scene3
――3――
隅田川を臨む隅田公園から流れる北十間川を、延々と歩いてみたことがある。
その日は確か隅田川で仕事をして、地元の方とお話ししていたら、北十間川から荒川につながっていると聞いたので仕事後に立ち寄ってみたのだ。ただこれが想定以上に距離があり、荒川どころか途中の中川に到着するのだってけっこうな体力がいると知り、撮影後の疲労感もあって、結局、押上の商店街で一杯引っかけてしまった記憶がある。
押上という街はこれが中々人情味溢れる商店街で、はしご酒の度に友達が増えていったのは良い思い出だ。確か、女優をやっていると言って、サイン色紙を飾った店もあったと思う。「きりおうつぐみぃ? しらねぇーなぁー!」とか言いながらも飾ってくれたおっちゃんは、まだご存命だろうか。
そうそう、押上商店街を墨田区側に歩くと、業平橋の下にできたばかりの公園があって、小さな劇を見ながらワンカップを傾けたこともあったっけ。その劇があまりにも情熱に満ちていたから、ついつい通ってしまった時期もある。懐かしいなぁ。
そんな、なんだかんで記憶をひっくり返せば思い出が溢れてくる街、だったのだけれど。
「ふぇぇ」
「つぐみ、口、はんびらきだぞ」
「むぐ」
整備された近未来的な町並みと、面影皆無の駅回り。ロケバスから降りたとき、どこだかわからなかったほど、私の記憶とは異次元方向に進化している。
けれどなにより、なにより、気になるのは、空を突き抜けて聳える白い塔。まるでそう、これ以上積み上げたら意思疎通能力をバラバラにされそうな、無慈悲な巨塔が私たちを見下ろしていた。なにこれこわい。
「つぐみちゃん、大丈夫?」
「はひ」
え、だって二十年だよ。たった二十年でこんなもの完成するの? 東京タワーでもけっこう怖かったんだけれど、女優スイッチ入れずにこれを登るの?
「ということで、正解は、東京スカイツリーでした。凛はわかった?」
「はい、おししょー!」
東京スカイツリー。それが、この塔の名前であるらしい。まさしく空にそびえる樹、だ。駅構内から直通で入れるらしいけれど、今日は地上からゆっくり向かう。
さくらちゃん――いや、変なぼろが出ても困る。頭の中でも桜架さんと呼んでおこう。そう、桜架さんと私たちが並ぶ形で綺麗に整備された道路を歩く。話題のお菓子屋さんなんかを冷やかしつつ、話題は雑談にシフトしていく。
「今日はおそろいのコーディネートなのかしら?」
「はい。つぐみのスタイリストさんが、つぐみの好きなもので合わせてくれました」
「つぐみちゃんの好きな物?」
「あ、わたし、カエルとヘビとカラスが好きなんです」
「へぇ、そうなん、だ?」
あ、しまった、普通に答えてしまった。あんまり普通ではないようだからね、私の好みって。いや、母も私と趣味が合うのだけれど。母の私物の中で、とても上品な万年筆に美しいヘビが巻き付いているような柄が施されているのを、見たことがある。
桜架さんは一瞬返答に詰まった物の、なんとか持ち直して返事をしてくれた。変な子供で申し訳ない。
「わたしも、つぐみにつきあってるうちに、カラスがかわいく見えてきた」
「えー、カラスは“カッコイイ”、だよ」
私たちが会話に花を咲かせる中、桜架さんはちょっと口元を引きつらせていた。カメラさんたちは微笑ましそうに見ているからセーフ、かな。
駅からぐるりと建物周辺を歩いて、ついにスカイツリー内部への侵入を開始する。チケットは既に買ってあるので、このまま上に登っていくような形だ。
ただ直ぐには登らず、桜架さんがパネルを持ってスカイツリークイズをしてくれる、という進行だ。放映日は七月になるようだから、夏休みに訪れる子供たちへの情報提供の意味もあるのだろう。
「はい、それでは東京スカイツリーがいつできたのか、知っているかしら?」
「えーと、りんちゃん、わかる?」
「じゅ、十ねんくらい前、ですか? おししょー」
凛ちゃんも自信なさげだが、私にとっては完全に未知の建造物だ。少なくとも、二十年よりは新しい、よね?
