scene5
――5――
「どうして、つぐみちゃんがそれを知っているの?」
あ。
まずい。
どうしよう。
表面上は「なんのことやら」と首をかしげているけれど、背中は冷や汗でびっしょりだ。ここまでなんとかなってきたのに、こんなことってある?
どうしよう。どうする。どうすれば。ここまでこんなに自重してきたのに、こんなことって。あわわわわわ。どどどどどど、どっ、どどっ、どう、どうしよう!!?
「えーと、あの」
「つ・ぐ・み・ちゃん?」
机の向こうから伸ばされた手が、私の頬に添えられる。端から見れば先輩女優が後輩子役をかわいがっているようにしか見えないことだろう。けれど私から見た桜架さんはどう転んでも目が笑っていないようにしか見えないし、笑顔の影にとても重い圧力のような物を感じる。
そして、桜架さんは何を思ったのか、何故か私のほっぺたを、左右上下にふにょーんと伸ばし始めた。
「はみゅっ……んにゅ、や、やめ、むぬぅぅぅ」
「思ったより伸びるわね。それで、つぐみちゃん、私の質問は聞いていたかしら~?」
「ぬにゅうぅ」
まずい、まずい、まずい。
こうなったら潔く自白する?
休憩中でカメラは止まっている。スタッフさんも大半は次の準備に取りかかっている。今なら、最小限で済むだろう。
でも、そうしたら、わたしは。
「まさか――」
桜架さんの目に、揺らぐ意思が見える。期待するような、あるいは不安を抱えてしまったような。私は、彼女にそんな顔をさせたいわけではないのに。
だから、もう、いいや、しかし。そんな私の揺らぎと、焦りと、後悔は。
「あ、おししょー、それわたしもしってる」
まさかの救世主によって、救われた。
「え? 凛?」
「らんさんにきいた。“あのひとだって、なにもかもパーフェクトというわけではないわ。だから、気落ちしないで”って」
……なるほど、桜架さんとの特訓中に何か失敗をして、それで桜架さんと自分を比較して落ち込んでいたときに蘭さんに聞いた、ということなのかな。そして口止めを忘れていた、と。
ぱっと、頬から手が離れる。絶妙な力加減だったのか、あんなに引き延ばされて揉み込まれてふにふににされたのに、不思議と、まったく痛くはなかった。
「だから、わたしが、つぐみに話したんだ。ごめんなさい」
「なるほど、そう、ふぅん。ふふ、大丈夫よ。大丈夫。ちょーっとだけ蘭とお話しする必要があるけれど」
いやぁ、ははは――あっっっっぶなかっっったぁっ!!
「あの、言ってはいけないことでしたか? ごめんなさい、おうかさん」
「ふふ、気にしないで、つぐみちゃん。人の口に戸は立てられないわ。頬、引っ張っちゃってごめんね」
「い、いえ、いたくなかったので、だいじょうぶです!」
ここぞとばかりに話に乗ると、桜架さんは苦笑して私の頭を撫でてくれた。セーフ、セーフだ。本当に良かった。良かったけれど、私は凛ちゃんからそんな話を聞いたことがない。これは、えっと、どういうことなのだろう?
安心もつかの間。今度は別の不安が襲ってくる。凛ちゃんはいったい、どうして、そう言ってくれたのだろうか? 首をかしげて凛ちゃんを見ると、凛ちゃんは私の耳朶に吐息がかかる距離まで近づいて、小声で、内緒話をしてくれた。
「つぐみがあせってたから言ってみたけど、だいじょうぶだった?」
「う、うん。ありがとう、りんちゃん」
「いい。でも、いつか、なんでこまってたのか聞かせて」
「……りんちゃん」
本当に、凛ちゃんは直感のようなものだったのだろう。心配そうにこちらを覗き込む視線に、戸惑いや不安はない。驚くほど純粋に、ただただ私を心配してくれている。きっと、本当に、私の事情を理解しているのではなく――困っていたから、助けてくれたのだろう。
肩に置かれた凛ちゃんの手を握る。返事は、言葉にしない。それでも充分伝わったのだろう。凛ちゃんはただ、優しく頷いてくれた。
「それでは、撮影再開しまーす」
スタッフさんのかけ声で、再び撮影班が動き出す。食事を終えて、次はいよいよ四五〇階という天望回廊だ。でも今ならきっと、高所の恐怖すら楽しめることだろう。
――正直、数分前のやりとりの方がよほど怖かった。
「霧谷さん、マイクチェックします。……霧谷さん?」
「いえ、でも、あれは――ん、ええ、ごめんなさい。お願いします。――……まさか、ね」
……本当に大丈夫だよね。うん、大丈夫だと思う。思わせてください。
どうにかこうにか不安を振り払い、意識を切り替えて始まろうとする撮影に集中する。そうでなければ、庇ってくれた凛ちゃんと視聴者の皆さんに申し訳が立たない。
