ending
――ending――
白いシーツ。
白いベッド。
白いカーテン。
春に目が覚めたときの光景によく似た、病院の風景。けれど、窓の外が無限に広がる水平線だったものだから、私は、反射的に“これは夢だ”と気がついた。
動き回りたい、けど、夢だからかな。身体の自由がきかない。なんだか不思議な感覚だ。金縛りにでもあったみたい。
「目が覚めたみたいだね」
「え? あ、えっと……?」
首は窓の外を向いたまま動かすことはできない。ただ、誰かがベッドの脇に座って、その気配だけが肌を撫でた。
「無茶しすぎ。だけど、私のせいでもあるね。そこは、ごめん」
「ううん。やりたかったからやっただけだよ」
「うーん、そう?」
知らない人の声だ。知らない人、な、はずだ。でも、どうしてかな。とても身近で、とても近い。姉が居たら、こんな感じなのかな。不思議とそんな風に思った。
「ま、でも、頑張ったね。偉かったよ」
「そ、そう、かな?」
「うん。だから今回は、ちょっとだけ手助けをしてあげる」
「てだすけ?」
「そう。――だから、あんまり深く潜り過ぎちゃ、だめだよ」
女性の手が、私の髪を撫でる。温かい手だ。細く白く、でも、どうしてか、“力強い手だ”なんて思ってしまった。失礼だよね、こんなの。
「つぐみ、一つ、魔法をかけてあげるね」
「おまじない?」
「そ。――“大丈夫。みんな、あなたのままでも、あなたのことが好きだよ、つぐみ”」
それの、どこが魔法なんだろう。そう思う暇もなく、身体が宙に浮く。彼女の、顔だけでも見たいのに――何故か、その姿を捉えることはできなかった。
意識が浮き上がる。
溺れもがいて、海の上から顔を出すように。
『いってらっしゃい』
目が、開いた。
「あ――れ?」
白いシーツ。
白いベッド。
ベージュのカーテン。
身体を起こすと……呆然と私を見る、母の姿があった。
「つぐみ!!」
「マミィ……?」
「ええ、マミィよ。ああ、良かった……本当に、良かった……っ!」
抱きしめる母の腕の中で、もぞもぞと動く、ええっと、何があったんだっけ。なんだか衝撃で、直前まで見ていたはずの夢の内容も、吹き飛んでしまった。
「ダディも直ぐに来るわ。警察の人が来たから、少し、お話をしているだけよ」
「そっか、ダディも……けいさつ……」
狂ったような笑み。
明滅する光景で、私たちを追う男。
アスファルトに沈んで――それから?
「あ! ツナギとこはるさんは!?」
「もう。本当に、優しい子。ツナギちゃんは直ぐに、ご家族の方が迎えに来てどこかへ行ってしまったわ。連絡を取らせたけれど、無事だそうよ」
「そっか、良かったぁ」
家の方が、ということに不安しかないけれど……それは、両親に相談するしかないだろう。
「小春は、クビにしました」
「え!?」
「……というと、あなたは悲しむでしょうからね。空星直下の別働隊も、警察官が付随している状況から気が抜けたのか知りませんが、今回は連帯責任としているわ。つぐみ、あなたを守り切れなかった娘だけれど――もっと、優秀な手勢に代えても良いのよ?」
小春さんが、いなくなる? いつも、一緒に居てくれた小春さんが?
「やだ! わ、わたし、わたしは、こはるさんがいい!」
「それが、あの子を苦しめることになっても?」
「それは――」
責任感が強い小春さんだ。今回のことで、きっと、強く責任を感じていることだろう。それなのに私が選んでしまったら、小春さんが、苦しむ?
