ending
――ending――
スカイツリーでの収録を終えてから数日が経つと、インターネットのニュースはあの日のことで一色となっていた。人の口に戸は立てられないからね。噂が噂を呼び、ついには、あの公園での一幕を特番に組み込んで先行公開することになったそうだ。
なんとなく落ち着きが良いのと、こう、据わりが良いのか、小春さんの膝の上でニュースを見る。コメントも良心的なものばかりで、ありがたい。
「大盛況ですね」
「はい。わだいせいも、すごかったみたいです」
なにせ、今人気の子役二人に、大女優霧谷桜架の悪役に、そして人気yo!tuberのテレビ初出演だ。
結局彼女が何故あそこにいたのかはわからずじまいだったけれど、あの日の舞台を夢見たおじいさんを救えたのであれば、それで良いのではないか……なんて、気もするのだが。
(そうも言ってられないんだよねぇ)
気になるのは、彼女の去り際の言葉だった。
『どうせまた会うことになるよ。それまで、ばいばい』
手を振ってそう、颯爽と走り去った彼女。そのなびく黒髪が、やはり、あのとき紙飛行機を投げたのは他ならぬツナギちゃんであったことを、知らせてくれる。
どうして、あの場に誘導したのか。どうして、あの場で私たちと関わったのか。どうして、ちょっと桜架さんを苦手そうに――って、これはいいか。恨み辛みの視線じゃなかったし。
「うーん」
「いかがなさいましたか? つぐみ様」
疑問に思うと中々止まらない。うぬぬと唸っていたら、小春さんに心配されてしまった。そうだよね、膝の上で唸れば気になるよね。
「ううん。ただ、ほら、ツナギちゃんって演技もできるんですね!」
「つぐみ様の方が素敵です」
「へぁっ!? あ、ありがとう」
小春さんに、間髪入れずにそう言われて口を噤む。小春さんって言語センスが独特なんだけど、時折、こうやってとてもストレートな言葉をくれるんだよね。びっくりしてしまう。
「こはるさんは、ツナギちゃん、気になりませんか?」
「そうですね、あまり」
「そうなんですね」
「つぐみ様が一番ですよ」
「もう。そればっかり」
「真理……」
うん、やっぱり言葉のチョイスが独特だ。なんでもこなせる憧れのキャリアウーマン! っていう感じなんだけれど、こういうちょっと個性的なところが魅力的だと思う。
最近は有能さに磨きがかかって、一日ほとんど気配を感じないこともあるからね。御門家ってこう、忍者か何かの家系なんだろうか。……気にしない方がよさそう。
「あ、つぐみ様、メールです」
「メール?」
「夜旗様から、ですね」
凛ちゃんから、と思ったのだけれど、よく見たら凛ちゃんのマネージャーさんからのメッセージを転送してくれたみたいだ。あのあと、資料撮影にスタッフさんと現場に行ってみたら、あのおじいさんが居たらしい。
添付されていたファイルを小春さんが開いてみると、そこには、思いもよらなかった写真があった。
『再会の奇跡に感謝を』
そんなタイトルに彩られた一枚の写真。おじいさんと並ぶ、記憶に思い出のある四人組。ノッポの男性とつり目の女性。車椅子に乗った小柄な女性と、車椅子を引くリーダーの男性。この二人の左手の薬指には、銀の指輪が輝いていた。
「話題になったことが切っ掛けで、示し合わせてもいないのに同じ日に集まったそうです」
「そっか、そうなんだ」
再会の奇跡。それを生んだのはきっと、私たちの力ではない。あのとき、あの公園で彼らを待ち続けていたおじいさんの真摯な願いが、彼らを呼んだのではないだろうか。
「嬉しそうですね、つぐみ様」
「……うんっ」
写真の中の彼らの笑顔。そのまばゆい輝きが千金にも勝る宝物のように思えて、私は小春さんに大きく頷き返した。
――/――
暗い部屋。
モニターの光。
くすんだ髪の、男。
「ふん、ふんふふーん、ふんふふふんふーん」
上機嫌に鼻歌を歌い、暗闇のベッドに近づく。男の引くカートには、湯気の立つシチューが綺麗によそられていた。
「ふふん、会心の出来だ」
高級スーツに身を包み、その上から可愛らしいエプロンをつけている。まだ器が熱いため、片手には鍋掴みをつけていた。
男はベッドの脇に置かれた椅子に腰掛けると、ベッドで身体を起こした形のそれの黒髪を撫で、一房掬って口づける。まるで、愛おしい恋人にするように、陶酔した表情で。
「お待たせ、鶫。今日は趣向を凝らして、クリームシチューにしたんだ」
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
「北海道産のもので集めてみてね。牛乳もサーモンもジャガイモも、極上品さ」
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
「バターも厳選に厳選を重ねたんだ。コクが違うだろう?」
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
「君は薄味が好きなのは知ってるよ。イジワル? 違うさ!」
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
「まったく、前回のお吸い物も結局飲まなかっただろう? だからさ」
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
「俺は君のためを思ってこうしているんだ。いつだってそうさ」
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
「だから、そろそろ拗ねるのはやめて、食べてくれないか?」
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
男はシチューを一杯掬い、口元に寄せる。
