scene2
――2――
八王子市の郊外にある長屋の前。年代を感じさせるがきちんと手入れされた門よりもさらに一歩手前で、私たちは何故か、足止めを受けていた。どうやら連絡の行き違いがあって、私たちを受け入れる準備に手間取っているようだ。
受け入れる準備とはいったいどういうことなのだろうか? 疑問には思うけれど、スタッフさん方が冷や汗をかきながら小春さんの視線に晒されている様子を見ると、突っ込むに突っ込めない。
「あの、ルル」
「動かないで。日傘がずれるわ。いい? つぐみ。アナタの肌にシミができるようなことがあれば世界の損失よ。そんなの、アタシのプライドが許さない」
「……はい」
撮影のために日焼け止めは塗ってあるけれど、どうやらそれでは安心できないようだ。クールに言い放つルルに、私は、はいと頷くことしかできなかった。
しかしこの感じ……これってもしかしてダブルブッキングかなぁ。もう撮影を始めている、とか? 被った帰れ、とも言いづらいんだろうなぁ。前世ではダブルブッキングなんて――うん、ドッキリのお化け役のブッキングで、タレントさんと他のお化け役をまとめて泣かせ……いや、うん、やめておこう。
「――承知いたしました。では、今日は引き上げましょう。後日正式に抗議文を送ります」
「おおおおお、お待ちくださいっ!」
「当社の女優をこのような場所で延々と立たせることに崇高な理由があるというのでしたら、伺いましょう」
……と、似たようなやりとりもこれで四度目だ。それでも小春さんが残っている理由は、私が帰ると言い出さないからだ。まだまだ新人の身分。ここでこんな大きな機会を逃したくはない。
それに、演技を見て帰れと言われるのであればまだしも、まだ私の何も見られていないのに引き下がるなんて、そんなこと、やれるはずもないのだし。
「なぁ嬢ちゃん、これってどういう状況なワケ?」
「わたしたちをうけいれるじゅんびが、できていないのだそうです」
「ふぅん?」
聞こえてきた声があまりにも馴染みがあったモノだから、反射的に返事をしてしまった。それから、慌てて振り向いて――思わず、息を呑む。
「それってさ、僕も入れないのか?」
緩く癖のあるブラウンの髪、シャープな顔立ちに切れ長の目、ダークブルーの細い眼鏡。ため息とともにスマートな出で立ちで現れたのは、前世で、とてもよく見ていた風貌とそっくりだった。
「かきぬま、さん……?」
「ん? 君ってもしかして、柿沼宗像のファン? 若い頃の叔父によく似てるって、聞き飽きるほど言われたよ」
「あっ、ごめんなさい。ぶえんりょでした」
そう頭を下げると、彼は、あの頃の柿沼さんではほとんど浮かべなかった優しい笑みで、私の頭を撫でてくれる。
「ははっ、気にしないでくれ。光栄だって言ったんだ。あの人は僕の目標で、越えるべき壁だからね。――僕は海。君の名前は?」
「つぐみ――そらほしつぐみです。今日はよろしくおねがいします!」
「うん、よろしく」
クールな見た目の割に、朗らかで話しやすい。叔父……ということは、柿沼さんの甥っ子か。十八歳の若手俳優、という話なので、桐王鶫の死後に生まれた方だ。前世に覚えがなくても無理はない。
それにしても、本当に柿沼さんの若い頃に似てるなぁ。前世の先輩や友人の子供を見る機会なんてなかったから、とても感慨深い。閏宇や玲貴ももう結婚しているのかな? 引く手あまただろうなぁ。
「で、どうなの? 入れてくれるの?」
「はい! あっ」
「ほう? つぐみ様はダメで、海さんは大丈夫、と?」
ああ、小春さんの額に青筋が!
