scene7
――7――
すべて予定通り。前日に掃除を終え、霧谷桜架の墓参りのあとに墓に来る。懺悔をし、罪を確認する、二十年間のルーティーン。途中で遭遇した子供に悲鳴を上げられたのは予想外だったが――霧谷さんの肝試しだろう。墓を子供に荒らされかねない心配はあるが、桐王さんであれば十中八九喜び勇んで参加するであろう儀式だ。僕に止める資格はない。
本当に、霊として出てきてくれたら。そう願ってやまないが、天国にいるであろう桐王さんが、こんな、地獄のような下界に降りてくることもないだろう。
『――』
懺悔を終え、立ち上がろうとしたとき、不意になにかの音が響く。位置は、墓石の裏だろうか? 肝試しの子供が紛れ込んだか? ……桐王さんは子供好きだった。迷子になる前に、導くべきか。
「誰かいるのですか?」
『――』
「はい?」
今、なんといったか聞き取れなかった。視力は弱いが、耳はそうでもなかったはずだが……いや、なんだ?
『縺頑悍縺ソ騾壹j』
耳鳴り?
いいや、違う。胸の奥に響く不協和音。キリキリと甲高く、聞き取りづらい音。虫でも鳴いているのだろうか。
『豺ア豺オ縺九i騾吶>蜃コ縺ヲ縺ゅ£繧』
いいや、違う。何かが居る。何かが、桐王さんの墓石の裏に、いる。
「桐王さん、なのですか?」
喉が渇く。本当に桐王さんなら、どれほど喜ばしいことだろう。
喉が渇く。いや、でも、何故今になって?
喉が渇く。そういえば、あの社は、洪水による無数の死者を慰霊するもので――。
喉が渇く。喉が渇く。喉が渇く。
『■■■ァァ――……――■』
溺れるような声に、生唾を呑み込んだ。
「だ、誰だ! そこに、なにかいるのか!?」
ずるり。ずるり。ずるり。
何かを引き摺るような音だ。墓石の裏からにじみ出るように、何かが“這い出る”。夜の森。虫の声すら聞こえない、静寂の森。ぱきぱき、ぱきぱきと、耳障りな音。
「っ」
風が吹いた。木々がガサガサと揺れる。思わず目を瞑り、開くと、墓石の裏から気配が消えていた。
「こんにちは」
不意に、可憐な声が響いた。背後だ。誰か来ていたのか? ああ、肝試しの子供が――いつ?
ゆっくりと振り返る。けれど、そこには誰も居ない。ただ、何かがぽつんと落ちていた。
「あれは……?」
よく見えない。近づいて屈むと、ようやく、それが鈴であることに気がついた。肝試しに来た子供たちのものだろうか?
――いや、待て。さっきの子供は、どこへ行った?
『諤ィ繧√@繧』
ばさり。顔にかかる、長い髪。不協和音が、胸を締め付ける。
「ひっ」
喉が引きつる。慌てて身体を起こせば、そこには、小柄な影が四つん這いの姿勢で――高速で左右にぶれながら僕に向かって跳躍――
「うわぁあああああああああああ!?!?!!」
走る。だが、義足ではとっさに走れず、尻餅をつく。せめて動物か人間かわかれば。そう願うのに、眼鏡は今の衝撃で飛んでいった。
「く、来るなァッ!?」
後ずさり、背に、墓石があたる。これ以上逃げれば、桐王さんの墓石を倒してしまうかもしれない。その感情が、僕の、逃げる気持ちを遠ざけた。
『蝟懊?縺ェ縺輔>』
『譯千視鮓ォ縺ョ謔ェ髴翫′』
『迴セ荳悶↓騾吶>蜃コ縺ヲ縺阪※縺ゅ£縺溘o繧』
ぎちぎちと、声が響く。音が響く。怨嗟の音色が、僕の胸を締め上げる。久しく忘れていた恐怖の感情。最後にこんな感情を抱いたのはいつのことだったか……ああ、そうだ。僕たちが落ち込んだとき、元気づける手段の大半が何故かドッキリだった桐王さん。
ハロウィンに桐王さんがマスクを被って家の軒先でゆらゆらと揺れていたとき、クリスマスイブにベランダで桐王さんがブリッジしていたとき、お盆に桐王さんが池から飛び出してきたとき、あの時に感じた理屈のない恐怖が、僕の背筋を駆け上った。
(いや、違う。落ち込んでいたとき……?)
眼鏡がなくて像が捉えられないが、髪の長い何かが僕にのしかかっていることがわかる。もしも、ああ、もしも、彼女の霊であるのなら、こんなに軽いのも理解できる。人は、死ぬと軽くなるのだから。
「僕に、償わせてくれるのですか……?」
「っ」
地獄だった。
事務所の中でも、窓際から一番離れた日陰が彼女の定位置だった。だいたいは誰よりも早く事務所にいて、安いティーパックの紅茶を片手に台本を読んでいた。
おはよう、と、気の抜けた挨拶。でも、一度は必ず台本から顔を上げて、目を合わせて微笑んでくれた。あなたの姿を目で追って、定位置に花が一輪差されているようになってから、何度、胸が締め付けられたかわからない。
レンタルビデオショップのホラーコーナー。新作の棚にはいつも桐王鶫の名があった。それを見る度に誇らしい気持ちになったというのに、いつしか桐王鶫の名は消えて、旧作コーナーからも減っていく。桐王鶫の存在が、記憶から抜け落ちていくような恐怖。あなたほどの役者の名を、知らぬ人が増えていく恐怖。
何度も何度も、夢に見る。
僕の都合の良い夢の中でも、桐王さんは僕を罵ってはくれなかった。呆れたようにため息を吐いて、それで終わりだ。
責めてくれたら良かった。黒部さんも、閏宇さんも、霧谷さんも、あの男だって、僕を責めはしなかった。ただ、みんな、これから同じ地獄を生きる。その事実だけが僕を締め上げた。
日常から、あなたが消えていく。
地獄だった。だから、この地獄を、苦しみながら生きることが、僕の償いだった。
「これで、やっと、死ねるので――」
「ふざけんな」
「――す、は、え……?」
喉の奥から、絞り出されたような声。その声が、胸に響く。鎖でがんじがらめになった扉を、体当たりで破壊し尽くすような、強い声。強い意志。
こんな、こんな風に誰かを思いやれる人間なんて――僕は、閏宇さんと黒部さんと、彼女の、三人しか知らない。
「私が死んだら夢を見るのはやめるの? 私がいなくなったから、私との約束は破るの? 私は……私はッ……私は、たとえ死んだって、あなたとの約束を忘れたコトなんてなかったのに、諭君は忘れちゃったの……?」
約束、約束……?