「ごめんなさい、つぐみ、意地悪を言ったわね」
「マミィ……?」
「そんなに、泣きそうな顔をしないで。私だって、無茶なことをしたあなたに、少しだけ怒っているのだから」
そ、それはそうだよね。
「あぅ、ごめんなさい、マミィ」
「いいの。無事で……こうして……帰ってきてくれただけで、いいの」
母の、私を抱く手が震える。心配、かけたよね。それはそうだ。これからはもっと気をつけないと。
「小春とも、話してあるわ。これからはもっと振り回してあげなさい」
「あはは……こはるさん、つかれちゃうよ」
「あの子には、それくらいでちょうど良いのです。私も昔は、春名のことを良く振り回したわ」
春名……小春さんのお母さん。昔から、母と一緒だったんだ。
「つぐみ、よく顔を見せて」
「うん」
私と、よく似た顔立ちだ。それが今は涙で赤らんで、少し、疲れているように見える。考えてみれば当たり前だ。一人娘がとんでもない事件に巻き込まれたのなら、心配するのは親の性だ。
でも、さすがに私もずいぶんと図太くなった。これからはもう、迷惑をかけたりはしない。不安な気持ちになんてさせない。
「なんでもできなくてもいいの」
母は、静かにそう告げた。
「なにもできなくてもいいの。強くなくても、優しくなくても、才能なんか、なくたって」
それは、どういう意味だろう。よくわからず、首をかしげる。
(大丈夫だよ。私は、無理をしているわけじゃないから)
「いいの……?」
声に、出そうとしたことが、裏返る。告げようとした言葉とは真逆のことが、喉の奥からこぼれ落ちた。
(い、いや、違う、そうじゃなくて)
「わたし、わたしは、ダディとマミィのこどもなのに」
(迷惑なんかかけない。私は大丈夫。だって、これでも、たくさん生きてきて)
「わたしのままのわたしは、なにもできない、ただの、むりょくな、こどもで」
ああ、違う。そうじゃない。こんなに愛してくれるのに、こんなに思ってくれるのに、迷惑なんて、かけられないのに。
「つぐみ。あなたが産まれてきてくれただけで、私は、私たちは幸せよ。つぐみ、あなたが生きたいように生きてくれるだけで、私たちは幸福なの」
「で、でも、でも。でも!」
――わたしは、わたしだって、わたしは、だって。
「つぐみ、愛しているわ。なにも持っていない、小さな赤ちゃんのときから。いいえ、おなかの中に宿ってくれたその日からずっと、これからもずっと、あなたは私たちの宝物よ。まっさらなつぐみのままでも、どんなあなたであっても、あなたのことを愛しているわ、私たちのつぐみ。愛しい子」
抱きしめられる。なんで、こんなにも、心の奥底まで響くのだろう。こんな感情は知らない。こんな気持ちは知らない。知らない、はずなのに。
「まみぃ、まみぃ、マミィ、わた、わたし」
「いいの。無理に言葉になんてしなくてもいいの。ちゃんと、わかっているから、いいのよ、つぐみ」
「う、うぁ、ぐす、ぁぁ、っ、うぁぁぁぁぁぁっ、ああああああっ!!!!」
強く、強く、強く抱きしめる。なんで、こんなに嬉しいのだろう。なんで、こんなに温かいんだろう。なんで、言葉にしなくても、こんなに響くのだろう。
わからないことだらけで、わからないままでいることは怖かった。でも、なんでだろう。わからないのに怖くないし、わからないのに辛くない。ただ、ただ、胸の奥が満たされるようで。
『ほら、言ったでしょう? とっておきの、おまじないだよ』
胸の奥で、優しく笑う誰かの声を聞いたような、そんな気がした。
――/――
警察とやりとりをして直ぐに、娘の元へ戻る。ぼくの愛しのミナコは、こういったとき、ぼくよりも酷薄に動くことがある。護衛だって、ぼくならばすげ替えて終わりだが、ミナコはきっと、つぐみが望むなら側に置き続けることだろう。主人を危険にさらした忠犬が、それにどんなに苦しみ足掻くのかもわかった上で。
……そしてミナコはそれを背負う。まったく、ぼくの女神は昔からそうだ。もう少し、ぼくに分けて欲しいのだけれど、あいにく、ぼくはミナコとつぐみ以外にさほど興味は持てないからね。
「ミナコ、ぼくたちの天使の様子、は、ど――」
病院のベッドの上。ぼくの女神と天使が戯れている。抱きしめ合い、笑い合い、手遊びをして。ここは、天国だった……?
「ミナコ! ああ、ぼくの天使!」
「あら、お帰りなさい、あなた」
「ダディ!」
女神と天使に出迎えられ、おぼつかない足取りで近づいていく。おお、どうしたことだろう。後光が差して見える。
「目が覚めたんだね、ああ、本当に良かった。愛してるよ、ぼくの天使」
ぼくの天使を傷つけ怖がらせたアレには相応の報いが必要だろうが……司法では死人が出ていない以上、死刑にはならない。だが、既にローウェルの弁護士を向かわせてある。今頃は出所後の地獄を選ばせているころだろう。背後関係を吐けばインフェルノ、吐かなければコキュートス、といった具合だが。
「ダディ、ダディも、その、わたしでいいの?」
可愛らしい声で、つぐみはぼくにそう告げる。ミナコを見れば、彼女はこくりと頷いた。そうか。つぐみの中で、つぐみを守ってくれているもう一人の“つぐみ”。彼女との境界が、優しく解れようとしているのかも知れない。
なら、万難を排して見守るのが、親の務めだろう。ぼくは、ぼくのできる手段のすべてで彼女を守る。つぐみが、心を開いてくれるのなら、ぼくも思う存分に力を振るうことができる。
「つぐみが良いんだよ。どんなつぐみだって構わないさ。それとも、ダディの言葉は信じられない?」
「――ううん。しんじてる」
強く、強く、彼女を抱きしめる。もしかしたら、生まれてくることすら難しいと宣告されていた彼女が、こんなにも元気に育って笑ってくれている。それ以上のことが、どこにあるというのか。
つぐみが、はにかみながらぼくたちを見上げる。
この笑顔を守るためならば、どんなことも苦労と思わないだろう。そう、彼女が産まれてきてくれたときにも覚えた感情を、深く、自覚しなおした。
――Let's Move on to the Next Theater――