scene3
――3――
楽しく賑やかな時間というのは、相応に、過ぎるのも早い。西の空に茜色がさしかかり始めると、自然と、騒がしさはなりを潜めて落ち着いた時間が訪れ始める。そういえば、今日は私の両親が家に揃っているんだったか。こうして懐かしいこの場所でコーヒーカップを傾けていたい気持ちはあるモノの、それでは、娘との団欒を楽しみにしてくれている両親に申し訳が立たない。
そろそろ帰宅の準備を始めた方が良いのかな、なんて周囲を見回して、小春さんの姿がないことに気がついた。
(というか、小春さんだけじゃなくて、鵜垣さんもいない?)
従業員のお姉さんをはじめとして、あまり交流のなかった方々の姿は見える。けれど、二人の姿だけが見えなかった。きっと、鈴で呼べば来てくれるのだろうけれど……いないということは理由があるのだろう。無理に呼ぶのも申し訳ない。
「ん? つぐみ、一人で何してんだ?」
「あ、こーくん。ツナギちゃんも」
手持ち無沙汰にしていた私に声をかけたのは、虹君だった。ぶっきらぼうな様子の虹君の後ろで苦笑するのは、ツナギちゃんだ。
「りんちゃんは?」
「ほれ」
虹君の指差した方角を見ると、そこには、るいさんの膝の上でもみくちゃにされている凛ちゃんの姿。ああ、なるほど、と内心で合掌してから虹君に納得の頷きを返す。力になれなくてごめんね、凛ちゃん。
「わたしは、こはるさんがもどるまで、おやすみ中。こーくんとツナギちゃんは?」
問うと、ツナギちゃんは肩をすくめて首を振る。ちらりと視線を向けたのは、もみくちゃにされている凛ちゃんだった。
「私たちは、あの輪から抜け出したところ」
「凛を生け贄にな」
「そう! 虹ったらひどいんだよ。つぐみを探す凛を生け贄にして!」
それは……あとで、すっごい怒られるんじゃないかな。凛ちゃんもそうだけれど、真帆さんに。
「ま、小春さんが戻るまで、私たちと時間潰そっか」
「うん!」
「オレもか? まーいいけど」
私の隣に腰掛けるツナギちゃんと、正面の椅子に座って足を組む虹君。なんだか妙に様になっている。
「で、さ」
「ツナギちゃん?」
「昼のことだけれど、二人はさ、恋ってわかる?」
ツナギちゃんはそう自分から切り出した……のだけれど、恋バナがしたいという感じでもない。なんというか、そう、味のわからないコーヒーを飲んで、苦いと言っているような。
「恋って、そんなに良いモノ? 恋のためならどんなことでも尊くて、恋に生きることはすべてが美学美談? なんだか、わかんないんだよね。恋って、愛ってなんだろう?」
ツナギちゃんの言葉には、深い感情が乗せられていた。でも、それがなんであるかまでは、わからない。
「さぁな。綺麗な恋かそうじゃないかなんて、相手の都合だろ」
そう、虹君はすっぱりと言い切る。
「あいて? じぶんじゃなくて?」
思わず尋ねると、虹君は小さく頷いた。あんまり、まとまっている答えじゃないのだろう。それでも、纏まりなんかなくても、ツナギちゃんの思いを汲んで真剣に答えようとしてくれる。
「ああ。難しく考える必要があるか? 相手が迷惑なら、それはただの嫌がらせだ」
「ぷっ……あははははっ、すごいね、虹。言い切った!」
「たしかに。こーくんってレンアイのたつじんなんだね」
「うるせぇ」
嫌がらせ……ただの嫌がらせ、か。そうだよね。相手の気持ちを考えない、独りよがりの感情をぶつけたって、それはただの嫌がらせに過ぎない。割り切りすぎな気もするけれど、うん、でも、それくらいで良いのかも。
「ねぇ、虹、つぐみ」
「……なんだよ」
「うん……?」
ひとしきり笑ったツナギちゃんは、膝を抱えて呟く。
「人を好きになるのって、難しいね」
それは――その気持ちは、わかる。わかってしまう。酒浸りだった父も、家族に興味がなかった母も、一度も優しくなかったわけではない。一縷の望みだってあった。一抹の希望に縋って、溺れて、苦しんで、それでも、いつだって残酷な現実が私を押しつぶしてきた。
誰かを好きになることは難しい。それはもしかしたら、誰かに好きになって貰うことよりも遙かに。
「好きなら好きで、いいんじゃねぇの? 人を刺すから包丁が悪いわけじゃないんだ」
「そうだよね。つるし切りにするからチェーンソウがわるいわけじゃないもんね」
「つぐみはちょっと黙ってろ」
なんで!? いやでも、そういうことだよね。確かに。結局は、包丁やなんかと一緒で、“好き”っていう感情も、恋愛も、その人の使い方次第なんだ。
「うん、ちょっと元気が出た。ありがとう」
「いえいえ」
「ま、オレは天才だからな」
虹君はあえておちゃらけてそう言ってくれる。まだ、ツナギちゃんの中で決着がついた訳ではないのだろう。それでも、さっきよりは迷いが減ったように見えた。ツナギちゃんは、なにを抱えているのだろう。わからない、けれど、無理に暴き立てたら壊れてしまうような危うさがあるような、そんな気がする。
