scene2
――2――
打ち付けるようなサックスの音色。軽快に吹き鳴らされた高音に合わせる、ピアノとドラム。黄金さんの情熱的なサックスに合わせるように英語の歌を熱唱するのは、シンガーソングライターのるいさんだ。
るいさんはMV撮影のときも魅せてくれた情熱的な歌声で、小さな喫茶店の一角を染め上げていく。貸し切りで身内だけというはずなのに、ライブハウスのように熱い演奏。ディスコでこんなの鳴らされたら、一晩中だって踊り明かしてしまえそうだ。
(演技とは違う形の、表現)
演技は己のすべてを使って表現する場だ。何者かに成り代わり、メッセージを刻み込む。けれど、こうして黄金さんの演奏を見ていると、音楽も一つの表現として役者に劣るモノではないと思い知らされるようだった。
楽器……に触れられるような幼少期ではなかったし、リコーダーくらいなら。歌は、ほら、呪いの歌とかなら歌えないこともないかな。ううむ、いつかは私も、“音楽による表現”に深く触れてみたいものだ。
「今日は結成十三年記念演奏会に来てくれてありがとう!」
黄金さんはふっくらしゃきっと粒のたった新米のような身体を揺らし、サックスを掲げてみせた。いやでもほんと、予想以上にすごい演奏だった。技術、という枠ではなく、情熱という音。胸に響いて揺さぶられるようだ。
ピアノの方はひげ面丸サングラスの、痩身の男性。ドラムの方はスキンヘッドでゴリゴリのゴリマッチョな男性。東京に出てきた黄金さんと最初にバンドを組んで、意気投合。そのままずっと彼らと音を合わせているのだとか。徹頭徹尾情熱的だ。
「じゃあみんな、引き続きパーティーを楽しんでください!」
黄金さんがそう締めくくると、すらりと背の高い女性――黄金さんの妹の稲穂さんが、この喫茶店の従業員であろう女性と共に料理を運んできた。オムライスやナポリタン、フライドポテトに唐揚げと、喫茶店でも出せそうなメニューだから、調理して用意してくれたんだろうなぁ。
従業員さんは、丸い縁の眼鏡をかけた小柄な女性だ。赤茶色の髪を肩口で二つ結びにしている。差し出されたコーヒーに、つい癖で、砂糖もミルクも入れずに口をつけると、芳香な熱が苦みと共に口の中に広がった。
「にがい……」
そうだよね。子供の舌には苦いよね。しまった。予想外だった。二十代半ばには既にコーヒーは苦いだけのものじゃなかったから、感覚が引き摺られてしまった。そんな私を見ていた凛ちゃんが、心なしか心配そうにお砂糖とミルクを持ってきてくれた。良い子だ……。
「つぐみ、だいじょうぶ? ほら、おさとう。ミルクもあるよ」
「ありがとう、りんちゃん」
ああ、カフェオレが身にしみる。子供舌にはこれくらいがちょうどいい。……うん、お砂糖、もう一個入れようかな。甘い。
(甘い、と言えば……)
カフェオレをちびちびと口に含みながら、奥の席で談笑する二人を見る。一人は黄金さん。もう一人は、るいさんだ。とても踏み込めないような雰囲気で、なんというかこう、空気が甘い。
「ねぇねぇこーくん」
「あ? なんだよ」
「あのふたりって、どういうカンケイなの?」
コーヒーをブラックで飲んでいた虹君に尋ねると、一瞬訝しげに眉を寄せたが、すぐに思い至って「ああ」と呟いた。
「知らないんだよなぁ」
「そうなんだ?」
「稲穂さんに聞けばわかるかも。おーい、稲穂さん!」
興味津々に聞き耳を立てる凛ちゃんと、そんな凛ちゃんを見て苦笑するツナギちゃんを余所に、虹君が稲穂さんを呼びかける。すらりと背の高い、それこそ米の稲穂を連想させる女性だ。駆け寄ってくる姿は親しみが持てる、優しそうな女性。
「はいはい虹君、どうなさいましたか?」
「あの二人ってどういう関係?」
「おおう、ズバッと来ましたね」
大げさにたじろいでみせる稲穂さんは、とてもノリの良い方なんだろう。ただ、仰け反っても体幹が崩れていないから、運動かなにかしているのかな。
「えー、言って良いのかなぁこれ。兄さん、良いー?」
稲穂さんは首をひねったあと、気軽な口調で黄金さんの許可を求める。当然、話に参加していなかった黄金さんは首をかしげるモノの、むしろ黄金さんの隣のるいさんが話を察して、親指でゴーサインを送った。
