scene3
――3――
――ウィンターバードプロダクション・レッスンルーム
「――プログラム・アウト」
私のかけ声で、演技をしていた凛ちゃん――凛がぴたりと止まる。その瞬間から息を荒げ、汗をかき、余韻に浸る。完全な没入法のメソッド演技。演技法、と法則の名をつけるほど操り切れてはいないけれど――天才、という言葉が相応しい。
ふらふらとおぼつかない足取りで私の元まで歩いてきた凛に、プロダクション開発のスポーツドリンクを渡すと、震える手で受け取ってくれた。
「ありが、とう、ご、ざいま、す、おししょー……んぐ、んぐ、んぐ」
「いいえ」
呷るように飲み干す凛に、私はそう返事をしながら、開いていく花の様に口角が持ち上がることを自覚する。この年から開花していけば、五年後は? 十年後は? 十五年後は? 彼女が二十歳を数える頃にはあの日の鶫さんと再会することだって――いや、これはまだ性急ね。
鶫さんと別れて二十年。退屈なこの世界に、鶫さんの再来を夢見て十五年。この子ほどの実力があれば、あの日の鶫さんを呼び起こすことだってできる。もう、絵空事ではない。そう考えれば考えるほど、笑みが深まるのを感じた。
「ぷは……おししょー、どうでしたか?」
「基礎を鍛えれば鍛えるほど、演技に磨きがかかるわね。この調子でレパートリーと語彙を増やせば、あなたはもっとできるようになるわよ」
「! やった。ありがとうございます、おししょー!」
子犬系、とでも言うべきかしら。凛はきらきらとした目で私を見る。話を聞くに、彼女は共感覚(五感に他の感覚が付随する)なのだろう。見たモノに色や光が見え、その上で演者としての才能がインスピレーションを強く刺激し、まるで二重構造の景色を見せているかのように作用している、といったところかな。
大人になれば消えていく感覚だろう。なら、子供のうちに多少の無茶はしてでも多くの人間と演技に触れさせておけば、より、深いところに刻まれることだろう。
「おししょー、その、それで――」
凛は、そう、控えめに、あるいは心配そうに後ろを見る。その視線の意味に気がついて、私は直ぐに得心がいった。凛は演技の神様に選ばれているかのような人間なのに、他を心配できるのだから、優しい子だ。
他者を顧みる、というのも、鶫さんの後継者には相応しい才能ではないだろうか。私では、明らかに劣っていながら他者を妬み、蹴落とすような人間を、同じ人間とは見られなかったから。
「気にしなくて良いわ」
「で、でも」
「ふふ、大丈夫よ。あとで私がフォローしておくから」
「ほんと?! ありがとうございます、おししょー!」
喜び跳ねる凛の頭を撫でると、凛ちゃんは嬉しそうにはにかんだ。
「ええ。だから凛ちゃんは、スケジュールの確認でもしておいて」
「はい!」
そう言って手荷物からスマートフォンを取り出す凛を余所に、レッスンルームを見回す。プロダクション経営の劇団“きりさくら”(鶫、にしようとしたら反対された)に所属する劇団員たちだ。
かつて蘭がいたころはもう少しレベルが高かったけれど……今はだめね。とくに優秀と聞くものたちを集めさせたのに、こぞって凛ちゃんを下に見て、その上でこの有様だ。話にならない。
「ぅぅ、うぁ、ぁぁ」
「なんで!? なんでこんな! うぅ、うぁ」
「…………」
「っ、げほっげほっ」
「ああ、光だ、光が見える、ぁぁ」
こうも簡単に、たかだか即興劇に引き摺られる程度の人材では、凛の相手にすらなれない。一度私が足を運んで篩にかけないと、劇団そのものの質が下がりかねないわね。
小手先の技術。小手先の演技。大成できない人間の悪あがき。やっぱり、鶫さんのように、一を覚えれば十を習得し、百にも千にも昇華させられなければ小手先の技術など学ぶ価値はない。基礎の積み上げと生まれ持った才覚で、技術など覆せるのだから。