――カチッ、と音がしてシチューが零れた。
――蝋でできた人形が、口を開くことなどないというのに。
「ああ、まったく、今日もすべて零してしまったね」
男はシチューを一杯掬おうとして、もう中身がないことに気がついた。致し方なく皿を片付け、シチューで汚れたシーツを剥ぎ取る。足下に丸めて置いて、それを踏みつけた。
何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も踏みつけて、無感情に蹴り捨てる。それから、シーツの剥ぎ取れた蝋人形を抱き寄せて、熱で滲んだ唇を舐めた。
「抵抗しないのか?」
呟く。
「言ってくれよ、なぁ」
唇を噛み、息を荒げ。
「嫌じゃないのか? なぁ、鶫。鶫、鶫、鶫、鶫鶫鶫鶫鶫ィァァァァァァッ!!!!」
頭髪を振り回し、涙を流し、喉をかきむしり、地面に額を打ち付ける。それからふらりと立ち上がって、スマートフォンを手にした。
「おい、いつものように片付けておけ」
『――』
モニターの前の安楽椅子に腰掛けると、男は途端に上機嫌になる。モニターにはたくさんの桐王鶫がいて、その誰もが生き生きとしていた。男の好きな姿だった。
そうやって安楽椅子で揺られていると、ノックの音と共に扉が開く。向こう側はずいぶんと明るく、白い光が男の部屋に差し込むが、男に気にした様子はない。
「おい。早く持って出ていけ。どうした」
男は見向きもせず、そう告げる。けれど扉を開けた相手は一向に出ていかず、それが、男を苛立たせる。安楽椅子の手すりを苛立たしげに叩くと、その相手はびくりと肩をふるわせた。
その程度のことで怯える仕草が、男を余計に苛立たせていると、相手もまた気がついているはずなのに。
「なんだ? 用か?」
「あの、指令を終えました。成功です。話題が広がれば、直ぐにでも表舞台に立てます」
「そうか。で?」
男の言葉にたじろぐ気配。男はため息を一つつくと、立ち上がって相手に近づく。そして、その小柄な影に、吐き捨てるように告げた。
「だから、どうした」
「だからっ、おねがい、とうさん、一度だけかあさんの――」
懇願するその影――ツナギのみぞおちに、男は唐突に、つま先をめり込ませる。
「――がっ!? ぐ、ぐぅ、ぁあ」
鞠のように吹き飛んで、転がって、黒髪を乱しながら咳き込んだ。立ち上がろうとして、ふらつき、両膝をつく。腹を庇う手は震え、ダマのような唾液を垂らし、噴き出す汗を拭えずえずく。
「ぐぅ、げほっ、げほっ、ひゅっ、ヒュー、ヒュー、ぃ、ぅぁ、は、っぁ」
嘔吐感を我慢するのが精一杯なのか、喘鳴を吐き出し、ツナギはただ、蹲っていた。
「誰がそう呼ぶことを許可したおまえにそう呼ばれて許すとでも思ったのかおまえが何度も失敗して何度も何度も何度も俺を煩わせておいてたった一度の成功ごときで褒美をほしがるような浅ましい存在になることを許したのか答えろ、答えろ、答えろッ!」
「も、もうしわけありませ、げほっ、げほっ」
胸ぐらを掴み、こぶしを振り上げ、怯えるツナギに唾を吐きかけ、怒鳴る。その怯えた表情に満足したのか、男は手を離して――まるで優しい父親のように微笑んだ。
「教えたようにやるんだ。ほら」
「はぁっ、はぁっ、げほっ、げほっ」
「もう一度だけ言うよ。ほら」
男は、ツナギを見下ろす。怯え、苦しむ影を見下す。それから、小さく何事か呟いて、また、胸ぐらを掴んで引き寄せた。額と額が打ち合うほどの距離、男の目には震えるツナギが映り込む。
「他人を対等に見る人間だった」
揺さぶる。
――男の爪が胸元に食い込む。
「努力家だった」
揺さぶる。
――肌がこすれて血が滲む。
「美しかった」
揺さぶる。
――痛みに頬が引きつる。
「いつだって何に対しても真摯だった」
揺さぶる。
――怒鳴る声は頭痛を誘い。
「物寂しい横顔をすることもあった」
揺さぶる。
――明滅する視界の中。
「ほんの僅かに抜けているところもあった」
揺さぶる。
――少しずつ、意識が切り替わる。
「有言実行の人間だった」
揺さぶる。
――やがて、その小さな子供の身体から。
「優しさを秘めた女だった」
揺さぶる。
――怯えと抵抗が消え去った。
ツナギはただ息を整えて、意識を切り替える。それから、怯えを捨てた目で、男を見上げた。
「――任務を無事に終えたわ。次の仕事は?」
男は手を離し、瞳に喜色を浮かべ、立ち上がる。
「ふ、くくっ、それでいい。ああ、でもすまないね。報酬はないんだ」
「構わない。私は、私のできることをやり遂げるだけだから。全力でね」
「さすが、そうこなくては。君は満足しないだろうが、次の仕事ができたら必ず手配しよう。それまでは、休んでいてくれ」
「はぁ。わかったわ。じゃ、それだけ片付けておくから――あなたも、ちゃんと休んでね?」
「ああ、約束するよ」
ツナギは、大人びた態度でそう告げる。まるめたシートをカートに乗せて、空の器を回収し、部屋の外へ出て行った。
男はそれを見送ると、また、安楽椅子に腰掛ける。モニターの向こうでは、鶫がまた、凄惨な――男の目には、可憐な表情で笑っていた。男もまたその笑みにつられるように、頬を引きつらせ、歪ませ、笑う。
「ぐ、ふふふ、ふっ、はははははは! 鶫、ああ、鶫、君に、やっと――ぁ、ははははッ」
笑う。笑う。笑う。まるで世界のすべてが楽しい玩具であると言わんばかりに、男は笑う。やがて笑い疲れて瞼を落とし、また、ゆっくりと目を開いてモニターを見た。
「ああ――やっぱり、素敵だ」
酔いしれる男は気がつかない。
扉の向こうで泣く、子供の声に気がつかない。
そもそも最初から、そんなことに興味などなかった。
変革の時は近い。
運命の歯車は、無慈悲に回り始めたのだから。
――Let's Move on to the Next Theater――