scene3
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本日はよろしくお願いします。そう頭を下げて入室すると、審査員方は快く返してくれた。今日はいよいよ、叔母――桜架さんと妙な因果で競わせてしまうことになった、私の推薦した子役……空星つぐみちゃんのオーディションだ。
皆内蘭を芸名として名乗るようになって僅か二年で、こんな大役を任されるとは夢にも思っていなかった。推薦のため審査には関わらないが、よく見ておくように、と、桜架さんにいわれはしたが……妖精の匣のオーディションから既に頭角を現していた彼女の演技、頼まれなくても良く見ておきたかった。
「順番に入室していただき、一人一人審査をします。人数は、推薦枠二名、一般選考枠六名の合計八名。自己PRで六名から四名まで選び、二次選考で二名まで削ります。公平性を期すため、順番はランダムで決定しました」
審査員方にそう説明する。桜架さんは完全な実力主義であり、推薦であろうと選考であろうと関係なく、審査員すら納得させられないのなら落とす気で居る。もしそれで凛ちゃんが落ちても手放さないだろうが、この仕事には使わないだろう。
今日の審査員は皆、この学校の講師だ。そんなことは百も承知であろうから、むしろ、「おべっかを使わず審査できて気持ちが楽」などと言っている。審査員の、男性二名、女性二名という内訳もその表れだ。
「どれどれ、一人目は……お、蘭ちゃんの推薦だね」
「一人目でしたか」
そうにこやかに言ったのは、白髪交じりの頭に丸眼鏡の、どこかシルエットが丸い男性。演出・監督系講師の平丸瓶彦さんだ。平丸さんはにこにこと書類を確認すると、隣の男性の肩を叩いた。
「細居先生はどなたが気になりますか?」
「霧谷桜架推薦の夜旗凛ですな」
つり目七三分け。神経質そう、と言われることが多いが意外としゃれっ気のあるスタイリスト系講師、細居一敬先生が、凛ちゃんの書類を見る。
「書類選考組のアリシアちゃんも面白くないですか!? つぐみちゃん以上に欧米人! って感じなのにここまで這い上がってきたんですよ? 日本人の子供の、子役オーディションなのに!」
「滝田先生、静かに」
「えー、光岡先生は気にならないんですか!?」
そう細居先生に身を乗り出して書類を掲げたのは、声優科講師の滝田音色先生。クールに答えてくれたのが、俳優育成科の光岡節さん。
彼らが、本日の一次・二次審査担当の講師方だ。個性豊かだが気前が良く、そしてなにより一流の先生方だ。とくに平丸さんは、「一カ所に講師が集まったら競えない」とおっしゃって、名門竜胆大付属から籍を移してくれたほどの方だった。
「そろそろ来る頃ですね」
光岡先生がそうおっしゃり、全員、会話をやめて入り口を見る。地面は絨毯、照明は白。中心の平丸さんが笑顔を浮かべてくれているので、子供でも安心できることだろう。もっとも、彼女に関しては、それも不要だろうコトは想像に難くないのだが。
ノックの音。そして「どうぞ」と、平丸さんが返事をする。
「しつれいします」
マネージャーの御門さんは扉の前に控え、つぐみちゃんが一人で入室する。艶やかで癖のない銀の髪と空を思わせる鮮やかな青い目。日本人のお母様を連想させる顔立ちは、髪色と瞳の色を変えれば日本人としても充分に通用することだろう。
総じて、神がかったバランスで生み出された美少女。きっと、演技の才能がなくとも人の目を惹きつけたであろう少女が、子供らしい愛くるしい笑みで頭を下げた。
「そらほしつぐみです。よろしくおねがいします!」
「はい、よろしくね」
主な受け答えは平丸さんが行ってくれる。あとは適宜質問を交える形だ。
「この審査では、あんまり細かいことは言わないんだ。だってこの場に立てる時点で、ある程度の基盤はあるからね。だから聞きたいのは一つ。どんな演技が得意?」
普通は子役には、年齢を聞いたり好きなこと聞いたり、自己PRに行くまで緊張をほぐしてあげたりする。けれどこのオーディションは別だ。率直で簡潔。無駄を省いた“あそび”にこそ、神が宿る。
だからつぐみちゃん。私はあなたの可能性が見たい。桜架さんの言う、桐王鶫の後継ではなく、それを踏み台にできるほどの才能の発露を、見せて欲しい。一役者として、栄達を願うモノとして。
「はい! かんじょうのえんぎがとくいです!」
「感情か。いいね、なるほど。じゃ、やってみようか」
「はい!」
返事。だけれど、この時点で声に携わる滝田さんが、僅かに目を見張る。ためらいがないのだ。普通、やれと言われて即座に頷けはしない。あんな簡単に終えて、もう演技なのかと戸惑うモノだろう。
けれど、つぐみちゃんに戸惑いはない。あるいは恐れも、緊張すらも。まったくの自然体。驚くほどに“彼女のまま”だ。
「お題はそうだね。サイレントエチュードでいこう」
「え。平丸先生、それは……」
「ああ、失礼。つぐみちゃん、サイレントエチュードというのはつまり、声を出さないアドリブ演技だ。どうかな?」
平丸さんの言葉に、細居さんが目を丸くする。表情には出さないようにしたが、それは私も同様だ。サイレントエチュードは、二次選考で行うはずの審査なのだから。
(裁量は審査員にある程度任されている。おまけに、平丸さんはあの洞木監督の下で働いたことのある人物だ。まだ若輩の私には見えていないモノが、見えている……?)