「惜しい! 正解は、平成二十四年。八年前に観光施設としてオープンしたのよ」
「八ねん前……兄が、五さいのときだ!」
「こーくんが基じゅんなんだね、りんちゃん」
「あら、つぐみちゃんは夜旗虹君とも仲が良いの?」
そういえば外で誰と親しい云々を深く話したことはなかった。未就学児だからね。保育園なんかにも通っていないから、交友範囲が狭いのは致し方がない。
桜架さんを見上げると、彼女は首をかしげつつ私に柔らかな視線を落としてくれている。年齢差があろうと目を見てくれる姿勢は、子供の身としては嬉しく思う。当時の“さくらちゃん”もこんな風に私を見てくれていたのかも知れないと、そう思うと、なんだかむずがゆかった。
「はい。りんちゃんの家にあそびにいくと、ときどき、こーくんがあそんでくれるんです」
「そうなんだ。どんな遊びをしているの?」
「そっきょうげきです。ふふ、りんちゃんがカメラマンで、じゅりあちゃんとみみちゃんがお客さまなんですよ」
「そうなのね。今度、お姉さんにも見せてくれるかしら?」
「はい!」
即興劇、というと、桜架さんは楽しげに目を輝かせる。こういった番組に出ていても、やっぱり根っこは役者なのだろう。そういえば、今世では一度も霧谷桜架という女優の演技を見ていない。一度、じっくり鑑賞してみたいな。
それから、いくつか出題が繰り返されていく。全長六三四メートル。五階まで通常フロアで、天望デッキ、天望回廊とフロアが分かれているらしい。
富士山の山頂から雲海を眺めたことならあるけれど、ぜんぜん違う感じなのだろう。まずは天望デッキで空を見て、それからどんどん上に登っていくようだ。
「では、出発しましょう」
「おー!」
「お、おー」
スタッフさん方も最低人数でエレベーターに乗り込み、上がっていく。外は見えないタイプのエレベーターだけれど、もっと上に行くのは見えるらしい。そして、その天望デッキですら東京タワーの特別展望台よりも高いのだとか。
元気にエレベーターに乗り込んだ凛ちゃんと違い、ちょっとだけ、尻すぼみになる。思えば、私は演技抜きでこんな高いところに来たことがあっただろうか。東京タワーはプライベートで行ったのだけれど、あれだって最初は撮影だ。
「さ、到着よ」
桜架さんの言葉で、天望デッキに到着したことがわかる。どうしよう、ちょっと怖じ気づいてきたかもしれない。
「おおー、すごいぞ、つぐみ、きれいだ!」
「あわわわ……」
興奮した様子の凛ちゃんに手を引かれ、スタッフさんの人員整理で空いた場所を進む。なんとなく目を閉じてしまったけれど、凛ちゃんに「ほら」と促されては、目を開けないわけにはいかなかった。
「わぁ……」
雄大な空。透き通った視界。そして、根源から沸き立つような生理的な恐怖。どうしてこの感覚を忘れていたのだろう。恐怖を楽しむことすらも忘れてしまえば、恐怖で人を楽しませることなんてできやしない。
怖がらなくてもいい。怖いということは、楽しいということでもあるんだから。恐怖と向き合うことは、辛いことばかりではない。呑み込んでしまえば良いのだと、わたし自身に、言い聞かせるように。
「おうかさん、あれはなんですか?」
「あれは――」
桜架さん、私、凛ちゃん。みんなで天望デッキを巡っていく。もう、さっきまで感じていた不安はなくなっていた。
――/――
スカイツリーが東京のシンボルとなって、どの程度の月日が流れたのだろうか。可能なら、初弟子との初ロケは鶫さんが好きだった東京タワーに行きたかったのだけれど、凛に迷惑をかけてしまうから、今しばらくはイメージダウンにつながるような失態はしたくない。
私の目の前で会話を楽しむ二人を見る。一方は、私の弟子となった少女、凛。もう一方は、オーディションで凛と競い合った少女、つぐみちゃん。白と黒、光と闇、まるで対照的な二人は、あの日の私と鶫さんのようにも見えた。
「すごい、雲のうごきが見える!」
「ほんとだね、りんちゃん。あ、カラスだ」
「……え、よく見えるな、つぐみ」
カメラの前だと言うことも忘れて、楽しそうにじゃれ合う二人の様子は微笑ましい。遠巻きに見る一般の方々も、実に和んだ表情で私たちを見ていた。
スタッフさんたちも同様にそのような様子であったし、私もまた、二人のそんな様子を見るのは楽しい。
けれど、一つだけ、理不尽な文句をつけさせて貰うのなら。
「カラスはかっこういいから、すぐわかるよ」
「なるほど……?」
これはどうにかならないのだろうか。
「つぐみちゃん、窓の近くは怖くないかしら?」
「いえ! こわいって、たのしいです!」
「そう、なのね」
恐怖を楽しむ感覚。
カラスとヘビはまだしも、か、か……あの緑色の悪魔を可愛いと言い切る感性。
子供らしからぬ演技については人のことを言えないので置いておくとしても、散見されるこれらの“鶫さん”っぽさはなんなのだろうか?
あり得ないとは思うけれど、こう、魂とかが生まれ変わって、鶫さんの意識や意思はなくとも似たような感覚を持っています、とか言われてしまったらどうしよう。そんな風に考えさせられるこの子の言動に、ずっと、ドキドキとさせられていた。
(深淵から根強く見守ってくれている鶫さん。どうか、そんな訳がないと笑ってくれませんか?)
生まれ変わりなんていうファンタジーはあり得ない。そして、尊敬する心は持ち続けても、縋りはしないと決めたばかりなのだ。その誓いを破る気は毛頭ない。なにより、私自身の傲慢で振り回した、可愛い弟子のためにも。
ただ、こう、だからこそ揺さぶるのはやめて欲しいのだけれど、それが理不尽な願いであるということも、重々承知していることだ。彼女はただ、友達との初めての街ぶらロケに興奮しているだけの、無邪気な少女なのだから。
それに。
「ほら、つぐみ、ガラス床」
「えっ、あ、まって」
凛が先にガラス床に乗り、つぐみちゃんを手招きする。さすがにガラス床は躊躇うのか、つぐみちゃんは踏み出すのを躊躇っていた。
「あの、おうかさん」
おそるおそる。そんな様子で私を見上げるつぐみちゃん。スカイツリーから見える青空よりも鮮やかな瞳が、躊躇うように揺れていた。
「手をにぎってもらっても、良いですか?」
「――ええ、もちろん」
そう、それに、だ。鶫さんはこんな殊勝で可愛いことは言わない。それだけは断言できる。
つぐみちゃんの手を握って、安心させてあげる。これでもう大丈夫――ちょっと待って、これってもしかして私も一緒に乗る流れ? 待って、私もあまり高いところが得意というわけではな……あっ。
「おうかさん?」
「――――――――――良い眺めね」
「はいっ、のってみると、たのしいです!」
本当に、ええ、もう、どうにでもなって。
そんな感想と一緒に、胸中に湧き上がるのは“幸先が不安”という五文字。
どうにか私の演技が剥がれないよう、無事に撮影が終わりますように。
私はただ胸の中で、深淵の鶫さんにそう願った。