「ではでは、許可が出ましたので」
稲穂さんはわざとらしく咳払いをすると、人差し指をぴんと立てて語り出す。
「兄さんがサックス片手に実家を飛び出して上京して、ネオン街で働いていたのは虹君は知ってますよね?」
「ああ。そのとき、ここのオーナーのスナックでサックス吹いてたんだよな?」
「ははは。そうですそうです」
……黄金さんってけっこうアグレッシブなんだね。でも、私――桐王鶫の生前では、夜にスナックなんてやっていなかった。喫茶店、夜十時まで営業していたしね。
「で、昼はレストランで皿洗い、夜はスナックで演奏、空いた時間は練習、ストリートライブも常連……みたいな兄さんが夜の繁華街でチンピラに絡まれていたるいさんを助けたんですよ!」
身を乗り出して語る稲穂さんに、真っ先に目を輝かせたのは凛ちゃんだ。凛ちゃんは「おおー」と言って手を打ち鳴らすと、そっと私に耳打ちする。
「つぐみ、つぐみ、なんだかドラマみたい」
「うん。そうだね」
「ツナギ、ツナギ、ツナギもわかる?」
「近いよ、凛……」
ツナギちゃんも凛ちゃんの様子に、少し押され気味だった。でもね、ツナギちゃん。もしこの場に美海ちゃんがいたら、こんなものでは済まなかったと思うよ。いや、ほんとに。
「え、じゃ、黄金さんとるいさんってまさか……」
虹君は、何かを察したようで口元を引きつらせる。
「――いいや。私の恋は叶わなかったのよ」
いつの間にか、黄金さんを置いてこちらに来ていたるいさんが、稲穂さんの肩にのしかかる。サングラスの奥に揺れる瞳の色は……憧憬、だろうか。
「スナックで演奏していた黄金は、そこで一人の女性に惚れちゃうのよね。本名も知らない、ただ、そこで働く若いママの一人だったそうよ」
「るいさん、ほんみょーを知らないなら、なんて呼んでたの?」
それはもちろん源氏名……って、凛ちゃん、さすがに源氏名はわからないか。
「源氏名っていう、そうね、小説家で言うペンネームみたいなもので呼び合うのよ。椿の花が好きな、綺麗な女性だったそうよ」
「じゃ、その、ゲンジナはツバキ?」
椿、椿かぁ。私は花はそこまで興味がなかったなぁ。基準は、ほら、“食べても良い花”かそうでないかというところが大事なのであって、ね……?
凛ちゃんはこの話にとても興味を引かれているのだろうか。ちらちらと黄金さんの方を見ながら、なおもるいさんに続きをねだる。こんなに話して黄金さん的には大丈夫なのだろうかと心配になって黄金さんを見れば、彼はこちらの会話に気がついて苦笑してはいるが、止める様子はなかった。
きっと、丁寧に心の中で折り合いをつけて、ちゃんと“過去のこと”にしたのだろう。るいさんが黄金さんに心を寄せるのも、なんとなく、わかる気がする。
「いいえ、花が好きな方だったんでしょうね。菫という名だったそうよ」
椿は赤い花だけれど、菫は紫の花だ。赤に、青を混ぜると紫になる。好きなモノに、ほんの少しだけ青い気持ちを乗せたのだろうか。花が好きな方なら、そこまでの意図はないのかも。でもどうしても、少し、考えてしまう。菫という名前に、あまり良い思い出はないから。
「ふぅん……?」
そう、凛ちゃんは納得いかなさそうに頷いて、それから直ぐに、少しだけ青ざめた顔で「ぁ」と呟く。
「だったって、まさか」
そうか、そうだよね。ずっと過去のお話だ。まさか、その方って、もう……。
「あはは、違う違う。凛ちゃんは優しいねぇ。そうじゃなくて、黄金が告白する前に、お金持ちの美青年に見初められて結婚しちゃったんだって!」
「なるほどー。兄も、でおくれないようにしないと」
「おい凛。なんで今、オレを出した!?」
えっと……黄金さんには悪いけれど、それはそれで素敵なお話だ。そっか、だから黄金さんも、るいさんの話を止めずに見守っていたんだね。
「でも、ちょっとあこがれるかも。ツナギもつぐみも、そういうのない?」
凛ちゃんにそう聞かれはするけれど……前世ならともかく、今はなぁ。いったい何歳の方を好きになれば普通なんだろうか。前世でのプロポーズは一度きりだ。あのときはついついあんな答えを選んでしまったけれど、いや、それ自体に後悔はないけれど、今になって思えば死ぬ前に一度話し合っても良かったのかも。