急なお題付きの課題。つぐみちゃんはどうするのだろうか? 気になって彼女を見れば、変わらず笑顔のままだった。
「あいずを、おねがいします」
「もういいのかい?」
「はい。いつでも」
平丸さんが手を挙げる。つぐみちゃんは笑顔のまま。ずっと笑顔だ。楽しそうに、嬉しそうに、あるいは――待ちわびるように。
「よーい――」
用意。
――違和感。
顔を伏せ。
――違和感。
空気が。
――違和感。
「――スタート」
平丸さんの手が振り下ろされる。つぐみちゃんは同時に顔を上げ、笑みを浮かべた。一歩踏み出し、楽しそうに口を動かす。相手が居る体なのだろう。手を差し出し、掴む仕草。喜怒哀楽をテーマにしているのだろうか。親しい友達と手を取って、嬉しそうに笑っている。
不意に、つぐみちゃんが笑みを消した。不安そうな表情。それから、庇うように両手を広げる。背に居るのは誰だろうか? 子供、大人、いいや動物かも知れない。けれどつぐみちゃんが見上げる動作をして後ろに手を回すから、背に居る誰かを大きなモノから守ろうとしていることだけはわかった。
(顔を庇った。殴られる?)
つぐみちゃんは何者かに叩かれたのだろうか。頬を押さえて横座りに倒れ込む。けれど痛みをこらえ苦しそうにしながらも、誰かの元にすがりつき、覆い被さって背を丸めた。
時折跳ねる背中。蹴られているのだろう。やがて弾かれるように離されて、守るべき誰かに手を伸ばし、手のひらが踏みにじられる。痛そうにもがきながらも、手のひらは動かない。相当強い力で踏まれているのだろう。
庇うべき誰かはどうなってしまったのか。解放されたつぐみちゃんは、髪を振り乱しながら駆け寄って、座り込む。体を揺すり、声をかけ、涙を流し――目をつり上げて、大切な人を傷つけたモノを睨み付けた。
『許さない』
怨嗟の声だ。憎悪の声だ。
「そりゃ、許せないよね」
そう、声優科の滝田さんも――違う。いや、違う。違う!
(サイレント、なのに――滝田さんも私と同じ声を聞いた……!)
表情が、仕草が、身振りが、所作が。
『おまえさえ、いなければ――!』
彼女は叫ぶようにそう言うと、手に拾った石を持ち上げて振りかぶる。
何度も。
――当たり所が悪かった。
何度も。
――馬乗りになった。
何度も。
――差し出された手を払う。
何度も。
――振り上げた手を、止めた。
投げやりに石を放り捨て、彼女はふらりと立ち上がる。大切な人に駆け寄って、涙を流しながら笑いかける。
『もう大丈夫だよ。だから起きて』
『敵は居ないよ。私がやっつけたから』
『ねぇ、起きて。起きて……』
揺さぶり、唇を噛み、空を見上げて泣く。やがて涙は笑い声に変わる。嘲笑だ。守れなかった己を蔑み、涙を拭うことを忘れ、ただただ壊れたように笑う。
やがてその笑みがぴたりと止まり、彼女は、感情のすべてを失って私を見た。
『どうして、助けてくれなかったの?』
小さく悲鳴を漏らしたのは、誰だったか。あそこで無残に倒れたもののように、次は私が、あの憎しみの標的になるのだろうか。野に朽ちる、あの男のように。
「――そこまで」
不意に、自分を取り戻す。つぐみちゃんは返り血で濡れてなんて居ないし、石も死体もない。野外ではない。誰かの亡骸なんてない。ただ、自分の呼吸の音が、ひゅぅひゅぅとうるさかった。
「いや、良かったよ。つぐみちゃんはホントに感情表現が得意なんだねぇ」
「はい、ありがとうございます!」
「じゃあまたあとで結果を伝えるから、マネージャーさんと控え室で待っていて」
「はい!」
元気よく挨拶をし、頭を下げて出て行くつぐみちゃん。そんなつぐみちゃんの小さな背中を見送ると、平丸さんは眼鏡を取って大きく息を吐いた。
「最後、さぁ。『どうして助けてくれなかったの?』って言わなかった?」
「言いました……」
細居さんが、平丸さんの言葉に同意する。確かに彼女は喜んでいたし、悲しんでいたし、怒っていたし、憎んでいた。あれを感情表現の枠で捉えて良いのか、悩むほどに。
