scene1
――1――
洋館の玄関先は、草花で彩られた庭園に門まで続く庭石があしらわれている、絵に描いたような“豪邸の庭”だ。早朝の、まだ澄んだ空気の中、私は母の前でくるりと回転してみせる。
「どうかな? マミィ」
「ふふ、かわいいわよ。ダディに自慢しなければならないわ」
「えへへ」
そう、父への自慢を宣言する母と、私の写真を無心で撮影し続ける小春さん。そんな二人をにこにこと眺める御門さん(小春さんのお母さん)。
今日の私の格好は、制服風、というのだろうか。袖なしの白いブラウスに赤いネクタイとチェック柄のプリーツスカート。足下は茶色のローファーと白いスリークォーターズソックス(膝丈四分の三)。これに頭には赤いチェック柄のベレー帽を乗せて、肩からは茶色の可愛らしい革鞄を提げている。ローファーで石畳を叩く音が、なんとも心地よい。
「お昼の演奏会は一緒に行けないけれど、今晩はマミィもダディも帰れるわ。久々に、みんなで夕飯をとりましょうね」
「ほんと? やった!」
両親と食事というのも、ずいぶんと久々だ。さすがにただの子供のように寂しがるようなことはないが、喜ぶのは親孝行だろう。
「では、小春、任せましたよ」
「はい、奥様」
強く、小春さんに託す母。
力強く、頷く小春さん。
(そんなに気負わなくても……)
なんて、そんな風に思うのは致し方ないような気がする。ものすごく重要な任務を任されているかのような光景に、守られる側だというのに固唾を呑んでしまう。これ、前世だったら十中八九、私が襲う側だろうなぁ。悪霊として。
「いってきます! マミィ! みかどさん!」
「ええ。楽しんできてね、つぐみ」
「行ってらっしゃいませ、つぐみ様」
本日向かう演奏会は、虹君のマネージャーで米農家出身の日立黄金さんが、かねてよりお世話になっているお店で定期的に行われているモノらしい。夜はスナック、昼は喫茶店とランチを提供しているのだとか。
で、その場所というのが入り組んだ路地裏にあるらしく、いつもの車だと目立つし入りにくい。そのため、今日は別に足が必要だなー、なんて、小春さんと御門さんが話していたのを聞いた覚えがある。
なのだけれど。
「やぁ。今日はよろしくね」
ラフなワイシャツにベージュのジーンズ。肩掛け鞄も渋い紺色。白髪を涼しげになでつけた壮年の男性――例の女児暴行事件の担当で、今日まで他方で護衛についてくれていたお巡りさん、鵜垣刑事がにこやかに手を振っていた。
「えっと、よろしくおねがいします。でも、おいそがしいんじゃ……」
「ははは。いや、出かけるんだったら警戒しておきたくてね。渡りに船さ」
「本日はよろしくお願いします。鵜垣警部」
「ああ、こちらこそ。今日は運転手兼普通のおじさんとして扱ってください。ははは」
鵜垣さんはそう、からっと笑ってみせる。柿沼さんよりも年上だろう男性。神津島のときもお話を聞いてくださったりと、頼りになる方だ。なんだかここのところニュースを見てても不安を煽られる。刑事さんが居てくれるのなら私も安心、かな。知らない人でもないから、凛ちゃんもきっと大丈夫だろう。
鵜垣さんの車は四人乗りの黒い乗用車で、張り込みなんかにも使っていそうな年季の入った雰囲気がある。前世では車の運転はたまにの気分転換のみで、だいたいは辻口さんの運転に身を任せていた記憶がある。運転、好きなんだけどね。大人になったら免許を取って、みんなで出かけても楽しそうだ。
「つぐみ様、メッセージが届いていませんか?」
「へ? ぁ」
後部座席に乗り込んで直ぐ。隣に腰掛けた小春さんに言われてはっと気がつく。着信音に、小春さんの方が先に気がついてくれたようだ。
『つぐみ。出発した?』
