opening
――opening――
打ちっぱなしのコンクリート。
締め切られた磨りガラスの窓。
クローゼットとボロボロのソファー。
身体を横たえれば軋みを上げる、堅いベッド。
「はぁ……痛い」
私物の一切を許されていない私室で、ツナギはベッドに身体を横たえながらそう零した。
「こんかいは、うかつだった。もう少しきげんの良いときに――んん、いや、間をおいたほうがいい」
配信の時のような饒舌な口調ではない。舌っ足らずな、子供らしい声色でツナギはぼやく。こうして私室にいるときだけは、ツナギはただのツナギになれた。
「とくに夜はだめだ。夜は、あのひとを狂わせる。うぅぅ、痛い」
みぞおちを押さえて唸る。ベッドから起き上がり、申し訳程度に置かれている姿見の前に立って服をめくると、浮いたあばらと大きな青あざが見えた。撮影に支障が出ると演技を加えて訴えかければ、薬くらいはくれるのだろうか? そう考えて、ツナギは頭を振る。どんなに会話がしたくても、過剰に演技を続けたくなかった。
だったら、必要経費という扱いで、メールを送った方が良いだろう。無機質に、無感情に――思いを、悟られないように。
「とうさん――……かあさん」
最早記憶もおぼろげだが、ツナギの脳裏には一つの光景がずっと残っている。
白いシーツ。
薬品の匂い。
腕につながれたチューブ。
風に流れる黒髪をかき上げて、笑う。
『あのひとは、不器用だから。本当は、優しい人なんだよ。ああ、でも、もし――』
その先が、どうしても、思い出せない。だからこそ、ツナギにはどうしても欲しいものがある。いつも母のベッドの脇に置かれていた一冊の日記帳。あの日記帳があれば、母がなんと言っていたのか、わかるかもしれない。
もう二度と、母に会うことは叶わないのだから。
「はやく、はやく、はやく」
早く、この記憶が薄れてしまわないうちに。
早く、このぬくもりを忘れてしまうまえに。
早く、誰よりも早く、成し遂げなければならない。
「はやく、きりおうつぐみに、ならないと」
それでも、と、ツナギは姿見の前に座り込む。父の部屋、母のベッドに寝かされた、あの薄気味悪い人形のことを思い出す度に、ツナギの瞳には薄暗い憎悪が宿るのだ。
もしも、そう、もしも父親と桐王鶫の出会いがなければ、ツナギが産まれなかったのだとしても。
「桐王鶫なんて、嫌いだ。大ッ嫌いだ」
それでも、と、ツナギは蹲る。鏡に映る己の憎悪に燃える眼が、狂気に彩られた己の父親のモノとよく似ていることなど気がつくこともなく。
「桐王鶫さえ、いなければ」
闇が深くなればなるほど、桐王鶫の演技が完成されていくことなど、気がつくこともなく。
「は、はははっ、ははははははっ――なんて、滑稽」
ただ、ツナギはそう自嘲する。
運命を憎むように、ただ、冷たい床に横たわった。
――/――
白く上品な壁。
美しいウッドテイストの机と赤いソファー。
テーブルの上に置かれたワイングラスに、血のように赤いワインが注がれる。
くすんだ髪色の男は、上品なスーツに身を包み、扉から入ってきた男性に傾けた。
「君もどうかな」
「遠慮しておきます。酒は、嫌いなので」
「ククッ、そうか。いや、すまないね。さぁ、かけてくれ」
男性は杖を器用に扱って、ぎこちない動きの右足を運ぶ。そして、男の前に腰掛けた。
「あなたが快諾してくれて良かったよ」
「三顧の礼の間違いでしょう?」
「いずれ水魚の交わりとなるよ」
「七度逃げても絆されませんがね」
「クッ、あなたはそうこなくては」
男は、目の前の男性に楽しげに笑う。その瞳の奥には隠しきれない狂気があったが――男性はそれを無関心に眺めていた。心底、どうでもよさそうに。
「では、ビジネスの話をしよう。以前話したとおり、君にはマネージャーを頼みたい」
「良いでしょう。あなたの目的の着地には、僕も些か興味があります」
「ああ、君も気に入ってくれるさ。そのときには、好きな言葉を賜ると良い」
「考えておきます。期待はしていませんがね」
グラスを掲げ、眼鏡を直す男性をワインを通して見る。ストレスで真っ白になった髪が、赤いワインに良く映えた。
「とにかく、種類は問わないよ。どう扱っても構わない。ああ、でも、壊さないでくれよ? 替えが利かないんだ」
「わかっていますよ。僕はただ、これまでのように、仕事をするだけです」
男はグラスを傾け、一息にワインを呷る。乾杯の代わりとでも言いたいのか、もしくは己に酔っているのか。空いたグラスを机に置くと、男は、目の前の男性に手を差し出した。
「短い付き合いだが、深い付き合いになるだろう。これからよろしく――辻口さん」
「……」
差し出された手は取らず、男性――辻口諭は、無言で小脇に抱えた鞄から書類を取り出す。それに男は肩をすくめてため息をつくと、彼に合わせるようにサインの準備を始めた。