scene5
――5――
離別。
人生には別れがつきものだ。だから、この一瞬を大切にしよう。中国古典にはそんな詩がある。いつ何時、別れというモノが訪れるのか、それは誰にもわからないことなのだ。
だから私は、かつての桐王鶫は、命を燃やして生きてきた。いつだって全力で、なんにでも貪欲に、ひたすら走り抜けてきた。あの頃は、私がみんなをおいていくなんて、想像もしていなかった。
だから、最初の一言は決まっていたんだ。
「さようなら」
私が言えなかった言葉を、この詩の枕詞としよう。
「どこへ行くの?」
「遠いところ」
「もう逢えないの?」
「うん。もう、逢えないよ」
淡々としたやりとりだ。凛ちゃんは俯いて、目を見せず、私にそう返す。凛ちゃんはどう返してくれるのだろうか。どんな演技を見せてくれるのだろうか。どんな人間を、想像してくれるのか。
そんな、期待と高揚を。
「嫌だ」
「え……」
踏み込む足。
――揺れる。体勢を崩すほど、強く。
伸びる手。
――触れる。足掻くように、しがみつくように。
顔が上がる。
――掴む。私の服というだけでない。心を掴むような。
激昂の表情。
「そうやっていつもいつも、勝手なことばかり! 私が、あなたのことを迷惑だなんて言った? あなたに、いなくなって欲しいなんて言った? 私は、あなたのことを離したくなんかないのに!!」
つり上がった目。頬は興奮で赤らみ、目尻には涙が溜まる。私の高揚を吹き飛ばしてしまうほど、強く激しい演技だ。凛ちゃんの人格とは百八十度違うのに、私の襟を掴む手が震えているから、縋りつく声が揺れているから、真に迫っている。
私は今、誰を相手にしている? 今のだってそうだ。先手必勝。自分で組み立てたイメージの設定を私に押しつけた。これで私は、“迷惑をかけまいと離別を決意した”という根底から離れられなくなる。
油断は侮りだ。
慈愛は侮蔑だ。
(凛ちゃん……すごい、すごいよ、凛ちゃん!)
もう、私は貴女を侮らない。才能ある子役? 違う。彼女は女優だ。なら、私にできることはいつものように、全力で相手をすることだけだ。かつての桐王鶫が、閏宇と、柿沼宗像と、四条玲貴と、さくらと、あの頃の名優たちとともに演じてきた日々のように。
「じゃあ、私が言おうか?」
「え?」
「迷惑よ。私が離れたいの。離してくれる?」
震える声を隠すように。凛ちゃんが視線を離した一瞬だけ、観客に見えるよう涙を拭う仕草を見せる。まるで、“物語の主役が、友達のために嫌われ役を演ずるように”。
「私を、騙せると思ったの?」
「ふふ。騙していたのよ、ずっと」
「ううん、違う」
凛ちゃんは私の頬に手を当てる。ほら、と、私に見せるように掲げる親指。
「泣いてたの、ばればれだよ。――甘えろって言ったじゃない。ほんと、バカなんだから」
違う。そうか、気がついていたんだ。私が影で涙を拭う仕草をした。だから、観客もまた、私が泣いているように思った。じゃないとこの流れは成立しづらい。“物語の主役が、わからずやな友達を窘めた”。そんな風に、見えるはずだ。
身振り。大きく見せて観客の目を引きながら、小手先で他の準備をする。前世で私がマジシャンから盗んだ技術だ。それを凛ちゃんも学んだ? いや、違う。私が今演じたことを、盗んだ?