「おししょー! つぐみが、コマーシャルにでるんだって!」
「あら、そうなの? 確かに早いわね」
空星つぐみ。鶫さんと同じ名前を持つ子供。妖精の匣を見たときは、なるほど、鶫さんの後継者に相応しいかもしれないとも思った。もっとも、今は、凛以外にはあり得ないとは思っているけれど。
「で、今は――真のしゅつえんしゃを決めるために、えんぎたいけつをすることになったって」
「ん? なんて?」
真の出演者って……現場まで行って偽の出演者が現れるとか、そんな妙ちきりんなことには普通はならない。私だったらその時点で、全員の心を折ってから辞退する。
まぁでも、鶫さんだったら勝負に持ち込むかもしれない。さすが、蘭の見いだした才能と言うだけのことはあるのだろう。
(もっとも)
鶫さんだったら勝負を始める前に全員を虜にしていただろうし、鶫さんだったら微笑むだけで相手の役者を信者にしていただろうし、鶫さんだったらCGなんか使わなくとも空だって飛べたことだろうから、そもそも勝負にならないだろう。
そういう意味では、いくら同じ名前だろうと。
(鶫さんほどではないわね)
そう、判断せざるを得ないのだけれど。
――/――
「そこまで」
拍手の音が鳴り響く。意識の間に差し込まれた短い音は、僕たちの口を容易に閉ざした。思い思いに頭を冷やして息をつく大人たち。そんなことをすれば直ぐに久留間とかいうおっさんの標的になるのではないかと気が気でなかったが、杞憂だった。なにせつぐみは一言告げたかと思えば、霞のように姿を消していたからだ。
本当に消えたわけではない。ただ、久留間の冷静になった頭が口撃の標的を探す前に、視線の隙間を縫うようにして禿頭のおっさん(ディレクターらしい)の影に隠れたからだ。その鮮やかな手際に、僕の顔は引きつっていないかと心配になる。
「ねぇねぇ、くさつぅ、さつえいまだー?」
「もう少し待ってくださいね、エミリちゃん」
このエミリとかいう僕の知らないジュニアアイドルは、今回、久留間に呼ばれてきたらしい。久留間……クライアントから派遣されたという神経質そうな男だけれど、チョイスが謎だ。金髪メッシュだぞ。つぐみの対抗馬にするにしても、せめて単色にしろよ。派手すぎるだろ。事前に準備とか、そういうさぁ。
「リリィとわたし、どっちが主やくかわかんないんだったらさぁ、しょーぶすればいいじゃん。グレブレみたいに」
「ゲームじゃないんですから……」
「ね、ね、くるまさん、ダメ?」
エミリがそう、余計なことを言い出した。久留間はこれはもう、八百長でもする気なのか、乗り気な色を目に乗せている。さすがにこれは、口出ししなければまずいだろ。
「では、エミリちゃんの提案どおり、より良いフィルムを正式採用――」
「待った待った。その案で良いかどうかを決めるのは、つぐみだろ。割り込んだのはそっちなんだ」
「――はぁ。時間の無駄ですが。良いでしょう? 空星つぐみさん?」
嫌みったらしくそう言う久留間に、さすがに苛立ってくる。これでつぐみが拒否してくれたら、僕も堂々と一緒に帰ってやろう。
けれど、なんというか、予感がするんだ。この子は最初から、こんなに小さいのに役者だった。こんなに幼いのに、内側は、とっくのとうに女優だった。そんな彼女がこれを拒むかというと……。
「断っても良いんだよ? つぐみ」
僕の問いに、しかし、つぐみは緩やかに微笑んだまま首を振る。十三も離れた相手に、「大人だなぁ」なんて感想を抱いてしまうほど、つぐみは落ち着いていた。
「いいえ、わたしはかまいません。ただ、しんぱんは公平なかたにおねがいしたいのですが……」
