scene5
――5――
冷たい潮風。肌に刺さるような寒さ。吐く息が白く染まり、頬に手のひらを当てると、冷たくかじかんでいた。着込んだコートをさすり、マフラーを強めに巻き直す。こんな時期にこんなところに呼び出すなんて、ほんと、あの人はなにを考えているんだか。
見上げた空にはオリオン。東京のネオンに押し負けた空でも、オリオンだけはよく見える。おじいちゃんとおばあちゃんと過ごした第二の故郷では、宝石箱をひっくり返したような夜空が一杯に広がっていたのだけれど。
「すまない、待たせたね、鶫」
「本当に」
「ははは、いや、面目ない」
彼はそう言って笑う。出会ったときは、こんな風に笑う人ではなかった。飄々とした態度と軽薄な言葉選びの奥底に、いつも、寂しさと怒りを抱えていたように思う。
そんな彼が、こんな風に笑うようになったのは、いつのことだったか。もう、覚えていない。思い出せないほど前ではなかったと思うのだけれど。
「今日は、君に伝えたいことがあって君を呼んだ」
「伝えたいこと?」
「そうだ」
彼はそう、いつだってなんにだって自信満々だった態度を崩す。それから、柄にもなく大きく深呼吸をした。彼の吐く息が、白く揺れる。
「俺と、結婚して欲しい」
「へぁ?」
あ、え、と。
私は今、何を、言われたのだろうか。固まる私が二の句を告げる前に、彼はたたみかける。
「俺は、君のことが好きだ。君のことを――愛しているんだ」
「え、ええええっ!? い、いつから!?」
「いつから、と言われたら。ははっ、いつなんだろうな。気がついたら、鶫、君に夢中だった」
え、あ、んんん。ええっと、スキャンダルとか、ええ、そのあの。すぅ、はぁ。
動揺を深呼吸で押し殺す。そりゃ、彼のことは嫌いではない。どちらかといえば好きな部類に入る。でもそういう対象として見たことはなかった。信頼できる人間の、一人だと思っていた。
「君のような素敵な女性が家に入ってくれたら、あの頑固な両親も納得することだろう。もっとも、納得させるつもりだけれど」
けれど、ちょっとだけ、引っかかった。
「家に入る……って?」
「苦労はさせない。女優なんかやらなくても、俺の帰りを待っていてくれたら良い。好きなモノは何だってあげるよ。どんなものだって用意する」
「はぁ、そう」
「ああ、だから」
そうか。今までは、全力で演じていれば、技術と情熱で演技をしていれば、その気持ちは伝わるモノだと信じていた。でもそれは、きっと私の甘さだったんだろう。こうして、私を、私なんかを好きだって言ってくれる人にすら、私の思いは伝わっていなかった。
「断るわ」
だから、そう、目を見て断言する。彼の狼狽と、自信に、真っ向から己を叩きつける。この、ホラー女優桐王鶫を前にして、引退を迫るとは良い度胸だ。そんな気持ちをせめて、言葉にして、ぶつける。
「私は女優の道に誇りを持っているわ。だから、ごめんなさい。家に入ることはできない」
「ッ結婚して、家に入って、子を産み育てることが女性の幸せだろう?」
「それはあなたの規範よ。私の信念ではないわ」
「だったら、ああそうだ、だったら仕事ができなくなれば良い! 断るのなら、鶫に仕事が回らないようにすることだって――」
「――■■」
「っ、ぁ」
売り言葉に買い言葉なのかも知れない。ああ、けれど、だめだ。
「やれるものならやってみなさい。泥水を啜るのは慣れているわ。何度崖っぷちに立とうと、幾度だって立ち上がって這い上がる。そのときを、恐怖と共に悪夢に見てなさいな」
「お、俺は、ただ、君と」
震える言葉。
白く煙る吐息を、燃やし尽くすような、怒り。
「良い機会だから言ってあげる。私は、私の信念を穢すモノを許さない。覚えておきなさい」
「まっ、待ってくれ、鶫、鶫ッ――鶫ィィィィィッ!!」