「さ、つぐみ、小春さんを探しに行こう! あ、虹は凛ちゃんの救出ね?」
「げっ……わかったよ。あとでお袋になに言われるかわかんねーし」
「あはは、うん、そうだね。じゃあ行こう? ツナギちゃん」
言われるがままに立ち上がって、ツナギちゃんの隣に立つ。虹君は、というと、心底嫌そうな顔で頭をかきむしると、肩を落として凛ちゃんの方へ歩いて行った。
「でも、さがしに行くって、どこへ?」
「さすがに、お店の周囲にはいると思うんだよね。裏口とか」
「あー、なるほど。さすがツナギちゃん」
出入り口に向かって歩くツナギちゃんは、けれど、不意に足を止めて私に向き直る。
「そうだ。ツナギって、呼び捨ててよ」
「え?」
「なんかその方が、“トモダチ”っぽいからさ」
「ふふ……うん、そうだね。わかったよ、ツナギ」
はにかむツナギちゃん……ツナギは、見るからに足取り軽く歩き出す。友達という言葉を告げたときの彼女は、どこか垢抜けない自然さを見せていた。
そうだよね。誰だって、最初から親友なわけじゃない。閏宇だって最初は、懐かない猫みたいだった。こうやって、少しずつ、少しずつ、歩みを進めていけば良いんだ。
そうすれば、いつか、凍った心も溶けるはずだから。
お店の脇に止められた黒い車。その前で佇む二人の姿は、直ぐに見つかった。声をかけようとしたけれど、ツナギに手で制されて、足を止める。
「なにか、真剣な顔で話してる。ちょっと待とうか?」
「うん、そうだね」
立て看板の裏。重しのレンガに腰掛けると、車の方から私たちの姿はすっぽり隠れた。そうすると、聞き耳を立てなくても、二人の会話は直ぐに耳に入る。
「申し訳ありません、付き合わせてしまい」
「はは、君のような若いお嬢さんに畏まられると困ってしまう。気にしないでくれ」
そう、頭を下げる小春さんの手に握られているのは、私の“音の鳴らない鈴”だ。車内に落としてしまったことを小春さんが気がついて、取りに来てくれたのかな。帰りは別の車……とかになったら困っちゃうもんね。うぅ、申し訳ないです。
「こうして後部座席につぐみちゃんを乗せていると、昔のことを思い出すよ」
「昔、ですか?」
「ああ……と、済まないね。つい、要らないことを」
「いえ。わざわざ捜索に付き合ってくださいましたので、お話くらいいくらでも」
小春さんはきりっとした表情を、どこか恥ずかしげに伏せている。恥じ入るべきは私なのに。本当にごめんなさい。あとで、なんでも言うこと聞く定期券をお渡ししよう。子供って体温高いから、冬になったら抱き枕くらいはやれるだろう。
「私には姪がいてね。忙しい弟夫婦の代わりによく子守をしたんだが……良く懐く、元気で可愛い子だったよ。ちょうど、そう、綺麗な黒い髪が自慢で、はは」
「それは――」
「ああ、いや。なにも死んでしまった、ということではないんだ。ただ、ある出来事が原因で心を壊して、今も、入院中……でね」
「――っ」
心を壊す? それって、まさか。
思い当たってしまった可能性は、きっと、ツナギも同じだったのだろう。ここ数日の報道を思い出して、それから、そう、鵜垣さんがこの事件に強く関わる理由にも思い至って、息を呑む。
「件の、連続女児暴行事件。その最初の被害者が私の姪――青葉で、最初に彼女を発見したのが、私だった」
それ、は――それは、なんという。ああ、でも、だめだ。これ以上聞いたらだめだ。これ以上は、鵜垣さんの心の“大事なところ”だ。
「ツナギ、もどろう?」
「……待って」
「ツナギ?」
立ち上がろうとした私の袖を、ツナギは、弱々しく掴んだ。
「どうして、だれかを、そんな風に、簡単に傷つけられるの? わかんない。わかんないよ」
俯くツナギの表情は見えない。でも、彼女が誰かに傷つけられて、踏みにじられたことがあるということだけはわかった。わかって、しまった。今、鵜垣さんの話した“青葉ちゃん”に誰よりも自分自身を重ねているのは、きっと、ツナギ自身だから。
だから私は、震える彼女の手を包み込む。細く、弱々しい手だ。
「だれかをきずつける人の気もちなんて、わからなくていいよ」
「つぐみ?」
「でも、きずつけられて泣くツナギを愛している人がいることは、わすれないで」
「――そんな、だって、でも」
隣に座り直して、ツナギの方へ体重をかけるように寄り添う。人の体温は、いつだって、誰かを暖めてくれるモノだから。
「わたしは、ツナギのことが好きだよ。たいせつな、ともだち。だから、ツナギがくるしいのはいやだ」
「つぐみ……」
「それとも。わたしじゃ力ぶそくかな?」
「そんなことない。そんなこと、ない――そんなことないよ」
俯く彼女に寄り添い続ける。
それが、ツナギを救うことになるのなら、いくらでもこうしていたい。そんなことしかできない私でも――きっと、こうしていることだけは、できるから。
――/――
「はぁ、はぁ、ひ、ははは」
「つぐみたんに、ひ、ひひ、ツナギたんまでいる」
「ふ、ひ、はははは、くっくふふ――」
「――みぃつけた」