ああ――ああ、そうだ。そうだった。一番最初にあなたと出会って、すれ違って喧嘩して、一緒に事務所で語り合った夢。世界中の人々を、恐怖の架け橋で繋げてやるんだと笑ったあなたに語った、僕の夢。
「『僕は役者が好きです。でも、僕には演技の才能がありません。だから、僕の手で役者をハリウッドに連れて行くのが夢なんです』――私にそう言ってくれたのは、嘘だったの?」
「ッ嘘なんかじゃ、ありません!」
嘘なんかじゃない。
でも、でも、あなたを死なせた僕に、夢を見る資格なんてない。だから。
「だったら、証明してみなさいよ! 夢を、捨てたりなんかしないでよ……。夢を変えたのなら良い。夢が夢でなくなったのならしょうがない。でも、そうじゃないなら、桐王鶫の相棒が、夢を踏みにじらないで――諭君」
だから、だから、なんだ?
それが、桐王さん――鶫さんとの過去を、踏みにじって良い理由になるのか?
「罪の意識に苛まれている暇があるんだったら、一歩でも多く進んで、やりきって、あの世で私に“僕はこれだけ夢を叶えましたよ”って、自慢話のひとつでもしにきなさいよ!」
――閏宇さん。あなたの予想は、少しだけ違ったようです。鶫さんは、僕との約束を忘れていなかった。鶫さんとの約束を忘れていたのは、僕だった。
「間に合い、ますか」
「間に合うよ。絶対に。墓参りの度に、自慢していけば、必ず」
「は、はは。墓参りの度、とは、けっこう急なスケジュールですね」
「私の無茶に合わせるのは得意技でしょ」
「そこは誇らないでくださいよ」
頬に落ちる、熱い雫。僕が、彼女を泣かせてしまったんだ。そう思うと、胸が締め付けられるようだった。
「諭君」
「はい、なんでしょうか、鶫さん」
「一人にして、ごめんね」
「いいえ。気にしていません」
くすり、と、零れるような笑い声。呆れたような声。
「嘘ばっかり。私のことは忘れなくても良い。今更忘れろなんて、言えない。でも――」
「――はい、大丈夫です。おっしゃりたいことは、もう、わかります。桐王鶫が相棒であったことを、悲しい思い出にはいたしません」
「うん……約束だよ」
「はい」
もう、約束は違えない。
もう、夢を忘れたりはしない。
もう、あなたとの日々を、辛い過去にはしない。
「鶫さん……鶫さん?」
身体にのしかかっていた体重が消える。慌てて身体を起こしてフレームの歪んだ眼鏡をかけると、そこには、暗がりに佇む墓石だけがあった。
「夢……ああ、いや、夢のようでした」
杖を拾って、墓石まで歩く。僕のことを見かねて、摂理をねじ曲げて出現したのだとしたら、実に、鶫さんらしい。破天荒で、誰よりも優しい、あなたらしい。
「僕は――――鶫、さん、僕は……ぁ、ぁぁぁッ……うぁあああああああああッ!!」
涙が止まらない。
ただ、墓に縋り付くように、みっともなく泣きわめく。
約束します。
今度からは必ず、夢を伝えに来ると。
だからどうか、今だけは、あなたとの別れを惜しませてください――僕の、一番最初で最高の相棒。
――/――
(あれ、なにがどうなったんだっけ)
ぱちりと目を開けた美海は、回らない思考でそんなことを考える。周囲を見回せば、自分の隣でぼんやりと夜空を見上げる、最愛の友達の姿があった。いつも優しくてずば抜けた才能を持つ、美海の自慢の友達だ。
そんな、美海の友達――つぐみの様子がおかしいことに、美海は少し遅れて気がついた。あんな風にしていても、最後の桜架の演出は怖かったのだろうか。一筋、空を眺める横顔から、涙のあとが伝っている。
(つぐみ、ちゃん……?)
でも、どうしてだろう。美海には、その横顔がひどく大人びて見えた。
「いか、ないで、つぐみ、ちゃん」
美海は、気がつけばそんなことを口にしていた。どこかへ行くなど、つぐみは一言も発していない。だが、どこか遠くへ行ってしまいそうで、怖くなったのだ。
「どこにもいかないよ」
優しい声だ。美海に気がついて、美海を見るつぐみの表情は、穏やかで柔らかかった。だから、美海も安心して、小さく「良かった」と言葉を返す。
「もどろっか」
「う、うん。おうかさん、こわかったね」
「さく――おうかさん……。うん。ふふ、そうだね。すごかった」
つぐみに手を引かれて立ち上がる。顔を上げてみれば、お社から臨む麓の家が、優しげな光を灯していた。