「彼女の態度を見たとき、僕は霧谷桜架――さくらちゃんと初めて会った時を思い出したよ。間違いなく、超然とした何かを見せてくれる。けれど同時に、二次審査程度で他の子役と合わせたら、その子の心を折りかねない、とね」
なるほど、それで一息にやらせてしまったのか。
「まさか一発目からあんなとんでもないものを見せられるとは思わなかったよ」
未だうまく言葉にできず、メモを書き連ねる光岡さん。ずっと深呼吸をしている滝田さん。こめかみをもむ細居さん。それぞれの様子に苦笑しながらも、平丸さんは私の側で、ただただ大きく息をついた。
(桜架さん……これは、想像以上ですよ)
そう、届かぬ声を心中で零す。次の試験に、大きな波瀾を呼び込む予感を、覚えながら。
――/――
――夜旗凛・控え室
瞑想。気を静め、鎮め、深く潜る。その様子を監督しながら、私は姪の蘭との会話を思い出す。蘭は空星つぐみを予想以上と言っていた。では、凛はどうか。蘭は、答えがわからなくなった、と言っていた。
それはそうだろう。私が見つけてきた彼女は、他とは違う。平凡な人間たちとは一線を画する能力。二次審査は選考基準を満たすため不要、と、平丸さんからも言葉を頂戴している。
「どう? 凛」
「――はい。大丈夫です」
「そう。いつものとおりにやれば、間違いはないわ」
「はい。わかっています」
頼りになる言葉だ。薄く目を開いた凛の瞳には、今は何も映っていない。今日この日、“桐王鶫”の後継者として最初の晴れ舞台になるよう仕上げた。最早、日本に……いいや、世界にだって、この子以上の子役はいないことだろう。
究極の演者。いつかの鶫さんのように見る人間すべての心を動かす役者。第二の桐王鶫として、この子なら、きっと。
(あの日の誓いを忘れたことはないわ)
身寄りのなかった鶫さんの死後、閏宇さんと私に与えられたのは彼女の遺産だった。貧乏性で貯金ばかりしてしまうと言う鶫さんのお金。そんなものはいらなかったのに、鶫さんがいてくれたらそれで良かったのに、それでも彼女の遺言状は私の心を突き動かした。
私を産んだだけのあの女から決別し、私が私自身の力で前に進めるように、と、託されたお金だ。当時のまだなんの力もなかった私に、本当の心を与えてくれた言葉だ。
『鶫、という鳥は冬鳥で、海を渡って飛来するそうです』
『だからもし、私がさくらちゃんの側にいられなくなっても、私の翼があなたの力になれるよう、私の全部をあなたにあげます。あなたが、冬を越えられるように』
『さくらちゃん。あなたがどんな道に進もうとも、私は深淵から根強く応援しているよ。だから、役者じゃなくても良い。お花屋さんだってケーキ屋さんだって、あるいはお嫁さんだって良いの』
『ただ、いつだって、幸せになることを諦めないで。大丈夫、さくらちゃんならできるよ。だってさくらちゃんは、この私のライバルなんだから! なんてね』
『じゃ、また来世で! 五十年か六十年そこらで来たら追い返すからそのつもりでね!』
あとを追うことすら許してくれなかった、ずるいあなた。
悲嘆にくれて不幸の泥に溺れ、楽にならせてはくれなかった厳しいあなた。
いつだって、私の幸福を願ってくれた、血のつながらない姉のようだった、あなた。
だから私は、あなたを背負うと決めた。式峰はもう名乗らない。かといって、あなたとともにあることを享受しているだけの、甘ったれた子供だった“さくら”の名も、名乗らない。
あなたが欠けたことを十字架に、桜架、と。
求めることをやめないために、谷、欠けるを欲することへのアナグラムに。
霧谷桜架。
霧桜の十字架を欲する、あなたのともだちとして。
「スタート前に、一つだけ情報を与えておくわ」
「はい」
「勝利条件は“主役になること”よ」
「はい」
公平性を期すために、テーマは審査時の発表だ。けれど、この子の演技にはキーワードが必要だ。凛なら必ず、私の期待に応えてくれることだろう。
「さ、行きましょう」
「はい」
舞台は近い。
今日この日を皮切りに、第二の桐王鶫が生まれるのだ。
他ならぬ私の手で――あなたが成せなかった夢を、叶えてみせるわ。