opening
――opening――
手を叩く音。意識の間にすり込む拍手。スタジオに反響した音が収まると、私の生徒――凛の目に宿っていた多種多様の感情が霧散する。凛は瞳から色を消し、数秒虚空を眺めると、やがて意識を戻して頭を振った。
だんだんと、演技状態から素の状態へ戻る間隔が長くなってきた。人格に影響を及ぼしかねないが……まだ六歳だ。人格形成の段階で多少の変革があった方が良い方向に転がることもあるだろう。私がそうであったように。
「凛、良い調子ね」
「……ぁ――はい、ありがとうございます、おししょー」
「いったんお休みしましょうか。いつものように、やってみて」
「はい」
凛は呼吸を整え、スポーツドリンクを呷り、ストレッチで熱を鎮めて。
「よるはたりん、たんじょうびは八がつ三十にち、父はかずま、母はまほ、兄はこう。好きな食べものは、おさしみとか、サラダとか。好きなものは――あれ、なんだっけ」
少し混濁が見られるわね。まぁ、許容範囲かしら。子供を全部まっさらにして最高の役者に育てるのが最良だけれど、それだと鶫さんの最善ではないからダメね。鶫さんは、それを良しとはしなかった。
私自身の価値観なんて、徒人に理解されるものではない。だから、私は私の信頼する指針で動く。鶫さんの価値観なら、きっと、私を私が想像できない領域に導いてくれることだろうから。
「どう?」
「んーと、えっと、かぞくとつぐみが好き!」
「ふふ、そうね。好きなモノが、貴女の指針になり得るわ。忘れないように、ね」
「はい!」
つぐみ。空星つぐみ。蘭が見つけてきた、“最善の役者”になり得る卵。蘭はあの子を桐王鶫に沿わせることにはあまり乗り気ではないけれど、嫌ではないのでしょうね。コマーシャルも見たけれど、演技の幅はかなり広い。
あと、必要なのは体裁だけれど……これは、既に準備ができている。あまり急ぐつもりはないが、長期計画だからこそ、今から基盤を立てておかないと。
「ねぇ、凛。そろそろオーディションに出てみないかしら?」
「オーディション……?」
「ええ。あなたの友達の、つぐみちゃんと一緒に」
「いっしょに!?」
カモフラージュに、書類選考組も仕込んである。その中に資質のある人間がいるのなら、それはそれで困らないから。推薦組は、私の推薦の凛と、蘭の推薦の空星つぐみ。閏宇さんも参加できれば面白い人材を見つけてくれたかも知れないが、彼女は今、アメリカだ。
朝代の娘さんと夕顔の娘さんも才能豊かではあると思うが、少し違う。資質の方向性が一定だ。可能性の数はそう多くはない。
「どんなオーディションなんですか? おししょー」
「半公開型の特番オーディションよ。審査を複数の業界関係者にしてもらう都合上、記録用のテープを回し、特番の番宣で一部を流す形になるわ」
「おおー」
オーディションを勝ち抜き、テレビに出るようになる。そのときの演技と特番の演技が、彼女の人生を彩る華々しい切っ掛けとなることだろう。妖精の匣の脚本も面白いが、あれは、子役でも十全に演技ができるよう、つぐみ以外は本人の性格とさほど変わらない役柄になっているのは間違いない。
だから、凛の演技の多様性が光らない。素晴らしい演技をさせても、さほど浮かばない。視聴者も番宣で見た凛のイメージとさほど変わらないことには、気がついていることだろう。
「さ、マネージャーさんに連絡をとって、詳しい情報をまとめましょうか」
「はい!」
ベンチに置いたファイルから、資料を取り出す。数年後に行うであろう、一つの大舞台のための仕掛け。そこで凛が桐王鶫の後継として世に進出するための、基盤作り。
そして、私がオーディションを担当しても、なんの違和感もないうってつけの題材が、ちょうど、一つあった。
『霧谷桜架の波瀾の半生』
他ならぬ、私を題材にした、ドキュメンタリー特番だ。
――/――
一面が青で彩られた部屋。殺風景な四角い箱。ただ高価なパソコン機材とマイクの設置された部屋で、一人の子供がモニターに向き合っていた。
黒く長い髪。黒い瞳。指先だけ露出した袖の長いセーターに、南京錠のついたチョーカー。キーボードを叩きながら、じっと、カメラの調子を見る。
「あ、あ、あー。んんっ。マイクのテストちゅー、マイクのテストちゅー」
舌っ足らずなしゃべり方。年の頃は五歳か六歳か。つぐみとさほど変わらない年頃だろう。
「あー、アー、あー? きょうは、んー、ういろううりでいいか。あえいうえおあお……せっしゃおやかたともうすは――」
声出しの練習だろうか。回らない滑舌で紡ぎ出すのは、発声練習の基本と呼ばれる歌舞伎十八番の一つだ。すべて読み上げると八分ほどかかるそれを、諳んじ始めた。
「――くるわ、くるわ、何が来る、こうやの山のおこけら小僧――」
最初は確かに足らなかった舌が、だんだん、潤沢を帯びていくかのように。
「――東方世界の薬の元締め、薬師如来も照覧あれと、ホホ敬って、ういろうはいらっしゃりませぬか」
そうしてできあがった滑舌を確かめるように、ぺろりと唇を舐めた。
「はいはーい、GoodMorning! 今日も始まるよ、みんな集まったかなー?」
