scene4
――4――
ガラス床に怯み、人混みに怯み、驚きすぎてちょっと疲れ始めてきた頃、施設内のカフェで休憩となった。とはいえ、食事スタートまでは撮影を行い、途中で編集が入るので一度カメラを止めて、スタッフさんたちが映像チェックを行いながらのんびり食事を楽しむ……という流れにするようだ。
昼食ならレストランでも良いのでは? と思ったのだけれど、レストランは基本的に高級フレンチらしい。縁がない……といいたいところだけれど、うちで普段から食べている食事は値段にするとどうなっちゃうんだろう。……うん、考えないようにしよう、かな。
「好きな物を注文して良いそうよ」
絶景の席に腰掛けて、やっと一息。桜架さんがそう促してくれるので、凛ちゃんと肩を寄せ合ってメニューを見る。ぎゅむ、と擬音を口ずさみながら頬を寄せる凛ちゃんの体温が妙にくすぐったくって、私もついつい笑い声が零れてしまった。
商品の注文と受け取りはカウンターで行うのだけれど、そこはスタッフさんがやってくれるようだ。一般の方も居るのに、カウンターを占領するわけにはいかないものね。
「カレーライスがかわいいけど、ハンバーグがたべたい」
「トッピングもあるよ、りんちゃん」
「そんなにたべきれない」
「なら、りんちゃんがハンバーグプレートで、わたしがカレーはどう?」
「いいの?」
首をかしげる凛ちゃんに、私は、「私もカレーが食べたかった」と伝えてから、頷いた。
「うん、もちろん」
「ありがとう! さすがシンユウだ!」
桜架さんはミックスサンドイッチか。ううむ、スマートな大人だ。私の死に際ってこんなに落ち着いていたかな? 自信ないなぁ。もっとこう、心が幼かった気がする。胸が痛い。
料理の待ち時間の間は、雑談タイムだ。使うか使わないかは今後の撮れ高次第だけれど、一応、ここの雑談もカメラを回すようだ。カンペには「桜架さんに聞きたいことはある?」と書かれている。聞きたいこと、かぁ、そうだなぁ。
「おししょーは、どうして役しゃになろうと思ったんですか?」
悩んでいる間に、凛ちゃんが聞いてくれた。でも、さくらちゃんの理由って確か――
「成り行き、かなぁ」
「え?」
「中途半端な気持ちで役者になって、それから、本気で役者をやりたいと思ったの」
――大女優、式峰梅子といえば年間を通して放映される時代劇ドラマで有名な役者だった。当時、自身の売名の道具として芸能界に放り込まれたさくらちゃんは、身に余るほどの才能で周囲を圧倒し、それが原因で妬まれ、心を閉ざしていた。
そんなときに出会ったのが私なのだが、それは今は置いておこう。当時のさくらちゃんは稀代の天才子役と謳われ、ついには式峰梅子すら圧倒する実力を見せつけた。そのことにより、式峰梅子は家に帰らなくなり、金銭と住居だけ手配して育児放棄をするようになった。私自身身寄りがなく、自宅に寄りつかないものだからどうやって助けようかと悩んでいる間に、鶫時代の親友の閏宇が式峰梅子と交渉して、彼女の家に預けられるようになったのだけれど……確かそれは、さくらちゃんが八歳のときのことだ。
「どうして、ほんきでやろうと思ったんですか?」
凛ちゃんが首をかしげて聞くと、桜架さんはどこか懐かしそうに微笑む。
「憧れた人がいたの。その人みたいに、人の心を動かす役者になりたいって思った。だから私は、デビューしてから本当の意味で役者になったのよ」
頬杖をつき、水の入ったグラスを揺らす。氷が回って、鮮やかな青空を呑み込んだ雫が机に落ちると、桜架さんの懐かしげな表情が寂しげな微笑みへ移ろいでいた。なにか、言わないと。そう逸る心が惑う。
桐王鶫が死んで、二十年間戦い続けてきた霧谷桜架という女優に、まだあの日の夢の残滓を追いかけているだけの私が言える言葉など、あるのだろうか、と。
鼓動が、胸を突き破ってしまいそうだった。
「その人が旅立って、私は進むべき道に迷ったわ。でも、色んな人が支えてくれたから、もう一度、夢を見ることができた。だから、私がここにいるのは、みんなのおかげよ」
そうやってカンヌの舞台に立ったのだろう。こうやって今に至る大女優になったのだろう。その道が優しさによって支えられていたのなら、それを受け入れられるだけの心を、彼女が得ることができていたというのなら、それ以上のことはない。
桐王鶫は、もうさくらちゃんにかけられる言葉はない。資格もない。けれどそんな風に思わなくたって、彼女はちゃんと自分で選んで、辿り着いてきたのだ。
「……注文の料理が届いたみたいね」
「お、やった! おししょー、ありがとうございました。その、おししょーのおはなしきけて、うれしかったです」
「わたしも! わたしも、おうかさんのおはなしがきけて、良かったです」
そう、と、良かった、と、桜架さんはまた優しげに微笑む。こんな表情ができるようになったんだね。そう思えば、胸が温かくなるようだった。
「では、食後は私の憧れの人編にはいるから、しっかり食べましょうね」
「おおっ、おししょーのおししょーだ!」
えっ。
えっ、ほんとに?