「はい、ではエレベーター前、シーンいきます。三、二、一、スタート!」
カメラが回り出す。エレベーターに乗り込んでから、放映の枠がスタートだ。合図と同時に、自然と気持ちは切り替わっていた。
「わぁ……」
エレベーターの中は、壁と天井がガラスで、なんとも開放感があった。開放感で済むのかなぁ、これ。足が竦む。どきどきする。楽しい。
「綺麗だね」
「はい! ほら、りんちゃん、きれい」
「おおー! すごい! おししょー、おししょー、あれは!?」
「キャロットタワーかしら。三軒茶屋ね」
最上階まで登ると、その先には天望回廊の名前の由来になったチューブ型のガラス窓だ。床の下にくぐるようにできているから、まるで本当に空中を歩いているような気分になる。
これってどうにかしてこの外側に貼り付くことができたら、怖くないかな? 張り付く方も怖いか。
「いいけしきだ」
「そうだね、りんちゃん」
「きょう、つぐみとのこのけしきが見られて良かった」
「りんちゃん……」
空を歩いているかのような景色の中、雲間から不意に差し込んだ陽光が凛ちゃんの横顔を照らす。凛ちゃんは私の目を見て頬を緩ませ、本当に楽しそうに笑った。普段は表情の乏しい凛ちゃんの柔らかい笑みに、私はらしくもなく釘付けになる。
最初に友達になってから、思えば色々あったと思う。それでもこうして並び、彼女が心からの笑顔を見せてくれている。そのことが、わたしは、凛ちゃんの親友として、すごく嬉しい。
「ぁ」
「ん? ぁ」
と、不意に感じた気配に、なんとなく手を向ける。そうすると、指に収まる紙の感触に疑問を覚えた。
紙が飛んできた気配の方向に視線を向けると、艶やかに流れる黒髪が人混みに消えていく姿を視界に収める。今のって……?
「かみひこうき?」
「つぐみちゃん、開かない方が良いわ。内藤D、確認を」
「は、はい!」
桜架さんの指示でスタッフさんが駆け寄って、私たちを含めた周囲の人間に見えないように、紙飛行機を広げる。すると直ぐに、ほっと胸をなで下ろした。
「大丈夫です。ただのチラシですね。誰かのイタズラでしょう」
「よくあることですね。……押上商店街の物ね」
スタッフさんと桜架さんが、紙飛行機を確認してくれる、のだけれど、ちょっと気になる単語が出てきた。
「あの、おうかさん、わたしも見てもいいですか?」
「む、つぐみ、やめておいたほうがいいんじゃないか?」
ダメ元で尋ねると、桜架さんとスタッフさんは目を合わせ、それから小さく苦笑した。
「妙な物ではないと、見て確認した方が安心かしら」
「ありがとうございます」
「つぐみが見るならわたしも。イチレンタクショーだ」
昔ながらの手書きのチラシ。公園内の花時計の側で、いつも行われていた小さな舞台。仲の良い男女四人組が、大舞台を夢見て結成したという劇団。名前も、昔のまま――“ピース”という、駆け出し舞台役者グループ。
どんな舞台をやるんだろう。どんな演技ができるように、成長したのだろうか。彼らの未来が、知りたい。たとえもう桐王鶫にできることがなかったとしても。
「あの、このチラシ、もらってもいいですか?」
「ん? カラスでも書いてあった?」
「えっと、りんちゃん、そうじゃないんだけどね」
私の提案に、桜架さんは幾分か逡巡し、頷いてくれる。
「チラシを? ……ええ、では、スタッフさん方に念のため安全性の再確認してからね」
「はい!」
まぁそうだよね。でも、うん。嬉しい。最早過去の残滓であったとしても、その軌跡を追えることはやっぱり嬉しいよ。
(でも)
さっきの黒髪。
あの子はいったい、なんだったのだろう。
あの子が紙飛行機を飛ばしたと確認した訳ではないけれど、どうしてだか、妙に気になる。
(どこかで、見たことがあるのかな)
胸中にこびりつく違和感。
視界から消えた黒髪が、まるで蜘蛛の糸のように、心の奥に絡みついた。
――/――
午前十時。ちょうど、つぐみたちが日ノ本テレビから出発しようという頃。晴天のスカイツリーを睨み付ける、小柄な影があった。
黒い髪。目深に被ったキャップ。キャップに合わせた服は、七分丈のデニムパンツにジャケット。ジャケットの下には、手首どころから手のひらまで覆う黒いシャツ。特徴的な南京錠つきのチョーカーが、風に揺れてきらりと光る。
「おそい」
小柄な影――ツナギはそう、頬を膨らませて呟く。準備や確認のために押上駅に到着したのが午前七時。確認を終えて一息ついたのが午前九時。それから露店を冷やかしたりなんだりと、すべて終えてまだ時間がある。