背景にCG映像が浮かぶように調整し、yo!tuber、ツナギは快活に挨拶をする。よく響く声。なめらかな滑舌。笑顔に反応するように、画面にたくさんのコメントが流れる。皆、ツナギの収益になるよう投げ銭のように現金を振り込み、ツナギはそれに軽快に礼を言った。
生放送。決して失敗は許されない。だからこそ、ツナギの本能と才能が化学反応を起こし、より早く、より強く、より卓越した技術を実現させていった。
「――ところでみんな、初恋っていつかな?」
雑談の最中、ツナギの切り出した発言に多くの台詞が反応する。
『ええっ、ツナギちゃん、片思い中だったりするの!?』
『誰だその男。ころしてでもうばいとる』
『俺は小学校六年生のときだなー』
『はいはい! 俺の初恋はツナギちゃん! こんなにときめいたことないわ』
『私女だけど、初恋はツナギちゃんかな』
『高校生のとき、部活の先輩に、かな』
多種多様なコメント。流れの速いそれは、会話をせず見ているだけの人間でも、把握しきるのは難しい。それをツナギは一目で読み切り、覚え、答えていった。
「残念ながら私の初恋はまだまだだよー。だって、趣味に恋してるからね!」
「小学校! 早いねぇ。その頃、私は――って、まだだった。あはは」
「え、けっこう私が初恋って人多いの? 嬉しいなぁ。でもごめんなさい!」
「部活かぁ。部活って私、入ったことないんだよねぇ? うんそう、まだ、まだ。はは」
明るい声。幼い外見ながら、幼さを感じさせない口調、時折見せる大人びた表情。
暗闇に灯るランタンに引き寄せられるように、閲覧数を伸ばしていく。
「で、本題なんだけど、みんなはもうトッキーのCM、見た?」
『見た! あんなんガチ恋ですやん』
『通報しました』
『あの子は拙者に恋をしている。間違いないね』
『妖精の匣の、柊リリィだよね? 役柄広すぎ』
『性格悪そう。ぜったい、リアルでも男を手玉にとってる』
『草。五歳で手玉とかないわ』
ツナギはコメント欄に返しながら、実際に発売されたトッキーを手に取る。初恋レモン味と名付けられたそれに口づけを落とすと、また、何万と現金が振り込まれていった。けれど、本質的にお金に興味はないのか、にこやかに礼を言うも、興奮した様子はない。
それがツナギを、“大人っぽい”と称しているのだろう。その本質には気がつかず、ただ、ただ、ツナギの狙いどおりに。
「これって最初は夏レモン味って名前だったみたいだねー。それが制作中に初恋に変わったらしいよー。そんなこともあるんだね。……ただなんでも、業界関係者によれば、役の取り合いがあったとか、なかったとか」
『あるとかないとか、どっちだよw』
『本当だったら、とられた方は可哀想だな』
『実力社会だろ。そんなの。上手い方で良いじゃん』
『やっぱり、悪いやつなんじゃない? 猫被るの上手そうだし』
風潮。風評。風のように流れる不信感。擁護派ばかりだったインターネットの世界に、少しずつ、根を下ろすように広がる噂。
「私は良い子そうだなぁって思うけどなぁ」
『ツナギちゃんは純粋すぎw』
『私もつぐみちゃんは良い子派』
『ないわ。絶対悪人だよ。柊リリィって俺をいじめてたヤツそっくりだし』
『妖精の匣だったら圧倒的にリーリヤ派』
『俺は美海ちゃんだなぁ。夕顔夏都の娘でしょ? 超かわいい』
正義一辺倒だと、悪意は僻みと捉えられて消えていく。
悪意一辺倒だと、自治行為によって悪は正義に踏み潰される。
では、正義と悪意が均等なら?
「では、今日のツナギちゃんねるはここまで! みんな、ありがとね。しーゆー♪」
いつものように明るく配信を終える。カメラをチェックし、ウェブ上からも配信を終えたことを確認。ツナギは欠かしたことのない手順で、無事に配信終了したことを確認した。
「ごほっ、ごほっ、ごほっ、はっ、はっ、はっ、んっ、は、ごほっ」
途端、気が緩んだのか、体力の限界だったのか。ツナギは机に突っ伏すようにうずくまり、喉を押さえて咳をする。机の下からペットボトルを取り出すと、喉を癒やすように水を呷った。
それから、震える手でスマートフォンを確認する。SNSの話題は熱しやすく冷めやすい。燃料の投下タイミングは間違えないようにせねばならないだろう。だが、その点においては、ツナギはあまり心配していなかった。
(演技対決をしたのなら、必ず敗者がいる。大きな仕事を逃した敗者が、妬まずにいられるかな?)
そう、ツナギが対決相手のSNSを見るに、対決の翌週、CM放映日の前から季節外れの風邪でもう一週間も寝込み、まだ、SNSは更新されていない。更新され始めれば直ぐに、正義と悪意の戦いが始まることだろう。
対決の発生自体が予想外ではあったが、想定以上になりそうだ、と、誘導が上手くいきそうなことを淡々と受け入れる。
(私は擁護派、彼女は批判派、それでちょうどいい)
たとえ空高く飛び上がっても、必ず、その翼は陽光に溶け落ちる。今はただその日を待とうと言わんばかりに、ツナギはそっと、スマートフォンを机上に置いた。
つぐみの対決相手の脳天気さなど、知る由もなく。