いい加減、口を挟んだ方が良いかもしれない。スタッフさんの視線に宿るのは、不安と焦り、それから恐怖だろう。恐怖の視線をこの私が判別できないはずがない。なら、恐怖の種類を分析して、その恐怖を膨れ上がらせれば、人間は本音を喋りやすくなる。
さて、なるべく素直に、ただ実直に行きたかったけれど――この仕事を真っ当に獲得してくれた小春さんを、こうまで侮られてまで、我慢をしなくても良いだろう。
「あの――」
「そっか。じゃ、僕も帰るよ」
「えっ、そ、それはその」
「――え?」
そう、一歩踏み出した私を制するように、海さんが前に出る。それから告げた言葉は、私たちを動揺させるのには充分だった。
「僕は“期待の新人”空星つぐみとの共演と聞いて相応の準備をしてきた。それが無理だって言うんだったらそれまでだ。嘘をつかれてまで奮う心はない。役者を弄びたいんなら、他を当たってくれ。僕は僕の実力で、僕を欲する場をいくだけだ」
毅然と言い放つ姿に、柿沼さんの姿が被る。柿沼さんもまた、プライドの人だった。理不尽な要求に最初に立ち向かうのは、いつだって柿沼さんだった。
気圧され、息を呑んで後ずさるスタッフさん。あまりの気迫に、二の句を告げないのだろう。
「つぐみ。この辺に良いイタリアンがあるんだ。ランチでもどうかな?」
「わぁ、すてきです。ごしょうばんにあずかります」
そう、とても素敵な笑顔で誘ってくれた海さんに頷く。すると、硬直するスタッフさんの背後から、大きな影が飛び上がって額を地面にこすりつけ、海さんの足下にすがりついてきた。
「――わわわわ! わー! 申し訳ありません、直ぐにお通ししますぅぅ!」
「あ、その話はもう終わったんで。つぐみ、あそこのイタリアンはとくに前菜が秀逸なんだ」
「事情もお話ししますから、どうか、どうかーっ!!」
禿頭の大柄な男性だ。嘘をついているようにも、悪意があるようにも思えない。しかしどうしようかと海さんを見ると、海さんは心底呆れた表情で、それはもう大きなため息をついた。
「どうしようか? 僕はもうイタリアンで良いんだけど」
そう、海さんは私に聞いてくれる。とても機転の利く方だ。私が取りなしたから丸く収まった、と、そう印象づけたいのだろう。なら、子供として、彼の気遣いに乗らせていただくのが礼儀だ。
私は彼の優しい瞳に視線を合わせて、微笑んだ。
「かいさんとさつえい、したいです」
「ん、わかった。つぐみがそういうから、今回は話、聞くよ」
「はぃぃぃ、どうぞこちらへ!!」
ただ、一悶着あるとしたら、むしろここからだ。我慢してくれた小春さんと手をつなぐと、小春さんはどこか安心したように握り返してくれる。
撮影だけで終わるなんて、そういうのはちょっと難しそうだと覚悟をしながら、私たちは海さんとそのマネージャーさんのあとについて、門をくぐった。
土の地面に大きな木、物干し竿に洗濯物、打ち水用の杓と桶。撮影の小道具を整えられている傍ら、撮影準備にセットされたテントの中には、ピリピリとした緊張の空気が漂っていた。
とりあえず、せっかく海さんの背に隠れるような位置なのだから、こっそり会話に耳を寄せてみよう。
「――ですから、クライアントの意向なのですよ」
「しかし、急に言われましても……こちらとしても、手配済みの役者さんを不要になったと追い返しては、信用に傷がつきますので……」
「では、クライアントからの信用に傷がつくのは構わないと?」
「そうではありませんが、プランニングも終わりコンテも通り、スケジュール調整も終わり、いざ撮影当日という段階で出演者を変更するとおっしゃるのであれば、相応の理由がなければ“はいそうですか”と頷く訳には参りません」
うん、察した。海さんをすんなり通そうとしたということは、私の代役がいたということなのだろう。しかし、クライアントの意向ならもうしょうがないというか、制作現場では逆らえるお話でもないような気もするのだけれど……満場一致で帰れと言われるかと思えば、抵抗しているように見える。複雑そうだなぁ。
CM――コマーシャルメッセージの現場には、たいてい、全体の進行役であるプロデューサーと、監督やカメラマンさんといった制作スタッフ。それからクライアント(この場合だとトッキーの企業)からの出向の方がいるのだとか。このクライアントさんからの意見を取り入れながら撮影を行うのだと、よくコマーシャルに出ていた閏宇が教えてくれたことがある。クライアントは神様なのだ。
「あの、阿部P、出演者の方がお越しです」
「ちょうどいい、私からお話ししましょう」
「あっ、ちょっと、久留間さん!」
禿頭の方の言葉に反応してまっすぐにこちらに歩いてきたのは、頬のこけた神経質そうな男性だった。男性は海さんを見て瞳に喜色を浮かべるが、次いで、その背の私を見て片眉を上げ、不快そうに見下ろした。
ちょっとこれ、普通の子供だったらトラウマだろうに。そう思いつつ、そろそろ堪忍袋の緒が切れそうな小春さんを、手を柔らかく握ることで鎮めた。噴火しちゃわないか、ハラハラだよ……。
「お待ちしておりました、海さん。私は『箕崎オリゴ』から出向して参りました久留間と申します」
「初めまして、俳優の海です。こちらが、今日、共演させていただけるという子役の、空星つぐみちゃんです」
「あの、よろしくおねがいします!」
流れるような紹介に、せっかくなので乗ってみる。そうすると、久留間さんはやれやれと言わんばかりに肩を下ろしてため息をついた。
「スタッフから通達がありましたでしょう? 君は部外者なんだ。帰りたまえ」
「つぐみ様、いかがなさいますか? 一方的な契約破棄をお望みのご様子ですが」
「できたばかりのプロダクションが粋がっても無駄だ。まだ仕事は失いたくないだろう? そこまでして、悪役を起用する利点はない」
うーん、それは変だ。だったら、最初から起用しなければいい。そうなると考えられるのは横やりだけれど、誰が、なんのために?
