scene6
――6――
声。
間。
仕草。
身振り。
ブレス。
台詞回し。
「わぁお、思ったより高度」
「静かに」
思わず、といった様子で声を上げるツナギに注意をする。思わず被った猫が逃げ出す程度には、オレは苛々していた。だってそうだろ? さっきからずっと、凛の演技から凛が抜け落ちている。
まったくそいつらしさがない演技が欲しいなら、個性のない人間でも育てれば良い。少なくとも、なんでうちの妹でやらせるんだ。
「完全に、死を悟りながらも友達を気遣う主人公だねぇ。虹君はどう思う?」
「そうだな。負けるなら、さっさと負ければ良い」
「そう? なんだか凛ちゃん、どんどんブラッシュアップされているように見えるけど」
「ちっ」
わかってる。つぐみの演技がとがればとがるほど、凛の演技も鋭くなっていく。同時に、凛らしさ――それは弱さであったり、不器用さであったり、表情の奥に宿る意思こそが、あいつの魅力だってのに、それが抜け落ちていく。
「家族が待ってるわ。死にゆく人間よりも、生きている人を大事にして」
「あなた以上に、大切な―ッ―ひとなんていない!」
声が響く。ほんとうに、つぐみ以外の全部を切り捨ててしまったかのような声だ。髪を振り乱し、凛はつぐみに近づく。もう、この後の展開は見えているようなモノだ。つぐみは、認めがたいが天才だ。しかも窮地になれば強くなる。どうなってんだ。
「なるほど。あれじゃ最後まで、駄々っ子のまま終わるね。あと五年も経てば凛ちゃんが上回りそうだけどね。つぐみちゃん、なんだか完成されてるし」
そう、このままだと、未来はともかく今はつぐみが上回るだろう。けど、凛はあの様子じゃ、オーバースペックでどうなるかわからない。それこそ、オレたちの知らない凛になっちまうかもしれない。
そうなれば、この一瞬だけ、きっとつぐみを上回る。凛の全部を薪にして、煌々と燃え上がる。痕に残るのは燃えかすだけだ。凛は炎の巨人になって、凛だったモノは灰になって消える。
(だったら、どうすりゃいいんだ)
負けてくださいって祈るのか? 真剣に、演技に没頭してるのに。夢のために、誰だって全力なのに。ああ、でも、それでもオレは。
「あ」
「は?」
ツナギの奇妙な声に、首をかしげる。それからやっと、声の意味に気がついた。
「そう、なら、凛――あなたが、代わってくれるの?」
空気が変わる。思わず口元を押さえて隣を見れば、ツナギも口を引きつらせていた。
たった一言。たった一言だ。低められたトーン。感情を消した表情。ここからでは見えない瞳には、なにが映っているのか。
握りしめ、震える拳が物語っているかのようだ。
「毎日のように洗面所を真っ赤に染めて」
無感動。
当たり前の日常を叫ぶように。
「毎日のように急激に変化する体温に青ざめて」
無表情。
慣れた日々を語るように。
「毎日のように眠ることを怖がって、毎日のように苦痛が続く朝を憎んで」
無情。
痛みをこらえるように。
「それでも毎日毎日毎日毎日いつ何時だって!!」
凛の襟を両手で掴んで引き寄せる。憤怒の表情。荒げた声。落ち着いた姉から、相手を気遣う優しい友になり、すべてが抜け落ちて、けれど、ああ、わかる。
憎いんだ。とても許容できるモノじゃないんだ。主人公なんて大仰な仮面は剥がれ落ちた。今あそこで凛に対峙しているのは、主役に立ち塞がる壁なんだ。これを乗り越えないとならないと、告げているんだ。
「また、朝が来たって喜ぶ惨めな自分が、なによりも憎い! そんな毎日を過ごすことを、代わってくれるとでもいうのかしら!? 答えて。答えなさいよ、ねぇ!!」
凛を揺らし、叫ぶ。病気でそれすらも負担なのだろう。喉を押さえて咳き込み。それでも睨むのはやめない。でも、そうだ。凛だけを見ているんだ。脇目も振らず、凛だけを見ている。
「くるしそう」
ツナギの言葉が、まるでこの場に居る誰もが感じていることかのようだった。苦しそうだ。でも、病気で苦しいだけじゃないんだ。だってそうじゃなかったら、凛に会いに来る訳がない。
「でも、きっと」
「うん。たすけてほしいんだ」
今度はオレのつぶやきに、ツナギが頷くように答える。そうだ、助けて欲しいんだ。だからあんなに、泣きそうな顔で手を伸ばしているんだ。
「代われない」
