scene5
――5――
(すごいことになった)
凛はそう、カメラをチェックしながら準備をする二人を眺める。白い絨毯にピンクのカーテン。兄である虹と同じ十畳ほどの部屋は、子供二人が立ち回る程度なら十分なスペースがとれる。
つぐみは前回のように髪をアップにし、虹は制服のボタンを緩めて呼吸がしやすいように調整していた。
(つぐみ……)
凛は、つぐみとの出会いを忘れたことはない。父と兄に憧れて目指した子役の場。一人だけ、“きらきら”と輝いていた少女のことを。手を振れば周囲に花が満ち、声を上げれば世界が塗り替えられる。他の人とは違う。どんな巧い人でも、どんな感動的な芝居をする人でも、凛の“目”には、単純な光しか見えなかった。
父は暖色だ。赤や橙、黄色に桃色。兄は虹だ。鮮やかな光彩。けれど、つぐみは違う。まるで人とは違う世界でも知っているかのように、その演技に景色が宿る。世界が塗り変わる、世界が変化する演技。凛の目から見てそうなのだと告げたときの父親の驚きは、凛のことを知っていたからに他ならない。
(つぐみは、ほんとうは、くるしいのか?)
機械に触れるときは、いつだって困っている。
友達と過ごすときは、いつだって楽しそうだ。
演技を語るつぐみは、いつだって輝いている。
(わたしは、つぐみになにができる?)
その影で、時折、とても寂しそうな横顔を見せる。
その裏で、時々、とても辛そうな瞳でみんなを見る。
その横で、時に、つぐみが泣いているような気がして。
「じゃ、始めるぞ」
「うん。りんちゃん、おねがい」
「わかった。シーン、よーい――」
自分にできることはわからない。わからなくても、諦めたくはない。今はただ、兄に頼ることしかできなくても、つぐみを思う気持ちで負けたくはなかった。
「――アクション!」
だからせめて、凛は祈る。
(おねがい、つぐみをたすけて)
友達を、救いたいと。
――/――
凛の合図とともに演技を始める。行き当たりばったりで、プランも何もあったものじゃない。でも、だからこそ、不謹慎にも燃えていた。演技で誰かを助けるなんて初めての経験だ。
でも、だからどうした? そんなのが、怖じ気づく理由になるのか? はっ、上等。
未知を演じるのが、役者だろうが!
「どこ行くんだよ」
踏み出す。声は平坦に。あいつが逃げ出さないように、怒りも悲しみもあの淫行教師への憎しみも、全部全部封じ込めて。そう、詰め寄るオレにつぐみは、教室の扉にかけた手を止めた。
――夕暮れ。放課後。チャイム。つぐみを中心に生まれるビジョン。寒そうに震える肩、そこにあるかのようにかけられた手。吐息が白く散る、錯覚。
「君には関係ないよ」
大人びた声だ。あの、親父とやった演技の設定になぞらえた、十五歳の少女を思わせる声。吐き出した声があまりに痛そうだったから、オレは、あいつの肩を抱きしめて――じゃない。今、呑まれたらあいつの思うがままだ。
というか、なんだってんだ。前よりも、明らかに巧くなっている。でも同時に、見せつける世界とあいつそのものの、ちぐはぐさに拍車がかかっていた。
「クラスメートが不純異性交遊しようとしてんだ。気にしないでいられるかよ」
「なにそれ? 思春期? ただ、授業の質問に――」
「やっぱり、先生のところじゃないか。隠す必要ないよな」
音を立てて廊下を歩く。/凛の部屋の絨毯なんて、どこにも見えない。
振り向くつぐみと、視線が絡む。/同じ視線? 背丈が、揃っているかのような。
追い縋りつぐみの側まで近づく。/両膝をついて視線を揃えたはずなのに、駆け寄ったよう。
「関係ないよ、君には、関係ない」
「ふざけんな。先生には、恋人がいるんだろ? お呼びじゃないんだよ」
「関係ない、関係ないッ、関係ない!!」
伸ばされた手が振り払われる。でも、だからどうした? 今、この場で諦めたら、もう二度と、こいつの本心はわからない。
もっと、深くだ。もっともっと、深く潜らないとならない。上辺だけの演技で、こいつの心を暴けると思うな。表面だけの言葉で、こいつの中に潜れると思うな。意思のない台詞じゃ、こいつに勝つなんて夢のまた夢だと思い知れ、夜旗虹!