動揺を押し隠すように、精一杯の食レポに入る。いったい私は、これから何を聞かされるのだろう? そう思うと、なんだか背筋に冷たい汗が流れるような気がした。
食事を終え、冷たい飲み物で一息。この間はカメラも止まって、私たちも休憩だ。肩の力を抜けるなぁ、なんて考えていたけれど、今はそうもいかない。
なんでか妙に得意げで、かつ楽しげな桜架さんが、わくわくする凛ちゃんとげんなりする(表面上は凛ちゃんと変わらないけれど)私の前で、よりにもよって“桐王鶫”のお話をしようというのだから。
「私の憧れの人、桐王鶫について、二人は何か知っている?」
「はい! “りゅうのはか”のあくりょー!」
「えっと、ホラーじょゆう、ですよね?」
「ふふ。二人とも正解。花丸をあげましょう」
桜架さんは指先で丸を書くと、より機嫌を良くして微笑んだ。それから、「それでは、補足するわね」と一言置いて、言葉を続ける。
「桐王鶫。一九七〇年七月二七日生まれ。好きな物はホラー映画、好きな食べ物は青魚、嫌いな食べ物は特になし。嫌いな物は努力を踏みにじる人。二〇〇〇年にこの世を去るまで多くのホラー作品に出演しその名を刻んだ、ホラー界のレジェンド。絹のように艶やかな黒髪と宵闇のように深く美しい黒眼に魅せられた人間は、その心を深淵に引きずり込んでしまうと謳われたほどの、美しく怜悧でありながら慈愛に満ちた最高の大女優よ」
ノンストップだった。なんだったらノンブレスだった。一息で言い切った桜架さんの姿に、思わず引いてしまう。ちょっと待って、私、そんなにすごかったかな? 死人に口なしなのを良いことに、盛ってないかな? 盛ってるよね?
饒舌に喋る桜架さんを止める人間はいない。一部のスタッフには、顔に“また始まったよ”とありありと書かれているかのようだった。余所でもしているの? なにゆえ……。
「おおー、すごい! こわいひとなのかとおもってた!」
「素敵な方だったわ。子供の私を、対等に見てくれる人だった。優しくて強くて破天荒で――少し、抜けていることもあったわね。その人間味があの方をさらに魅力的にしていた、なんてことは、最近になってやっと思い出したのだけれど」
桐王鶫は決して完璧な人間ではなかった。それは、私の認識とも変わらない。けれど、桜架さんから見た桐王鶫とは、どんな人間だったのだろうか。完璧な女優であるかのように語っていたはずの桜架さんが、僅かに目を伏せる。
かつての桐王鶫。かつてのさくら。今の私は、彼女にとってどう映っているのだろうか。願わくば、前世の私があの日の“さくらちゃん”にとってプラスであったのなら、それ以上のことはきっとない。
ない、のに。
「お酒を飲み過ぎてベンチで寝ようとする鶫さんを止めたこともあった。貧乏時代に段ボールに醤油をつけて食べようとした、といって再現しようとする鶫さんを止めたこともあった。天井に張り付く練習を控え室でやって、柿沼さんが鬼の形相で説教したこともあった。私も、賞味期限は過ぎてからが本番といった鶫さんをお説教したこともあった」
え、あ、へ?
なんだかちょっと、雲行きが怪しいのですけれど!?
「これで行こうと決めたら妙ちきりんな手段でも実行してしまう人だった。路上喧嘩の仲裁にホラー演技で割って入って喧嘩中の二人を泣かせる人だった。誕生日プレゼントと称して人間の入る段ボールを送りつけて、どうせ鶫さんが入っているのだろうと開けようとしたら、配達員が扮装した鶫さんというセルフドッキリに腰を抜かしそうになったこともあった」
顔に熱が集まるのを、必死の演技で収める。現代には過去の恥ずかしい失態のことを、“黒歴史”と呼ぶ習慣があるそうだ。まさしく今、私は公衆の面前で歴史を暴かれている。こう、ちょっと、こんな展開になるなんて予想していなかったのだけれど!?
「おなじ名まえだけど、つぐみとぜんぜんちがうな」
「うんそうだねそうだよね」
「? うん」
凛ちゃんの言葉に高速で頷く。そう、そうなんだよ、いやー全然ちがうよね。わかるわかる。落ち着いた、ということでお許し願えないでしょうか?
「全部が全部、ドタバタで肝を冷やして、それでいて星空のようにきらめいていた、楽しい思い出。私の、大切な宝箱。鶫さんからのプレゼントよ」
「おうかさん……」
優しい顔だ。思わず、周囲で見ていたスタッフさんたちも、息を呑むほどの。彼らも、見蕩れていた自分に気がついて、慌てて仕事に戻るほど、魅力的な表情だった。
そう、まるで、遠く離れた恋人を思う、大人の女性のような、そんな甘く切なく慈愛に満ちた微笑みだ。
「ふふ、プレゼントと言えば、サンタクロースの扮装もしていたわね。あらゆる手段を講じて侵入してくるから、お説教したわ。危ないです! ってね」
うん、そんなこともあったなぁ。あれでも、そう、確か。
「おせっきょうはよく年で、さいしょはきおくがトんだから、サンタクロースを見るだけでひめいを上げる日々で――」
なんだったら、赤い服を見るだけで、悲鳴を上げて私に飛びついてきたんだよね。懐かしいなぁ。翌年、今度はもう少しマイルドにしようと思って最初からクローゼットに忍び込んでたんだけれど、今度こそ正体が発覚するんだよね。それで、去年の記憶を思い出すって言う流れだった。
あのときのさくらちゃんは、それはもう恐可愛かったなぁ。般若のような表情で正座させられたからね、私。
なんて、感慨にふけっていると、不意に視線を感じた。
まっすぐに、それこそ幽霊でも見るように私を見る桜架さんの姿。
ん、いや、ちょっと待って。私は今、彼女になんといった?
「どうして、つぐみちゃんがそれを知っているの?」
あ。