凛は、ぎゅっと唇を結び、揺れる言葉を呟いた。必死なんだ。声が震えるほど必死で、どうしたら、つぐみを守れるのか考えている。
「ふ、ふふ、なによそれ、だったら」
「でも、一人にはさせない」
「え……?」
凛は、ふらふらと歩み寄り、つぐみを抱きしめる。優しく、ぽんぽんと背をさすりながら。
「つぐみがいつも、一人で抱えているのは知ってるよ。苦しいことも辛いことも、全部一人で抱えてる。私はいつだって、つぐみにとっては妹のような存在で、頼って甘えてばかりだった。そうすれば、つぐみに喜んでもらえるって知ってたから、そうしてた」
凛の顔からも表情が消える。まるでさっきまでとりついていた誰かが、空気に溶けて消えていくかのようだった。
「でも、妹分はもう終わり。最後の最後の瞬間まで、つぐみがもう苦しくないよって笑ってくれるまで、私はずっとつぐみの側に居る」
「なん、で、そこまで」
「私が、つぐみの親友だから」
微笑み。ああ、凛のあんな透明な微笑みを、果たして見たことがあっただろうか。オレは、あいつにあんな表情をさせられたことがあっただろうか。
凛は本当につぐみが大切で、だからこそつぐみの心を動かした。本当の本当に、心の底から思っているから伝わった。だから、狂気に囚われていたつぐみの表情に、年相応の涙が落ちるんだ。
「だから、ずっと一緒に居よう?」
「っ、凛、わ、わたし、わたし――ぁ、ぁぁ、ぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
凛の腕の中で、縋り付くように――あるいは、赤子のように泣く。その頭を凛はただ、微笑みを浮かべたまま、優しく撫で続けた。
『ぇ、ぁ、は、は、すいません、終了、審査終了です!!』
放送室から、声優の滝田音色の声が響く。おそらく同僚に小突かれでもしたのだろう。
静まりかえる舞台。一人の男性が腰を上げて拍手を始めた。やがてそれが波のように広がり、一人、やがて二人と立ち上がり、オレもツナギも腰を上げて拍手をする。
スタンディングオベーション。全員が立ち上がって拍手を送る、役者に対する最大限の賛辞だ。それを受けて、二人は泣きはらした目を隠しもせず、手をつないで頭を下げた。
(まぁ、丸く収まったんなら良かった、が)
頭を下げ、はけていく二人。笑い合う様子に、さっきまでの気まずさは見あたらない。そのことが、なんでかオレまで嬉しかった……ような、気がする。
「すてきだなぁ。うらやましい、かも」
「友達とかいないのか? ツナ――じゃない、鶫」
「いるよ? ブラウン管の向こう側に、いーっぱい」
「ブラウン管ってばばくさいな」
「あ、ひどい」
まばらに拍手が鳴り止むと、学生がオレたちの手から“主役だと思った方”の紙を回収する。その間、ぼんやりとつま先を見つめるツナギが目に入った。
「なに辛気くさい顔してんだ」
「虹君、猫、逃げちゃったの?」
「あ? ――ダチの前じゃ、猫は被らないんだよ」
「え? ――あ、はははっ、そっか。うん、そっか、友達か」
キャップの上から頭を撫で繰り回してやると、ツナギはあわあわと悲鳴を上げて、頬を膨らませる。そうしていた方がガキっぽくて、やりやすい。なーんか放っておけないんだよな、こういうやつって。
「レイン、交換しよ」
「はいはい」
「えへへ。友達の連絡先だ」
「“ブラウン管の向こうの友達”はどうした?」
「あ、そうやってイジワル言うんだ。女の子にモテないよ」
「はっ、残念だったな。オレはモテるぞ。天才だからな」
「うわぁ、引くわ……」
生意気なことを言うツナギの額を小突いていると、不意に、一言もの申してやろうと思っていた人間の背が見えた。今を逃したら、いつになるかわからない。追いかけるか。
「おい、ツナギ」
「あ、またそうやって」
「五百円やる」
こういうやつは、ぜったいあとでうじうじするに決まってる。だから、多少は気を遣ってやらないとならない。
「え? は?」
「オレはもう用事があるからもう行く。それで菓子でも買え」
「五百円くらい、私だって」
「――次、会ったときに返せよ。じゃ」
「次……ぁ。ふ、ふふ、ははははははっ、うん、しょうがないなぁ。わかったよ」
ツナギに手を振って別れる。まだ見逃しては居ないと思うが……お、いた。