振り返り、歩き出す。怒り、憤慨。色んな感情がない交ぜになる中、どうしようもないほどの悲しさと寂しさが、胸の中を駆け巡る。そうだね、■■。私もあなたと同じように、あなたのことが好きだったのかも知れない。
こんな感情、今更、こんなときに気がつくなんて馬鹿げてる。私は、あなたと一緒に居て、あなたと並んで、楽しかったんだ。あの、寂しさを封じ込めた瞳で、優しく笑うあなたのことが好きだったんだ。
だから。
ごめんね。
私は私の道を征く。
まだ、夢のかけらにだって、届いていないのだから。
ああ、それと、一つだけ、振り返ることなく彼に約束をしよう。
私は――
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目を開ける。イヤホンから流れ続けるのは、『testatrix』。あの歌だ。夢を片手に故郷を飛び出て、愛しい人ができて、そして、手放してしまう。
なにか大切な夢を見ていた気がするのだけれど、思い出すことができない。ただ、悲しい夢だったのかな? 頬を拭うと、涙が手の甲を伝った。
「ふわ、ぁ」
いつの間にか、眠ってしまっていたようだ。あくびを一つ零すと、背筋がすぅっと通るような気がした。手元を探れば、虹君に買って貰ったミルクティーのペットボトルが当たる。口を開けて傾ければ、甘さが、緊張をほぐしてくれた。
「んんっ。えーと、じかんは――」
「十二時十五分です、つぐみ様」
「ほぇ、ぁ、んんっ。ありがとう、こはるさん」
「いえ。それより、涙のあとが……?」
小春さんは一度外に出ていたのだろう。カギを開けて戻ってきて、まず最初に時間を答えてくれた。時計とか見ている仕草はなかったけれど……感覚で把握しているのだろうか。すごい。
「えへへ。大きなあくびしちゃった」
「そうでしたか。見逃しました。痛恨の極みです」
「もう。見なくてもだいじょうぶです!」
そんなに悔しがらなくても。
「皆さん、デッキに集まっています。どうなさいますか?」
「わたしもいく!」
「では、お手をどうぞ」
「ありがとう、こはるさん」
小春さんにお礼を言って、私も部屋を出る。そろそろ着く頃だろう……ということは、けっこう寝たな。なんだか妙に身体もすっきりしてる。
階段を降りてデッキに立つ。スタッフさん方がテーブル席で思い思いに過ごす中、海が見える位置に、虹君とツナギちゃんが並んで立っていた。
『私は――』
その光景に、蜃気楼にも似た既視感を、覚える。まるであの日の――いや、あれ、なんだっけ?
「ん? よう寝ぼすけ。そんなところで何やってんだ?」
「おんなの子に寝ぼすけはないよ、こーくん」
「大丈夫? つぐみ? 疲れちゃった?」
「ううん、だいじょうぶ! 心ぱいしてくれてありがとう、ツナギちゃん」
どっかの誰かと違って、ツナギちゃんは優しいなぁ、なんて視線を虹君に送るも、虹君はどこ吹く風。こういう時の感じってほんと、■■に似てる。こう、飄々としていて――って、だから、あれ、なんか変だ。しっかりしろ、空星つぐみ。
「ほら、つぐみ、見てみろ」
「へ? わぁ……」
眼前に広がる光景。青い空がキラキラと海に反射して、その先の緑を美しく彩る。
伊豆諸島、神の宿る島――神津島。その雄大な姿が、私たちを出迎えてくれた。
――/――
「みんな、引き受けてくれてありがとう。今日はよろしくね」
神津島。伊豆諸島の端っこの島。今日のMV撮影のためにオレたちを呼んだそのアーティストは、空で輝く太陽とそっくりな笑顔でオレたちを出迎えた。
オレンジ色に染色した髪と、サックス型のネックレス。タンクトップにジーパンと、なんとも豪快な出で立ち。今人気のシンガーソングライター、“るい”は、想像以上にとっつきやすい感じだった。
