scene3
――3――
起きるのが早かった私たちはお昼前にどっぷりと昼寝をしてしまい、昼食にキャンプ飯、という名の、カップで作るパスタを食べて一段落。桜架さんの用事がなにかは知らないけれど、明日、みんなで何かをするらしい。ふわふわとした物言いなのは、桜架さんが用事が何であるのか一向に教えてくれないためだ。知っているのであろう小春さんに聞けば教えてくれそうなモノだけれど……それで、小春さんがお咎めを受けたら申し訳ない。
なんにせよ、明日になったらわかることだから、ひとまずは、川遊びに興じる凛ちゃんたちがうっかり溺れないように、桜架さんたちと見守りつつ遊ぼうかな。なんて、私も靴を脱いで川に入る。夏でも水はひんやりと冷たく、足先から甘いしびれが背筋を駆けた。
「ひゃ……つめたい」
こんな感覚、いつ以来だろうか。神津島では病弱設定だったから、水に入らなかったからなぁ。余裕があれば、水着を持ってきて泳ぎに行きたい。でもできれば土左衛門ごっこがしたい。うつ伏せで浮かんでたのに突然仰向け! とかやりたい。
「なぁ、つぐみ」
「じゅりあちゃん?」
そうやって川の冷たさを堪能していると、不意に、珠里阿ちゃんに声をかけられる。足下を水に浸したまま、大きな石に腰掛けていた珠里阿ちゃん。てっきり桜架さんに肩車をねだっている凛ちゃんと美海ちゃんを見ていたのかと思ったけれど、違ったようだ。
「魚って、さばけるか?」
「えーと……」
前世では捌けた。内臓とか血とか平気だからね。マタギの方と一緒に、なら、鹿も捌ける。でも今世では、包丁にすらまだ近づけないからなぁ。
「……ううん。さばけないよ」
「そっか」
「どうしたの? なにかあった?」
珠里阿ちゃんは私の疑問に答えるように、そっと川を指差す。透きとおった水中、鮮やかに陽光を照り返す水面の下。人々の喧噪に動じることなく泳ぐ小魚を、珠里阿ちゃんはじっと見つめていたのだ。
「おなか、へったの?」
「食いしんぼうは、みみだけでじゅうぶんだよ」
……美海ちゃん、そうなんだ。まだまだ知らないことがいっぱいあるなぁ。
「お母さんが、今のうちにりょうりができていたら、しょーらい役にたつって言うんだ」
「まぁ、そうかもね」
「うん。でも、まだホウチョウはあぶないからだめだって。だから、やり方だけでもおぼえておきたいんだ」
その、早月さんの“役立つ”っていうのは、役幅のことを言ってるんだろうなぁ。大丈夫かな? 盲目的になってないかな? ちょっと心配。今度、私の母と一緒に、珠里阿ちゃんの家に遊びに行こうかなぁ。早月さんの、いるときに。
「なら、いっしょにベンキョウしよ?」
「つぐみ……ああ、そうだな。うん、やっぱり持つべきモノはライバルだ! ライバルで、えへへ、ともだち、だ」
私の差し出した小指に、珠里阿ちゃんはそっと自分の小指を絡める。ぎゅっと握る珠里阿ちゃんの笑顔は、ちょうど照り返す日光のように眩しかった。
「あー! つ、つぐみちゃんがじゅりあちゃんとイチャイチャしてるー!」
そんな、悲鳴のような叫び声に振り向くと、先日のように頬を膨らませた美海ちゃんの姿。その後ろでは、凛ちゃんを肩車しながら肩で息をする桜架さん。
「はぁ、はぁ……み、水辺で肩車ってけっこうキツいのね、知らなかったわ」
「おししょー、ごめんなさい。だいじょうぶ?」
「ふふ、これくらいどうということはないわ。大丈夫よ」
息を切らす桜架さんから降りた凛ちゃんが、桜架さんの背中をさすりながら謝っている。その一方で、裸足で駆け寄る美海ちゃん。
(浅瀬とは言えあんな風に走ったら危な――あ)
「へ? きゃっ」
案の定、美海ちゃんは途中で足を滑らせた。とっさに私と珠里阿ちゃんで手を伸ばすと、なんとかギリギリでキャッチ。あ、危なかった。さすがに全身がびしょびしょになったら風邪を引いちゃうよ。
「ちゃんと、まえを見なきゃあぶないぞー、みみ」
「そうだよ、みみちゃん。みみちゃん? けがはない?」
「はぅ……りそーきょー……」
美海ちゃん、ほんとうにどうしちゃったのかな……。ぼんやりと私と珠里阿ちゃんを見比べて、美海ちゃんは、ほぅと息を吐き出した。
「む、三にんであそんでるな。まぜろー!」
突撃してきた凛ちゃんを、私たちは笑顔で受け止める。うん、なんか、心がぽかぽかするような、そんな気がした。
――/――
旅館のパーキングエリアに障碍者用の車を停め、チェックインを済ませる。七月二十六日午前九時半。毎年のルーティーンどおりに日程をこなす。今日は墓周りの掃除を済ませ、翌、二十七日、いつものようにどうせ来て居るであろう彼女――霧谷桜架の墓参りが終わった頃に墓を参り、後片付けをし、帰宅。翌日の仕事の確認、準備を終えて就寝。いつもの日程、いつものルーティーン。一つも私事は挟まず、ただ、仕事をこなすようにすべてを終えて、僕の罪を確認する日。