黒髪に絶妙に整った顔。オレの越えるべき壁であり倒すべき敵、霧谷桜架だ。皆内蘭と一緒に、舞台の端で並んでいる。格上だろうが何だろうが、家族を泣かせたんだったら一言あっても良いだろうさ。
そう思って背中側から近づいて。
「鶫さんが見たら、どう思うかしら」
聞こえてきた、聞き覚えのある声に、思わず身を隠した。
――/――
冷たい棺桶の中、たくさんの思い出と仏花と、それから鶫さんの好きだった椿の花。彼女を燃えさかる炎の中へ送り出したとき、ただ私は、現実味のない虚しさを言葉にすることもできず、呆然と見送った。
あの日のことを思い出す。あの日、言えなかった言葉を思い出す。あの日、言ってくれなかった言葉を、突きつけられているかのようだった。
『さようなら』
私がもしそう言われたら、どう返していたのだろう。いいや、きっと私なら、みっともなく縋り付いて、他の全部を切り捨てて、あなたのあとを追おうとしたことでしょう。
『あなた以上に、大切な―ッ―ひとなんていない!』
突きつけられる。凛は、私の生徒は、鶫さんではない。あの子は、私だ。
あの日、別れすら言えず、鶫さんの元へ行くことすらできず、夢も目標も見失った私だ。きっとこの物語の結末は、あの子の勝利に終わることだろう。だってあの子はかつての鶫さんのように、凛を救おうとしているのだから。
なのに。
それなのに。
勝てるというのに。
名を売る大きな機会だというのに。
「なん、で……?」
何故、あの子はそれを選ぶことができたの?
それではまるで、あの子こそが。誰よりも優しく強い、脇役であったあの人のような――脇役?
「そうだ。何故、忘れていたのかしら」
いつだって鶫さんは、誰かの支えで、敵で、過去で。
いつだって鶫さんは、私たちを怖がらせる、私たちの優しい悪霊であった、はずなのに。
私は、どこから、間違えていた……?
いいえ、それなら、私は何を目指していたというのだろうか。
『おししょー、どうですか? じょうずにできましたか?』
私を師と呼ぶ、鶫さんにとってきっと“さくら”のようであった凛と、向き合えていた?
「ふ、ふふ――鶫さんが見たら、どう思うかしら」
軽蔑? 憤怒? 憎悪?
いいえ、答えはわかっている。
きっと鶫さんのことだもの。優しく私を諭して、凛へのフォローもして、そして。
二度と私を、“対等”に見てはくれなくなるのだ。
「どう、とは?」
いつの間にか、人はまばらになっていた。我に返り振り向くと、姪の蘭が首をかしげていた。その姿に苦笑して、どうにか、自分を取り戻す。
なんて、無様。
「鶫さんだったらどうしたかな? って思ったら、わからなくなってしまったわ」
凛とあの子の演技のことを思い出す。ただただ互いに競い合う、純粋な熱を感じる演技だった。凛は演技の中でどんどん成長していった。未熟だった自分を削り、完成された己になるための演技だ。これでより高みに至れば、頂に近づけば、鶫さんのような役者を世に送り出すことができると信じさせてくれる程度には、めざましい成長を見せてくれた。
けれど、不思議だ。蘭の推薦したあの子もまた天才だった。勝負には負けてしまうかも知れない。それでも、この勝負そのものが成長になったから良いと思った。
あの子の演技を、見るまでは。
『そう、なら、凛――あなたが、代わってくれるの?』
あの台詞。あの表情。あれほどの演技ができる子ならわかるはずだ。それは、主役には相応しくないと。それなのにあの子は、敵役になることを選択した。脇役になることを選び取った。
大舞台で名を売り活躍することよりも、大切なモノがあったから。それはきっと――あの子にとっての凛が、かつての小さなさくらにとっての、鶫さんであったかのような。
「あの子は脇役だった。でも、とても個性を大事にした演技にした。けれど私が指導した結果は、あの子と比べるとどこかちぐはぐな、機械のような演技だったわ。鶫さんだったらきっと、あの子のような演技ができる子供を連れてきたのかなって」
調査によれば、同じく友人関係にある朝代珠里阿とホラー映画を見ることもあるらしい。朝代珠里阿のインタビュー記事に書かれていたことだ、嘘ではないだろう。ということはもしかしたら、あの子の演技の師匠は、今はもう画面の中でしか見られなくなった、鶫さんなのかもしれない。