「よろしくお願いします」
オレに続いて、つぐみとツナギも頭を下げる。配色は全然違うけど、こうして並ぶと姉妹みたいなんだよな、こいつら。
思えばあのオーディションから奇妙な縁ができたモノだとは思っていたけどさ、まさか三人でMV撮影……なんてことになるとは、さすがのオレでも想像していなかった。
「明日は早朝から撮影に入るわ。今日は充分に英気を養って頂戴」
るいさんの言葉で、とりあえずは解散。オレたちは例の刑事さんやマネージャーに遠巻きに見守られながら観光、という運びになった。遠巻き、っていうけどさ、つぐみのマネはあれ本当に遠巻きなんだろうな? 金持ちの使用人ってわかんねぇ。
なお、黄金さんはこの輪にはいない。また別の打ち合わせでもあるのか、るいさんに呼び止められて歩いて行った。遠目で見れば二人で何か話しているようだったし、うん、打ち合わせだろうなぁ。ツナギのマネージャーも、観光にはついてこないようだし。
「で、観光って、どこ行きたいんだ?」
「私は山登り以外だったらなんでも良いわ。虹は?」
「同感。山登りできる格好じゃないしな。つぐみは?」
ツナギはまぁ、見るからに体力なさそうだもんな。ちゃんと食ってんのか? こいつ。つぐみは意外と体力があるからなぁ。山登りは嫌だぞ、オレは。
「わき水!」
「はぁ? そんなのあったか?」
「これじゃない? ほら“多幸湧水”」
「東京名泉五十七泉……? つぐみ、おまえさぁ」
つぐみはいつの間にか、手に水筒を持っていた。聞けば、小春さんがこんなこともあろうかと、と、用意していたらしい。
「あー、まぁ良いか。車出して貰おう。船に積んでたよな?」
「うん。こはるさんが、山用にって」
山用ねぇ。まぁ良いけどさ。それにしても……。
「おまえ、なんかババくさいな」
「なっ!? こ、こーくんまで」
「あ? 他にも言われてんの?」
……そういえば、霧谷桜架にも海にも、ツナギにも頬をこねくり回されたって言ってたな。だいたい、こいつは無防備なんだ。演技のこととなれば無鉄砲で、素のままを見せたかと思えば、どこか遠くを眺めて寂しそうにしている。
凛が、こいつに構うのもわかる。掴んでないと、溶けてなくなりそうなんだ。雪みたいな、そんな雰囲気。いつか、周りの全部を置いて駆け抜けて、そのまま空に消えてしまいそうな。
「こ、こーくん?」
「虹、それってどうかと思うよ?」
「は? ――ぁ」
気がつけば、つぐみの手を握る自分がいた。本当に無意識で、その、あの、なんだ。
「ほら、離れた離れた!」
「わっ、わるい」
「え、あ、うん、だいじょう、ぶ、だいじょうぶ、だよ?」
つぐみは、なんていうか、珍しく動揺しているみたいだった。こいつもそんな顔をするのか、と思うと、胸の内にこみ上げてくるモノがある。
それを――頭を振って、ごまかした。だって、変だろ。こいつは、凛よりも年下なんだぞ? それが、もっと、色んな表情を見たいだなんて。
どうも、あの“十五歳の演技”をつぐみとしてから調子が狂う。本当に、同い年の意識になってしまったような。
「むぅ。二人にしかわからないコト考えてるな。私だって友達なのに」
「あー、悪い、ツナギ。さっさと車出して貰うか」
「ごめんね、ツナギちゃん。ほら、わたしとも手をつなごう?」
「……しょうがないなぁ」
ツナギはツナギで、島の開放感にやられているのか、珍しく子供っぽい態度でつぐみの手を握って歩き出す。む――ん? む、ってなんだ、む、って。
「こーくんも混ざる?」
「言っとけ」
「ほら虹、ツナギちゃんの右手が空いてるよ?」
「ちっ、仕方ねぇな。引率だ引率」
さみしがるから、しょうがない。そんな風に自分に言い聞かせて、オレはツナギの手を取った。