「わたしはまだないよ。ツナギちゃんは?」
「え? ないない。そういうのは大人の――あ、つぐみのマネージャーさんは?」
ツナギちゃんがそう言うと、高みの見物をしていた小春さんが、ぎょっと目を見張った。小春さんの恋愛、といえば、そういえば以前ルルが話していたっけ。ええっと、確か……。
「あ、ハンカチの――って、あわわわ、ご、ごめんなさい、こはるさん」
気づいたときには、ついつい口を滑らせてしまっていた。いやだって、えっと、ごめんなさい。お詫びに……五歳児にできることって、肩たたきくらいか。うん、あとで肩たたきをしよう。
「こはるさん、こはるさんもなにかあるの」
「ああ、いけません、いけません、凛様、そんな近くに、ああ」
「?」
小春さんはけっこうパワフルな方だけれど、さすがにちっちゃい女の子をはねのけることはできないようで、たじたじだ。
……「おねがいなんでもききます券」の方が良いかな。そう、頭を抱えていると、静観していたるいさんがクスクスと笑いながら参戦する。
「私も、小春さんの初恋には興味があるかな」
「るいさんまで……。いえ、良いのですが、初恋と呼べるほどのモノではありません。相手も、女性の方ですし……」
「あら、いいじゃない。恋に性別も国境もないわ。もちろん、年齢もね。ね、虹君?」
「るいさんまでオレを引き合いに出すのやめてくれませんか!?」
虹君、年上の女性に絡まれると、弄られ役になっちゃうんだね。ちょっと可愛いかも。
「ええっと……はい。そんなたいしたお話ではないのですが……三歳のとき、公園で転んで泣いていた私に、手当てをしてくれたお姉さんがいたのです。傷口を洗って、ハンカチを巻いてくれて、頭を撫でて、べっこう飴をくれた方が」
「その人が、女性だったんだ?」
「はい。黒い髪の、綺麗な女性でした。名前も知らない方でしたが、ハンカチにはただイニシャルが、T.Kと」
それは、幼心が揺れちゃうのもわかるかも。私も幼少期にそんな風に飴なんか貰ったら喜び――いや、警戒するな。私はそんなに素直な子供ではなかった。うぐぐ。
「こはるさん、えっと、えっと」
凛ちゃんは小春さんの名前を呼んで、けれど、手のひらに一生懸命何かを書く。あれは、アルファベット? もうアルファベットができるんだ。今の子ってすごい。
「それっておししょーの、“きりおうつぐみ”さんじゃない?」
どき、と、鼓動が跳ねる。いやぁ、どうなんだろう。ギリギリ生きている頃かも知れないけれど、覚えてない。私だったらさすがに、小春さんに申し訳なさ過ぎる。
「光の霧谷桜架、闇の桐王鶫か。凛、桐王鶫なんてよく知ってたな」
「兄よ、おししょーがよくお話ししてくれるんだ」
「ふぅん。……そういや霧谷桜架は、生粋の桐王鶫オタか。忘れてた」
生粋の桐王鶫オタってなに? 知れ渡るようなことをしているの? 夢枕に立つ必要があるよねこれ?!
「ふふ、違いますよ、凛様」
「そうなの?」
「ええ。霧谷さんのお話では、私が三歳の時には桐王鶫は三十歳であったと思います。春でしたのでまだご存命の頃でしょうが――私が出会ったのは、中学生の女の子でしたから」
内心、少しだけほっとする。そうだよね、私じゃないよね。いや、制服を着た仕事は……うん、なかった、かどうかなんて覚えてないけれど……辻口さんに聞かないとわかんないなぁ。
「ちゅうがくせい?」
「ええ。地元で有名な可愛らしいセーラー服で、後に調べたらその中学のものでした。何年生か、まではわかりませんでしたが」
「あー、わかるわかる、そういうの調べちゃうよねぇ。稲穂ちゃんは?」
「わ、私に振らないでくださいよ、るいさん!」
喧噪を余所に、少しだけ、小春さんを盗み見る。気配を薄くして、コーヒーカップを唇に当てる小春さん。その表情は温かく、心地の良い思い出に心を寄せているのか、柔らかく頬を緩ませている。
(そっとしておこう)
その優しい思い出に、小春さんの心が和らぐのなら、それが一番な気がする。だから私も、そっと、稲穂さんたちの輪に戻っていった。