセリングを寄越すという話もありましたが……事情が事情です。下手に人を招けばアレがどうなるかわからない。家で雇うという話をして、今日は一時帰宅です」
「さっすがぁ。ご褒美にキスしてあげるわ」
「結構です。……こんなにスムーズに話が進行した以上、彼の介入があったのでしょうし」
辻口さんは義足を感じさせない滑らかな動きで、私たちを先導していく。周囲の奇異の視線もなんのその。世間にどう思われようが、辻口さんとロロは堂々としていた。
「彼、ね。ねぇ諭君……彼――アノ人は?」
「数日家を空けるそうです。後片付けがどうだか、と。どうせ疚しいことでしょう」
「そうねぇ。ま、良いわ。アタシの仕事はツナギを美しく際立たせるコトよ。外面だけで美しさが測れるなんて一言もいってないのだけれど、ね」
辻口さんが運転席に乗り込み、私とロロが並んで後部座席に乗り込む。男の人に襲われたあとだから、(心は)女性のロロが、隣に来てくれた……のかな。わからない。
「恐怖はいつだって潜伏しているわ」
「ロロ……?」
「アタシだってそうよ。だから、怖くなったらいいなさい。秘密はオンナを美しくするけれど、怯えはオンナを曇らせるの。せっかく美しいのだもの。ハートもキレイに生きましょう」
そう言うと、ロロは妙に似合うウィンクをくれた。けれど、恐怖、恐怖か。確かに、恐ろしくはあった。でも、さっきまでの怒濤の時間を思い出そうとすると――
『わたしはツナギが女の子だからともだちになったんじゃない。ツナギが男の子だから、ともだちをやめたくなったりもしない』
『で、でも、ずっと騙してたのに!』
『だからどうした! わたしは、ツナギのともだちだよ。ツナギがイヤだって言ったって、やめてなんかあげないんだから!』
私を覗き込むスカイブルー。瞳の奥で燦然と輝く意思の炎。まるで、心の髄まで、灼かれてしまいそうだった。恐れも、怯えも、憂いも、悲しみも、痛みも、苦しみも、憎しみでさえ、塗り替えてしまうような光だった。
(あれ……? どきどき、してる)
胸が高鳴る。どきどき、どくどく。身体に詰まっていた薄暗くて汚い、どろどろとしたものが、空色の水で流されてしまうかのような。胸が熱い。心が、火照るようだ。
「――……恋ね」
「へぁ!?」
「ふふ。ソンナ顔してたら、誰だってわかるわ。ねぇ、諭君」
「運転中の僕に同意を求めないでください」
ロロがまた、妙なことを言い出した。鯉? 故意? いや、恋か。いや、いや、待って。そんなはずがない。私なんかに、誰かを好きになる資格なんてない。それに、こんな、男か女かもわからないような格好の人間――は、つぐみには、関係ないのか。
そうじゃなくて! そう、頭に過る彼女の笑顔を振り払う。払えない。なんで。ああ、もう。
「ね、ツナギ」
「……なにさ」
にやにやと私を見ていたロロが、不意に、優しげな目を私に見せる。
「気持ちの変化って、楽しいコトばっかりじゃないわ。でも、とても大切なモノよ」
「楽しくなくても?」
「ええ、そう! だから、アナタのハートに宿ったモノ、大事にしてあげて」
私の心に宿ったモノ、か。そんなことを言われても、よくわからない。今日までずっと、諦めて、手放してきた。期待したって無駄で、希望を持つだけ苦しくて、本当の気持ちや感情さえも迷子で。
心の奥底に溜まっているのは、恋だとか愛だとか、そんな綺麗な感情なんかじゃないことは、他ならぬ私自身がよくわかっている。これは、灰だ。思いの燃えかす。飲み干してきた心の塵芥。足掻くほどに息苦しくて、重くて、苦い、灰だ。
「諭君、アノ人はいつ帰ってくるのかしら?」
「根回しと、それから人に会う用事があると聞いています」
人、か。父さんが他人に会いに行くなんて珍しい。いつだってあの部屋で、母さんのベッドに置いた蝋人形に話しかけていたのに。