「二十九日の仕事は……」
ホテルの一室でスケジュール確認。僕の担当子役、ツナギには明日誕生日配信をさせることでファンサービスを行うよう、スケジュールのチェックは終えている。
ツナギ。僕の担当する役者。もう、専属のマネージャーになることなどないと思っていたが、彼の“目的”に興味を抱いてしまった以上、付き合わないという選択肢もない。どこで見つけてきたのか、鶫さんの面影のある子供。あの格好をさせていると、本当に、鶫さんの実子であるような幻想を抱かせる――気持ちの悪い、紛い物だ。なんの因果か、鶫さんと同じ日に産まれてきた、演技の才能を持つ、子供。
「着信?」
不意に、スマートフォンが振動する。スーツのポケットから取り出せば、画面には、あまり見ていたくない文字列があった。
「――はい。なにかご用でしょうか?」
仕事を続けながら対応するために、スピーカーフォンに変えてベッドに置く。すると直ぐに、僅かな雑音と喧噪の声。それから、甘く響くようなメゾソプラノ。
『いつになく堅いわね。何かあった?』
「いえ、とくに」
『そう。今年も帰国できなさそうだから、鶫によろしく言って貰おうかと思ったのだけれど――元気、なさそうね』
「いえ、とくに」
『まったく。どうしてそんなに頑固になったのか。鶫が見たら嘆くわよ』
「は、まさか」
気負いのない声。唯一、桐王さんの訃報を受けて駆けつけたときだけ取り乱したという、彼女の唯一無二の親友。僕は、電話の向こうの彼女にだって、許されるべきではない。
『正真正銘、心の底から鶫の理解者だった私から、鶫が言うであろう言葉を聞かせてあげる』
「それは――」
『――“ふざけんな。罪の意識に苛まれる暇があるんだったら、どれだけ必死に生き抜いて、どれだけ幸せだったか、キッチリ天寿を全うして聞かせなさいよ!”』
それは、あまりに都合が良い。言うかも知れない。ああ、彼女なら、そういう可能性だってある。だが、桐王鶫は死者だ。最早、桐王鶫の声を賜る手段なんて一つしかない。あの男の成し遂げようとしている、一人の子供の破壊による、一人の人間の再生。それ以外にどうやって、死者から言葉を受け取ることができるというのか。
「そんなことを言うために、わざわざ国際電話を?」
『一番は鶫への伝言よ。どうせ今年も既に、日の出町にいるんでしょ?』
「はい」
『じゃ、墓前にキッチリ伝えておいて』
「わかりました。では――」
『ああっと、もう一つ』
まだ、電話を終えさせてはくれないようだ。ため息と共に通話を続ける。また映画の撮影でもしているのか。背景の音が煩わしい。
『あなた、マネージャー業、再開したのね』
「――ずっと、行っていましたよ」
『諭。あなたのルーティーンのことを言ってるんじゃなくて、専属の方よ』
「耳が早いのは変わりませんね」
剣呑な声。鶫さんを殺した僕に、マネージャーが務まるか疑っているのだろうか。だとすれば、鼻の良さに戦慄するよ。僕は確かに今、一人の罪のない人間をまた殺すことに協力しているのだから。
『で?』
「主語も述語もないのでは、他人には伝わりませんよ」
『御託は良いわ。あの子で、なにをしようとしているの?』
「それこそ、おっしゃっている意味がわかりかねます」
『そう。普段のあなたなら、“ただマネージメントを行っているだけです”と答えるのに、何故、はぐらかしたのかしら?』
――一瞬、言葉に詰まる。役者としての現役を引退してなお、業界の最先端でハリウッドに立つ女性。生き馬の目を抜く世界で、小柄な体躯をモノともせずに輝く、女性映画監督。
「さて、おっしゃっている意味がわかりませんね」
『まぁいいわ。ただ、これだけは覚えておきなさい』
「はい、なんでしょうか?」
ため息。追求は諦めてくれたようだ。うっかり帰国なんかされてしまえば、すべてが水泡に帰しかねない。特大級の爆弾。
『桐王鶫の名を汚すような真似をしたら、私はあなたを絶対に許さない、とね』
「っ――肝に銘じましょう」
『そ。ならいいわ。じゃ、またね』
すっかり反応しなくなったかと思っていた心臓が、ばくばくと煩く警鐘をかき鳴らす。本当に、底知れない方だ。だからこそ、桐王鶫の親友であれたのかも知れないけれど。
(ああ、けれど、閏宇さん。僕は最初から、許される気などありません)
そこだけが、きっと、あなたの盲点なのでしょう。そう、やけに疲れ切った身体から力を抜いて、安楽椅子に体重を預ける。それでもしばらくは、彼女の気迫に当てられた身体から、倦怠感は抜けてくれなかった。