「それはそうだろうな。じゃ、監督さんにお願いするのが筋でしょうが、どうでしょうか? 久留間さん?」
「それでは不公平だ。スタッフも二人加えて計三人。適当に選ぼう。君と君! いいね!」
「あ、ちょっと」
適当に、とは言うが……よく見ている。彼らは、久留間がわざとらしく見せつけた高級時計や革靴を見ていた人間だ。もしかしたら、エミリを贔屓すれば、いや、久留間に賛同すれば自分たちも同じようにイイ思いができるかもしれないと、そう考える人間の目だ。
若いスタッフだし、野心もあるだろう。そしておそらくこの久留間という人間は、似たような人間を嗅ぎ分ける鼻が異様に良い、というタイプの人間なのだろう。厄介な。
「じゃ、さいしょにエミリね! イイでしょ?」
エミリはそう、自信満々に飛び出した。しかも、確認をとる相手は他ならぬつぐみだ。この状況でつぐみに聞かれたら、割り込むことはできない。
「はい、どうぞ」
「やった! さっさと終わらせよっと。やるよ、くさつ!」
「も、もう、エミリちゃんったら」
向こうのスタイリストが、エミリの髪を結い上げる。その間に、僕は僕で今回の撮影の詳細を確認だ。
「今回宣伝していただきますトッキーは、夏レモン味です。夏場に召し上がっていただいても溶けにくく、中心部は甘いホワイトチョコでコーティングはレモン風味。口当たりが爽やかで後味が甘いというコンセプトです。シーンは無邪気に遊ぶ兄妹を演出します。子役を起用ということもありますので、なるべく子役さんには無邪気に行動していただき、海さんは構うようにしてください」
「トッキーを前面に押し出さなくても良いんですか?」
「子役さんの無邪気さや無垢さをレモンと絡めます。その上でナレーションをかぶせますので、トッキーを食べたり分けたりしながら、個性に合わせて演技をしてください。そのため、必ずしも兄妹ということを念頭に置かなくても構いません」
……アドリブ多めだな。普通、コマーシャルってしっかりコンテ決められていたりもすると思うんだけど。最初に家族団欒がテーマって聞いていた気がするんだが。
ああいや、そうじゃないか。演技対決なんていう妙なことになったから、自由度の高い構成に変えたのか。兄妹を念頭に置かなくてもいいっていうのも、自由度を高めるためだな。なるべく、公平な構成になるようにしているのか。
なるほど……あのCMプロデューサーさん、有能だな。今も、ニヤニヤするだけの久留間と違って、監督たちと話し合いを進めている。
「こちらがトッキー夏レモン味です」
「うん……うん、おいしい。酸っぱさと甘さの配合がちょうどいい」
だったら、僕だって気は抜けない。そこまで公平に調整してくれているんだ。だったら、どっちもフォローし尽くして、どんな結果になろうとこの商品を視聴者に興味持ってもらえるよう、努力をしないとならない。
僕だってプロだ。この世界を生き抜いてきて、それから、なんだか最近昔のキレを取り戻してきた柿沼宗像を、余裕で超えられるような役者になる。だったらこんなところで、躓いてちゃならない。
(それに)
同じように説明を受けている、つぐみの横顔を見る。真剣そのものという表情で、トッキーを見て、食べて、ちょっと素で驚いている少女の様子を。
彼女は今に至るまで、一度だって弱音を吐いていない。こんな理不尽な状況で、あんなに冷たくされて、それなのに気丈に立ち向かっている。
(五歳だぞ。まだ、たったの五歳だ)
五歳児なんて、普通、あんなに頑張れない。それなのに、つぐみはまっすぐだ。
だったら、その心意気に応えずに、なにが先輩俳優だ。
「では、準備お願いしまーす!」
「はい」
「はーい!」
いつだって、余裕を持って全力に。
柿沼宗像の甥を捕まえて、中途半端な場を用意したあのおっさんには、目に物を見せてやろう。