今回は、ツナギはなにかと邪魔をしてくる目の上のたんこぶ、霧谷桜架もいるのだからと、保険まで用意して臨んでいる。ここまでして失敗をしたら、と、ツナギは頭を振って悪い想像を打ち払った。
(長い撮影の間、どこかで入り込めたら良いんだ。焦る必要はない)
ツナギはそう、何度も何度もプランを反芻する。下見を含めて二回分のチケットも用意し、どんな動きが来ても対応可能にした。それでも、子供一人の行動という時点である程度の制約がある。
心配も問題も一つ一つ丁寧に潰し、準備を入念にこなし、保険の確認もした。もう、これ以上は必要ない、と、己自身に言い聞かせる。
(もう、失敗はできない)
そう、キャップを握りしめ、それから大きく深呼吸。ツナギはただ思い悩むだけでそこそこの時間が経ってしまったことを確認すると、スカイツリー前の噴水に腰掛けた。
気持ちを落ち着け、ぼんやりと空を見る。そうしているとやっと、ざわめきを耳で拾った。
(オープニングからいきなり、は、早いかな。いや、チャンスがあったら入ってしまおう)
それだけの知名度。それだけの準備はある。ツナギはそう、人混みに紛れながら撮影の群れを確認し、首をかしげて眉間を揉み、もう一度よく見て確認した。
「なんで」
何故、周辺警護に警察官がいるのか、と。スカイツリー前で制服の警察官は置いていくようだけれど、あからさまに警察に帯同していたスーツの人間が一緒に入っていく。
妙に厳重な警備。張り巡らされた視線の気配。難易度が跳ね上がったことを察し、ツナギは頬を引きつらせる。
(いいや、まだだ。まだ諦められない)
ツナギはなんとか心を持ち直し、人混みに紛れたまま移動する。気配の波に隠れて野望を持つツナギの、試練が始まった。
――地上フロア――
昼時になると人が増える。想定内ではあったが、警備が厳重になったことで人員整理が通常のこういった撮影よりも能率良く進み、ツナギは人垣に阻まれて進むこともできなくなっていた。
仕方がなく、先にエレベーターに乗り込もうとしても、どうにもうまく並べない。
「うぅ、こんなはずじゃ――ああっ」
キャップがずれて訂正して、またチャンスを逃す。既に息が上がり始めているのは、きっと早朝から動いていたのが原因だと、ツナギは一生懸命自分に言い聞かせた。
――天望デッキ――
ガラス床で怯む子役。一緒に、余裕の表情でガラス板に乗る霧谷桜架。高所が好きでも嫌いでもないツナギは、積極的にガラス床に突撃できるほど高所が得意でもなかった。
(なんとか、近くまで……)
警備が厳重とは言え、子供はそこまで警戒されていないのだろう。なんとかくぐり抜けたのは良いのだが、かといって直ぐ近づけるほど、ツナギの肝は太くなかった。
やっと子役たちがガラスから降りたので、慌てて追いかけようとする。だが、その手を阻んだのは、スカイツリー常駐のスタッフだった。
「お嬢さん、こわいのなら一緒に乗ってみましょうか? どうぞ」
「へ、ぁ、え」
何度も乗ろうとして、何度も躊躇ったように見えたのだろう。ツナギは数秒これに逡巡し、周囲の視線に気がつき、内心の不満を押し殺して頷いた。
「…………はい」
ここで怪しまれたり、騒ぎを起こすわけにも行かないのだ。ツナギはただ、震えながら、ガラス床を踏みしめることになったのだった。
――天望回廊――
結局カフェでも近づけず、また、後手に回っている内に人垣の後ろまで来てしまった。最早、この人垣を越えて乱入するのは難しいだろう。
(こんなはずじゃなかったのに……!)
ツナギは下唇を噛みながら、憎々しげに撮影風景を見る。この様子では、保険を仕込むために近づくこともままならないだろう。
保険すらもどうにもならなかったら失敗だ。失敗、という、あり得ないとすら思っていた未来があっけなく目の前に差し出され、ツナギは焦りと不安で苛立っていた。
(どうする、どうする、どうする)
撮影が終わったら、なにもかも終わりだ。チケット代だけ無駄にして、貴重な機会を失うことになる。
(いっそ、空でも飛んでいけたら――ぁ)
ツナギはふと、保険をポケットから取り出した。どうにもならないように思えたが、まだ、神はツナギのことを見捨ててはいなかったのだろう。
ツナギは慌てて保険――チラシで紙飛行機を飛ばすと、それはツナギの計算どおりに視線の波をくぐり抜けて、子役の手に収まった。
(よし!)
ここまで来たら、あとは運を天に任せるだけだ。踵を返して走り出す。人混みを越えて向かうのは、最後の“保険”の場所だ。もう、これで乗ってこなかったら、それで終わりだ。
ツナギはそう、内心の不安を押し殺して次の場所へ向かう。
(お願い、かかって)
ただ、そう祈るように、ツナギはこの場から立ち去った。