メッセージの相手は、凛ちゃんだ。可愛らしいスタンプ……えっと、シロクマに恐竜の尻尾が生えたキャラクターで、今人気の“クマザウルス”が挨拶をしている絵柄だ。
『うん。ちょうど今、家を出たところだよ』
『ん。息抜きになりそうかな』
『まだわかんないけど……すっごく楽しみ』
『そっか。良かった。兄と、兄の呼んだスペシャルゲストが来るよ』
『そうなんだ? 誰だろう。楽しみだなぁ』
スペシャルゲスト、か。なんでも今日の演奏会は、基本的に顔見知りばかりを集めたものらしい。黄金さんと、黄金さんのご友人方が集まって演奏をするのだとか。黄金さんは虹君のマネージャーで、黄金さんの妹の稲穂さんが凛ちゃんのマネージャー。兄妹の芸能人のマネージャーも兄妹って、けっこう珍しいよね。
『そういえば、つぐみは心眼☆クマザウルスって見たことある?』
『ないよ』
『じゃ、今度、一緒にDVD見よ』
『うん、いいよ』
クマザウルスがメインの子供向けアニメ、だったかな。凛ちゃんはゲームにアニメに漫画に……と、まさしく今時の子供という面を見せてくれる。私に足りない“純真な子供”という部分を勉強するのなら、なによりもこう、凛ちゃんと接する時間を増やすのが良いのではなかろうか。うぬぬ。
「楽しそうですね、つぐみ様」
「え、そう、かな?」
そんなに表情に出ていたのだろうか。凛ちゃんと話をしていると、どうも調子が狂う。これまではどうしていたんだっけ。親友、と、思うようになったのはなんでだったかな。五歳の女の子を、閏宇と同じように思い始めたのは――いいや、違う、凛ちゃんはわたしの――ええっと、そうではなくて――うん、まぁいいか。
「ははは、子供は友達と遊んでいるときが一番輝いているからね。今を大事にすると良いよ」
そう、快活に笑うのは鵜垣さんだ。鵜垣さんの表情こそ見えないけれど、その声色はとても優しげだった。そういえば、とても真摯に女児暴行事件を追いかけている刑事さんだった。きっと、元来、とても子供好きな方なのだろう。
「うがきさんも、子どもがいるんですか?」
「いいや。仕事一筋で女房にも逃げられてね。ただ、弟夫婦の子……姪とは、よく遊んだよ」
私の質問に、鵜垣さんは落ち着いた声でそう告げる。優しくてダンディな大人の男性って、けっこう、子供に好かれる印象がある。きっとモテモテなんだろうなぁ。
「子供は宝だ。御門さんも、そう思うでしょう?」
「ええ。おっしゃるとおりです」
小春さん、力強い言葉だね……。でも、ツナギちゃんにはそこまで大げさに接していなかったから、けっこう細分化された好みがあるのかも。じっくり聞いて――いや、悪いか。今度こっそりルルに聞いてみよう。
「うがきさん。うがきさんのお話も、もっときいてみたいです」
「ええ? はは、いいよ。私が警察に入ったのは――」
そうして、鵜垣さんのお話を聞く。学生運動のまっただ中、増員に合わせて警察に入って、めまぐるしい日々を過ごしたという鵜垣さん。そんな鵜垣さんの波瀾の日々に、小春さんもまた興味を引かれたのか、耳を傾けている。姪御さんとよく遊んでいたと言うだけあって、子供相手の話し方も上手いなぁ。
「おっと、そろそろ到着するみたいだね」
――ややあって、話し込んでしまった私たちに、鵜垣さんが落ち着いた声で教えてくれる。屋敷を出発して一時間はかかっていない、というくらいだろうか。新宿駅から見て東側、むしろ飯田橋や市ヶ谷に近い牛込神楽坂。都心にしては落ち着いた町並みに、件の喫茶店はあった。
昔ながらのステンドグラス。どこか古びたドアベル。看板だけは新しくて、『Slash』という文字が小粋な字体で描かれている。
「つぐみ様? 酔ってしまいましたか?」
「――ううん、なんでもない。だいじょうぶだよ、こはるさん」