「私がさ、手段を探すよ。ぜったいぜったい、一緒に居てみせる。だからさ――」
わがままな友人。
勝手に遠くにいく友人。
なるほど。でも、まだもう一つ、覆すやり方があるよ。
「――ごほっ、ごほっ」
咳き込み、膝をつく。肩を落として震える右手で地を掴めば、むせ込んでいるとは思わない。
「えっ、な、なんで」
「は、はは、見られたくなかったんだけどなぁ」
「まさか、あなた」
「言ったでしょ? 迷惑をかけたくないんだ」
さぁ、どうする。音程を調整。息苦しそうに、けれど響く声に。マイク越しでも、通る声と通らない声はわかるから。
次はどんな手で来る? どんな演技で来る? 観客を楽しませることは見えている? 審査なんて全部忘れて、持てる手段の全部で、人間の魂を揺さぶる女優として、私にぶつかって。凛ちゃん。
「そんなことで、迷惑だなんて言わないよ」
「ふふ、老人のように死ぬのよ? 私」
「最後の最後まで、側に居るよ」
「うん。だから――これが最後。私が私で居られる内に、さようならを言わせて」
歯がみし、震える凛ちゃんの頬に手を寄せる。
「ね、凛? 良い子だから」
「――ッ――わた、し」
(……?)
――違和感。
役柄に名前がないから、凛ちゃんの名を呼んだ。それだけで、ほんの僅かに揺れる視線。
「あなたは日常に戻っても良いの。大好きなゲームだって、まだ終わっていないでしょう」
「そんなの、あなたにはかえられないよ!」
――違和感。
素早く姿勢を戻した。まるで、感情を更新し続けているかのように。
「家族が待ってるわ。死にゆく人間よりも、生きている人を大事にして」
「あなた以上に、大切な―ッ―ひとなんていない!」
――違和感。
凛ちゃんに近づけば近づくほど、凛ちゃんが遠くなる。
――違和感。
視線の揺れる回数が左右に増えた。右が多い? 右脳は感情や知識。
――違和感。
そう、更新だ。凛ちゃんは今、リアルタイムで更新している。記憶も知識も、なにもかも。
(ああ、そうか)
高揚していた頭に、冷や水を浴びせられたような気持ちになる。
私が主役になろうと誘導すればするほど、凛ちゃんは自分自身を塗り替えて強く、上手くなっていく。そうやっていたから、あの日、大好きなゲームのことを忘れてしまったんだ。
そっか、そうなんだね、さくらちゃん。より高みに至るために、手段を選ばなかったんだね。
「そう」
でもね、さくらちゃん。何かを犠牲にして得たモノは、必ず、犠牲にしたなにかによって覆される。きっと、このままでは、凛ちゃんの良さを壊してしまう。凛ちゃんは、声とギャップで演技する役者だ。静かな表情からの感情の吐露。明るい仕草からの落ち着いた所作。今このまま進めば、ニュートラルに、個性のない万能性を獲得するだろう。けれどそれは名優のコピーを作り出すだけだ。凛ちゃんの、凛ちゃん自身の魂を穢して。
だから、私はそれを選ばない。
凛ちゃんが、凛ちゃん自身の魅力を保ったまま、この物語を終わらせよう。凛ちゃんが凛ちゃんのままでいられるのなら、そのためなら私は、脇役で構わない。
「なら」
審査員席で、観客として見ているであろうさくらちゃん。ちょうど良い機会だから、生前、伝えられなかったことを伝えよう。悪霊という敵役が、存在感があっても物語を壊さないのは何故なのか。主役を食わず、悪霊として有名になって、“ホラー女優”の名を冠したのは何故なのか。
物語に必要なのは、なにも、強い輝きを持つ人間だけではない。強烈でありながらも、主役に劣る存在が居なければ、真に良い映像にはならない。
「凛」
意識を切り替える。体は重く、胸の奥は熱く。頭痛が止まず。ああ、そうだ。私は死にかけ。死にかけの少女だ。
最後の別れをしに来たはずなのに、引き留められている。見られたくなかったのに。見せたくなかったのに、あなたはそうやって暴くんだね。
知っていたよ。いつだってあなたは、私の側に居てくれたから。あなたが私の人生の、彩りだったから。あなたは、いつだって主人公だったから。
でも、でも、でも。
「――あなたが、代わってくれるの?」
私の苦しみを、後悔を、痛みを、知ったような口をきかないで。