「人、人、人、ねぇ。ああ、そういえば何か言っていた気がするわ」
「ロロ……興味の向かないことにももう少し記憶力を働かせてもよろしいのでは?」
ぽん、と手を打つロロに、辻口さんの呆れたような声が返る。
「あら、興味はあったのよ。エナちゃんだかマナちゃんだか、女の子に会いにいくって小耳に挟んだ物だから、気になっちゃって」
「女の子……? 父さんが? まさか、人間を剥製に……?」
「どうしてそんな方向に思考が飛ぶのかしら?」
そうしたら――そうしたら、わたしは、ようずみになるのかな。
封じ込めた心が、灰の中から呻く。いいや、そんなこと、あるはずがない。私が完璧に、父さんの求める“桐王鶫”の演技ができるようになれば、母さんの日記だって戻ってくる。そうしたら、それで、やっと始まりなんだ。
(優しかった父さんを、取り戻すために)
「ロロ、聞きたいことがあるのですが」
「なぁに、さ・と・る・君?」
「……」
どこか思案げな辻口さんの言葉に、ロロはあざとく首をかしげる。
「その方、“エマ”という名ではありませんでしたか?」
「そう、そうそうそう! それよぉ! なぁに諭君、アタシというものがありながらアナタも件のエマちゃんにお熱なワケ? 妬けちゃうわー」
「あなたに妬かれる理由はわかりかねますが……そうですか、となると、少しプランに変更を加えた方が良いかもしれません」
辻口さんは自分自身に言い聞かせるように呟くと、それきり黙り込んでしまう。思わずロロと視線を合わせて見れば、ロロは私に合わせて首をかしげた。
「ちょ、ちょっと諭君。結局、その、エマちゃんって誰なのよ」
「ん? ああ、失礼。話していませんでしたね」
自分の世界に没頭していたのだろうか。今気がついた、という風な態度で、辻口さんが運転席で頷く。プラン、というのはなんだろう。私では理解できないだろうから、聞かないけれど……辻口さんは私の意思を尊重してくれる人だ。辻口さんとロロと、つぐみと虹は信用できる。信頼、してる。
他の大人や、他の人は、よくわからない。これまでずっと、私の世界は父さんと……思い出の中の母さんだけだったから。
「『テラ』」
辻口さんの呟いた言葉の意味がわからなくて、思わず、思考を中断する。
「『アーカイヴ』、『Let』、『オメガ』」
けれど、続いてきた言葉でやっと、意味がわかった。確かハリウッド映画、だったと思う。喜怒哀楽を桐王鶫関連以外で出さない父さんが、珍しく、苦々しい顔で手に取ったタイトルだ。
「そう、それから――『Fear』」
中でも、フィアー――『Fear』。そのタイトルが目に留まると、父さんはとてつもなく苦いモノを呑み込んでしまったかのような顔で、タイトルを睨み付けていた。確か、監督は、日本人で。
「ああ、知ってるわ。ね、諭君、それって“閏宇”の作品でしょう?」
「ええ、そうです。彼女がハリウッドで手がけたホラー映画のものですね」
「でも、件のエマちゃんと、何が関係あるワケ?」
閏宇、という人の名前は知ってる。というか、調べた。桐王鶫の関係者だったから。桐王鶫の一番親しい友人。それが、確か、閏宇という女性だった。
「EMAとは、その、Fearの助監督を勤め上げた女性であり……件の、閏宇さんの弟子に当たる方でもあります」
辻口さんの「まさか来日していたとは」という呟きが、どこか遠くに聞こえる。もし、もしも、桐王鶫の関係者を父さんが呼び出して会っているのだとしたら、私が私でなくなる日も、近いのかも知れない。
そう思うと、そう思うと……どう、なんだろう。前は、それで優しかった父さんに戻るのならそれで良いと思った。待ち望んでさえいた。今も変わらない、はずなのに。
(私が私でなくなっても――つぐみは、友達で居てくれるのかな)
胸の奥に沈んだ灰が、私をあざ笑うように足掻く。どうしようもなく拘泥した気持ちを振り払うことは……できそうに、なかった。