たくさんの役者希望の人間が、鶫さんの演技を師のように仰いだことだろう。きっと、蘭の見つけてきた空星つぐみという少女は、そういった人間の一人なのかも知れない。
もしも、生まれ変わりというモノがあるのなら――いいえ、これは鶫さんへの侮辱だわ。だって鶫さんは、ふふ、今も深淵から根強く応援してくれているのだから。
「こんなていたらくじゃ、鶫さんに怒られてしまうわね」
「優しく平等な方だったと聞いていますが……」
優しい方だった。でも、平等は優しさではない。ひとたび庇護対象に見られてしまえば、対等な立場に戻ることは至難の業だ。努力をやめて落ちぶれる人間にも、鶫さんは優しかった。でも、その優しさは、厳しさの表れでもあった。
そんなことすら忘れてしまっていた自分に、思わず自嘲してしまう。
「そうね。でも、平等は厳しさでもあるわ。――それすらも忘れて、記憶に縋って、ふふ、きっと美化していたのよ。ずっと気づかなかった。気づこうとしなかった。もう少し私がお馬鹿さんなら、盲目的に夢を見ていられたのだろうけれど……現実主義の脳みそが、今は少し恨めしいわね」
今、冷静になって思い返せばわかる。鶫さんは完璧な人間ではなかった。役柄にはストイックだったけど意外と私生活はずぼらで、なんでもかんでも炒飯にすれば時短で栄養豊富と言って閏宇さんに怒られたり、怖がらせると決めたら慈悲なく怖がらせてきたり、獣道を軽自動車で爆走して出勤して、珠美さんを怒らせたり、お酒弱いのに、私に肩を借りるほど酔っ払ってしまったり。
そんな弱いところも、人間らしいところも、演技が上手でストイックなところも、なにかと平等なところも、時々寂しそうに空を見上げているところも――全部含めて私は鶫さんが好きだったのだと、思い出した。
「今後はどうなさるつもりですか?」
「教育方針を変えるわ。今度は、凛とも相談して、ね」
ちゃんと凛の夢を聞こう。どんな役者になりたいのか、どんな演技が苦手で、どんな演技を伸ばしたいのか。
ああ、それから、凛がやっているゲームも、私も始めてみよう。ふふ、ゲームの世界なら、私は凛の後輩ね。ああ、たまには鶫さんにしてもらったように、私もTRPGを凛と回してみようかしら。怖がらせてしまうかもしれないけれど、それも良い思い出になるわ。もちろん、凛が私を許してくれるのなら、だけれど。
怖がらせるといえば、それもだ。
「夢も叶えるわ。今度こそ、自分の力で」
「夢、と言うと、桐王鶫さんの?」
「ええ。私も、鶫さんの言葉に共感して、かってに神聖視して私じゃできないって思い込んでいたわ。それでも――ふふ、今から悪霊役をやるなんて言ったら、鶫さん、天国……いいえ、深淵で驚いてくれるかしら」
「……はい、きっと」
ほんとうはもう二十年か三十年したら、きっちりと鶫さんのもとへいくつもりだった。けれど、夢を叶えるモノもそうだけれど――凛を、彼女の望む大女優にしてあげたいと、今は純粋にそう思う。
だから。
「あなたにも、心配をかけてしまったわね」
そう、背中側に声をかける。すると観念したのか、妙に似合う伊達眼鏡の少年が、柱の陰から姿を現した。
凛のお兄さん。彼自身もめざましい活躍を見せている少年俳優の、夜旗虹君だった。
「……オレにとって、霧谷桜架は尊敬する役者で、いずれ、越えたいと思っています」
「そう。ありがとう」
「でも、凛のアニキとして、オレは」
まっすぐな目だ。射貫くような、青臭くても力強い目だ。
「次にオレの大事な妹に妙なことをしたら、オレはアンタを許さない!」
先輩だろうが後輩だろうが関係ない。リスクもメリットもデメリットも、きっと関係ないのだろう。それは危うさでもあるけれど、鶫さんの友達として、私はこの感情を“弱さ”ではなく“強さ”として、受け取りたい。
「ええ。肝に銘じるわ」
「……それだけです。では」
律儀に頭を下げて、虹君は走り去っていく。その小さくて大きな背中に誓って、私は凛を弟子として、守り育てることを約束しよう。
「さ、蘭。忙しくなるわよ」
「はい。お手伝いします。桜叔母さん」
「せめて桜架と呼んでちょうだい」
「はい」
それから、そう、鶫さんと同じ名前の、心優しいあの子。
(もしもあなたが窮地に陥ったのなら――必ず、私が力を貸しましょう)
次世代を導く大人として。
深淵で見守る鶫さんのように――必ず。