ending
――ending――
とてもドタバタとしたコマーシャル撮影から数日。妖精の匣の撮影も順調に執り行われる中、ついに、CM放映日が決まった。当日のどこで最初に使われるかと聞いた私は、どうにか予定の合った美海ちゃんと放映を見ることに。
美海ちゃんの家は、高層マンションの最上階だ。夜景がとても綺麗で、隅田川の花火大会があると、特等席で見ることができるのだとか。
「いらっしゃい、つぐみちゃん!」
「おじゃまします、みみちゃん」
美海ちゃんに招き入れられて、上品な絨毯の上で猫耳つきのスリッパに履き替えた。木目のフローリングに沿ってまっすぐ歩くと、大きなリビングに通じる磨りガラスの扉に手をかけられる。
先導する美海ちゃんについていくと、白い絨毯の上、白いクッションで丸くなった白い猫と目が合った。
「ふにゃあ」
「にゃあ?」
「つぐみちゃん、な、なんでにゃあでへんじしたの?」
いや、なんでと言われましても。こう、私は猫にとって被食者なのだと思う。猫という種族にやたらと好かれるので、気がつけば、どうにか“今は離れて”という意思表示のために猫語を用いるようになったのだ!
……十五歳を越えてからは、恥ずかしくなってやっていなかったけれど、ほら、今はもう子供だし。うぅ、猫可愛い。カエルの方が可愛いけれど、ああでも猫も中々。
「ふぅ……ごめん、みみちゃん、おさわがせしました」
「ううん。良いの。いいもの撮れたから」
「?」
何故かスマホを手放さない美海ちゃんに促されて、ソファーに腰掛ける。すると美海ちゃんは、危うげのない手つきで二人分のオレンジジュースを持ってきてくれた。
装飾のないガラスのコップに、丸くかたどった可愛い氷。時折猫の鳴き声を聞きながら、隣に座る美海ちゃんの、緩く沈むソファーと、ほのかな熱を肌に覚えた。
「ねぇ、つぐみちゃん」
「みみちゃん?」
「きょう、うちね、親、いないんだ」
「へ?」
眼鏡を外した美海ちゃんが、意味ありげに私を窺う。意図しない沈黙をかき混ぜるように、溶けた氷がからん、と音を立て、差し込む夕日が美海ちゃんのかんばせに影を作った。
「だから――」
「おう、美海、つぐみちゃんはもう来たかー?」
「――おとーさん! へやに入っててってば! もう!」
奇妙な緊張から解放される。これあれだよね、きっと、美海ちゃんのお母さんの、夏都さんの昼メロドラマに影響されたのかな。急に何が始まったのかとびっくりして固まっちゃったけれど、どっきりだったのかな?
美海ちゃんのお父さん、大柄で熊みたいな男性、鉄さん。鉄さんは豪快に「すまんすまん」といって笑うと、奥の部屋に消えていった。しまったご挨拶していない。
「ま、いっか。見よ、つぐみちゃん」
「うん、そうだね。ふふ、びっくりしたよ」
「ふ、ふふ、そうだね。いがいとうまくいかないなぁ」
美海ちゃんはリモコンを手に取ってテレビをつける。うちのテレビよりも一回り小さいように見えるけれど、正直、これでも十分すぎると思うんだよね。だってほら、前世のテレビはもっと小さかったから。
私たち芸能人にとってはなんの関係もないゴールデンウィークを迎え、今日は五月の第一土曜日。今日の八時から妖精の匣第五回が放映されるのだけれど、トッキーのCMは本日朝から放映開始している。既にネットでは評判が上がっているそうだけれど、私は美海ちゃんと約束があったので、あえて見ないようにしてきた。
「まだかな、まだかな」
どのタイミングで狙ったCMが流れるかはわからないので、トッキーの箕崎オリゴがスポンサーについている番組をじっくりと視聴していた。
あの後、あの感じで行くということにはなったけれど、やはりパターンもたくさん欲しいと言うことで、他パターン取りやリテイクを重ね、終わる頃にはヘトヘトだった。その努力が映像として実るということもあって、年甲斐もなく……なく? うん、まぁいいか。そう、わくわくしているのだ。
「あ、これだ!」
美海ちゃんの言葉に、思考を中断する。蝉の声とともに始まるCM。縁側に並び立つ、私と海さん。すれ違う視線と。トッキーと、淡い口づけ。
『甘酸っぱい、初夏の香り。トッキー~初恋レモン~』
夏レモン味から初恋レモン味に名前が変わっていたが、撮影どおりの物になっていて満足満足。我ながら良い演技ができたと思うのです。