「ねぇー、まぁだー?」
答えが出るよりも早く、答えがやってきてくれたようだ。染色した明るい金髪に桃色のメッシュ。プリントシャツの上からジャンパー。ショートパンツにハイソックス。思わず唸りそうになるほど今風な女の子が、ツインテールを揺らしながら甘い声で久留間さんを見る。
年の頃は七歳か八歳か。歩き方はやや右にずれ。矯正可能な範疇だけれど、重心が揺れているから、レッスンはさほど好きではないのかな。
「あ、カイだ! すっごーい、ね、ね、くさつ! かいだよ! “朝やけ”の!」
声のノビは良い。美海ちゃんほどではないけれど、レッスンすれば絶叫系ホラー被害者の役はこなせそうだ。
あとは音程は? どこまで出せる? 演技は何が得意かな。表情はどこまで作れるのかな。動きは? ジェスチャーは? モーションは? ブレスは? 滑舌は? 間は?
「エミリちゃん、先輩なんだから呼び捨てにしちゃだめだよぉ」
「あ、そっか。今日はよろしくね、かいさん」
ニコニコと気軽に告げるエミリ? ちゃん。草津さんというのは彼女のマネージャーだろう。糸目ひっつめ髪の、気の弱そうな女性だ。
「よろしく、と言いたいところだけれど、今日は僕はつぐみちゃんと仕事をする予定なんだよね」
「つぐみちゃん?」
そう、エミリちゃんは私を見る。綺麗な赤い目だ。ん? 赤い目? ああ、カラコンか。前世の私が二十歳くらいのときに流行りだしたんだよね、確か。私もお世話になったことがある。白いカラコンで。
「こんにちは。そらほしつぐみです」
「んんんー? あー!! ひいらぎリリィ! 海さん、なんでこんなイジワルな子とオシゴトなの!?」
「参ったな。ますますつぐみちゃんと仕事がしたくなるよ」
まぁでも、ちょっとわかってきた。クライアントの中が一枚岩ではなく、私を使いたい人とこの子を使いたい人が居て、今日まで私を使いたい人が話を進めてきたのだけれど、その人が来られなくなったから別の派閥の人が来たということかな。
こうなると、制作スタッフは完全な被害者だな。“竜の墓”も、小さな制作会社だった。収録後も色んな仕事を振ってくれたりと、大企業に吸収されるまでずいぶんとお世話になった記憶がある。なんだか、親近感わいちゃうよね。
「ほら、やはり世間の印象は意地悪さであって」
「お言葉ですがつぐみ様は番宣から好印象を頂戴しておりますが?」
「えー、くさつぅ、イジワルな子よりもわたしがいいよねー?」
「いや待ってください久留間さん。そもそも最終チェックはこれまでの担当の木野山さんですよね? そのときに契約と違うと言われても困ります」
「で、さっさと結論をつけていただかないと、僕たち側としても困ります」
「ねぇねぇかいさんシャシンとってよ。ほら、くさつ、カメラカメラ」
「あのそのえっと、ま、まずいですよぉ、エミリちゃん、ほらー」
喧々囂々という言葉が相応しいだろうか。ルルは助けてくれる風でもないし、小春さんは輪の中だ。だんだんと、海さんにもフラストレーションが溜まってきているのか、口調が荒くなりつつある。
うーん、子供としては出しゃばらない方が良いかとも思ったのだけれど、このまま収拾がつかなくても困る。悪いけれど、仲裁はさせてもらおう。
怒声。
呼吸。
タメ。
苛立ち。
完全に重なり合っているように見えても、常に会話を挟んでいるのは数名だ。喋っている最中であっても呼吸はあり、会話を試みているのなら意識に隙間がある。この隙間を狙って恐怖を呼び起こすために身につけた技術だけれど――このハイスペックボディなら、この人数相手でも、難なく使うことができる。
意識の隙間。
意思の狭間。
呼吸を読んで、意識を縫うように、タイミングを見計らって。手を広げ、極力大きな音が出るように――打ち合わせる。
「そこまで」
ぱん、という乾いた音。音を鳴らす目的の拍手は、まさしく狙い通りに空間を震わせる。すると、全員が、言葉の発し方を忘れてしまったかのように口をつぐんだ。
「ね、みなさん。ひといきついて、おはなししませんか?」
「も――申し訳ありません、つぐみ様。頭を冷やします」
「あ――あれ? わたし、あれ?」
「し――かた、ないな。熱くなりすぎていた」
口々に、手近なパイプ椅子に腰掛ける。私の分は、ひたすら私の髪周りのチェックをしていたルルが持ってきてくれた。ちゃっかり、自分の分も。
さ、これでやっと、落ち着いて話ができそうかな。