看板に書かれている文字こそ違う。違う、けれど、これは――かつて、前世の私が演技の勉強をしながら働いた喫茶店と、同じ建物だった。
祖父母の友人であったという老オーナーが趣味で開いていた喫茶店。確か、“渡り鳥”という名前だったと思う。彼もいい年であったから、引退なさったか、もしくは。……なんらかの理由でお店を手放して、そこにそのまま入ってきたお店なのだろう。当時の風景をそのままに、外観は変えず、看板だけが少し浮いていた。
(不思議。あの日に、戻ったみたい)
生前、祖父母の伝手でこの喫茶店で働き始めたのは、私がまだ十四を数えたばかりのことだった。手伝い、という形での非正規雇用で、時給の代わりに賄いと、それから二階部分を貸して貰って役者の勉強をした。
豆電球の光を頼りに、電話帳を机に、本をめくる指を舐めると、かさついた肌が少し痛かった。学校の勉強と並行して役者の勉強。意地でも身体は壊すまいと、気合いだけで生きていたあの頃。あとになって振り返れば、あの肌寒い夜を乗り越えられたのは、マスターが淹れてくれた、あの苦くて温かいコーヒーのおかげだったような気がする。
使い古して端の欠けた白いカップは、お客様には出せない私専用のカップ。砂糖を入れない方がおいしい、なんて、いつも苦いままのコーヒーを飲まされていた。あの苦みに優しげな香りを感じるようになったのは、いったい、いつのことだったか。
「つぐみ! まってたぞ!」
「ほんじつはおまねきくださり、ありがとうございます――なんてね」
「おおう、オジョーサマだ。すごい」
おののく凛ちゃんに笑みを零す。そういえば私って、今はお嬢様なんだよね。カーテシーまできっちり決めておいて、忘れそうになっていた。
そうやって凛ちゃんに声をかけていると、不意に、凛ちゃんの後ろから影が差した。
「オジョーサマ? ませてるだけだろ」
ラフなプリントシャツにハーフパンツを合わせた、なんとも涼しげでボーイッシュな格好。凛ちゃんのお兄さん、虹君が、半目に細めた眼で私を見る。
「わぁ、こーくん、背のびた?」
「こんな短期間で伸びるか! ……親戚のおばちゃんかおまえは」
「おば――うぐぐ」
ちょっとからかおうとした私も悪いけれど、おばちゃんはひどいと思うの。かつてはともかく、今はピチピチの五歳児だというのに。……いけない、言葉選びに年がにじみ出てる。今の子は“ピチピチ”とか言わないよね、たぶん。
さて、そうなるとあとは、虹君の呼んだスペシャルゲストとやらだけれど――ぁ。
「虹。女の子におばちゃんはないよ」
ため息。長い黒髪にジーンズとデニムジャケット。首に巻き付いた黒いチョーカーには、あの日にあげた音の鳴らない鈴。後ろ手を組んで虹君の後ろからひょっこり出てきたのは、神津島での撮影以来の、ツナギちゃんだった。なるほど、スペシャルゲストだ。
「やっほ、つぐみ」
「おはよう、ツナギちゃん!」
ツナギちゃんはいつものように飄々と――ん、いや、ちょっと肩の力が抜けてる? なにかあったのかな?
……辻口さんが前向きになってくれた影響だったら、嬉しいな。
「つぐみ、つぐみ、おどろくのは早いよ」
「りんちゃん?」
「ほら」
凛ちゃんが指差した先。サックスを持つ黄金さんと、楽しげに話す女性の姿。キャップにサングラスとあからさまな変装でも、どこかきらめくような目を引く雰囲気は少しも色あせていない。
「あ」
「ん? ああ! 会いたかったわよ、つぐみ!」
オレンジに染色した髪をかき上げて、女性――シンガーソングライターの“るい”さんは、私を歓迎してくれる。
この演奏会。
もしかして、思いも寄らぬ感じになっちゃったりするんだろうか。そう、引きつる内心を笑顔で覆い、るいさんに挨拶を返した。