さて、美海ちゃんに感想でも聞こうかと横を向けば、何故かカチンコチンに固まってしまった美海ちゃんの姿が目に入る。
「あわ、あわわわ、あわわわわ」
「みみちゃん?」
「こうおにーさんとかずまさんの四角かんけい!? しかもしかも、たまの帰省、昔なじみのおにいさん、あわい初恋のおもいで! きんだんすぎるよ、つぐみちゃん!」
「うん、ちょっと落ちつこうか?」
美海ちゃんをゆさゆさと揺さぶるも、返事はない。それどころか、真っ赤になったままかくんと意識を飛ばしてしまった。もごもごと何かを言っているから、気絶したわけではないのだろうけれど……キャパオーバーかな、たぶん。
仕方ないので、美海ちゃんの体を引き寄せて、私の膝で休んで貰う。何かを察した鉄さんと仕事帰りの夏都さんが来るまでは、しばらく、このままでいようかな。ただちょっとお返しに、私の膝を占領する美海ちゃんの写真だけ撮っておく。
「ふわ……ぁ」
うん。なんだかちょっと、私も眠くなってきたかも。そう睡魔に身を委ねて瞳を閉じたら、閉ざされる意識の端で、呆れたような「にゃあ」という鳴き声を拾ったような、そんな気がした。
――/――
真っ暗な部屋。雨音とモニターから漏れる光だけが、不気味に室内を彩る。モニターの前には、安楽椅子を揺らす男が一人だけ。男は上機嫌にモニターを見つめていたが、不意に、手元で振動するスマートフォンに気がついた。
「なんだ?」
低い声だ。よく通る声だ。
『――』
「失敗した? あの好条件で?」
『――』
「ははっ、ローウェルに喧嘩を売ったのか? すごいじゃないか」
『――』
「からかってなどいないさ。ただ、よくやるな、とは思ったがね」
電話口の声は、焦燥と恐怖に満ちている。けれど男は動じない。それどころか、さも自分はまったく関係がないという超然とした態度で、喚く声を聞き流していた。
もしも対面で話していたら気がついたことだろう。男の空虚な笑みに、なんの関心の色もないことに。
『――』
「いいか、久留間。俺はおまえが困っているから手を貸した」
『――』
「そうだ。ライバルの派閥を蹴落としたかったのはおまえだ。それに、力を貸した」
『――』
「責任? 裏切り? 違うよ、久留間。おまえが俺を裏切ったんだ。力を貸した、俺を」
『――』
「謝罪に意味はないよ。ただ、報いは受けてもらうがね」
男はそれきり端末の電源を切り、放り投げてしまう。もう取り合う必要はなく、もう興味もない。ただ、一つの仕事が終わった。それだけだ。
男は一息つくと、また、モニターを見る。暗い部屋を照らすようにぼんやりと光るモニターには、無数の映像が映っていた。
“竜の墓”
“塩の柱”
“悪果の淵”
“祈り”
“心霊探求”
“墓場ゾンビの怪談”
“悪鬼”
“恋鬼夜業”
そして、“紗椰”。有名無名を問わず、ある共通点のある映像。そのすべてに、ホラー女優、桐王鶫が関わったものたち。
その煌々と輝くモニターを、男がぼんやりと見つめている。くすんだ髪色、皺の出始めた手。壮年の男だ。
「ああ、やはり良いな。真に迫っている。紗椰など、何度見ても怖いよ」
男は楽しげに口ずさむ。上機嫌に紡がれる言葉は、歌でも唄っているかのようだった。
「おっと、驚かせようとしても無駄だよ。俺だって昔のままじゃないんだ」
くつくつと、男は笑う。笑いながら立ち上がり、振り向いて、窓際に置かれたベッドに近づいた。降りしきる雨の中、じっと窓の外を眺める女性の姿だ。男はそんな女性の様子に、やれやれと首を振り、長い黒髪を一房掴んで口づけた。
「まだ機嫌を損ねているのか? あれは浮気ではないと言ったろう? 俺は君一筋だよ。これまでも、これからも」
男はそう、愛おしげに、女の肩に触れた。
「だから、機嫌を直してくれ」
返事はない。
「俺だって、君と会話がしたい」
返事はない。
「冷たくしないでくれよ」
返事はない。
「本当に、君は頑固だ。変わらないな」
返事はない。
「ふふ、まぁいいさ。いつか君も、俺に振り向くから」
返事はない。
「だから――今度こそ、俺を選んでくれよ。鶫」
返事はない。
蝋でできた人形に、返事などできるはずもなかった。
「もうすぐだ、もうすぐ君に会える。ふ、ふふふ、ふっ、はははははははは!」
ただ真っ暗な部屋に、狂人の笑い声が木霊する。ただ、ただ、愛を憎むように。
――Let's Move on to the Next Theater――