(だから、妹の頼みで、妹の親友を救う兄は、これで終わりだ)
息を吸う。
――オレはただ、あいつを助けたい。
息を吐く。
――オレはただ、あいつが、あの教師のせいで傷つくのを、見たくないんだ。
理由? そんなの、決まってる。
「関係ない訳あるか」
「なんで? 私がどうなろうと、君には関係ないッ!!」
関係ない訳あるか。
誰よりも優しくて、純粋だから悩んで、傷つけたくないから傷つこうとして。
ただ、愛だの恋だのに溺れているだけってんなら、なんで。
「じゃあ、なんで泣いてんだ」
「え?」
つぐみは困惑して、己の頬に手を当てる。そこに、涙が流れてなんかいなかった。でも、震える手が逃げ出してしまわないように、引き寄せる隙にはなった。
「なっ」
「強がるなよ。強くなくたって、良いんだよ!」
「わ、わたし、ッ離して!」
「叶わない恋をしちまったんだったら泣けよ! 諦めたくないなら、叫べよ! 自分の体一つも大事にできないで、おまえの心を誰が大事にできるんだ!? おまえの恋を穢してんのは自分だって、気付けよ!!」
小さな肩だ。こんな小さな体で、悩んでたのか。こんな細い体で、苦しんでいたのか。
「うるさい、うるさいうるさいうるさい! 先生が私のすべてなの! 先生だけいれば良いの! なのに先生は、好きでもない女のことばかり私に見せつけて!」
叫ぶ。悲痛な声だ。
その声が――唐突に、沈む。
「だから! ――ねぇ、だったら、私がもらってもいいじゃない? がんじがらめに動けなくして……ふふ、ゆっくりと、貪るように、食べてしまうの。素敵でしょう?」
不意に、“ここだ”と思った。
光を映さず、揺れることもなく、ただ見開かれた瞳。目の奥で渦巻くコールタールのように泥々とした狂気。
きっと、このままいけば、この物語の終着点は、オレが無力感に打ちひしがれ、彼女はオレを振り払って狂気に落ちることになるのだろう。唐突に、そんな未来のエンドロールが見えた、気がした。
この闇に委ねれば、最高の舞台ができる。
「――――な」
それで、こいつを救えるのか?
笑わせるな。オレは、こいつを救うためにここにいるんだ。
「ふざけるな」
「え――?」
困惑。
あるいは、心からの動揺。
「行かせない」
「なん、で」
「なんで? はっ、わからないなら、教えてやるよ」
抱きしめていた肩を突き放す。胸ぐらを掴むようにして引き寄せて、揺れる瞳を真正面からのぞき込んでやった。
「オレが、おまえのことが好きだからだ」
「っ」
「愛した女が破滅するのを、指をくわえて見ていられるほど、お人好しじゃないんでね」
「結局、虹君だって、私が欲しいから止めてるだけなんだ。抱かせてあげようか? それで、満足でしょう?」
震える唇をごまかすように、つぐみは身をよじって目をそらす。けれど頬を掴んでもう一度目を合わせてやると、憎々しげにオレを睨み付けた。
ああ、それでいい。アイツを見るな。闇を見るな。余分なモノを見るな。オレを見ろ。
「違う」
「違わない」
「違う」
「どう違うのよ!」
「ぜんぶ違う」
「意味わかんない」
「意味わかんないからダメなんだよ」
頬に手を寄せる。細い首筋に、顔を埋めるように、優しく抱きしめた。
「オレのモノになんかならなくてもいい。前みたいに、やることなすこと、全部楽しんでくれていたら良い。嬉しかったら笑って、悔しかったら怒って、悲しかったら泣いてくれたら良い」
「虹、君」
「ありのままのつぐみが、幸せなら、それでいい」
見上げた先には、大粒の涙を流すつぐみの姿があった。十五歳にもなって、子供の頃より泣くんだなって、そんな風に思った。
「無理に大人にならなくて良いんだ。オレたちはまだ子供なんだぜ? 大人になるまであと五年もあるんだ」
「っ、うん」
「焦らなくたって良いんだ。きっと、世界は、オレたちが思っているより優しいから」
「わ、わた、わたし」
手のひらで、彼女の涙を受け止める。
そうしたら、涙に濡れた青い瞳の奥で、つぐみを見つめるオレが、ずいぶんと愛おしそうに笑っていた。闇に落ちれば楽になる。その裏側の純真はきっと、苦しくて辛い道なんだろう。
それでも、苦しくてもしんどくても――それでも、二人なら、なんとかなるんじゃないか。一人きりで戦わない道だって、あるんじゃないか。誰かを信じることは難しいし怖いけれど、それでも、二人なら。
だから。
どちらからともなく、瞳を閉じて。
「ちょっと凛ー、虹がどこに居るか知らな――――――――――お邪魔しましたー」
ぱちり、と、目を開いた。
「……」
「……」
つぐみはそっと一歩離れ、こほん、とわざとらしく咳をする。それから上品に襟元を正して、凛の方を見た。
「あ――カットで」
「んんっ……おそまつさまでした」
小生意気にも頬に一筋分だけの朱をさして、何事もなく離れていく。固まったまま動かない美海と珠里阿を起こしに行ったんだろう。
オレはというと、まだ、身動きがとれない。とれないながらもギシギシとSEがつきそうなていたらくで体を起こして、震える手でドアノブに手をかけた。
「これで勝ったと思うなよ」
かっこ悪い捨て台詞だ。けれど今は、そんなことを気にしている場合ではない。立ち上がって、ドアを開け放ち、廊下を走る。
「お袋、まずはオレの話を聞いてくれ――――!!」
間抜けな叫び声を上げることで、自分の中の悶々とした気持ちを振り払う。まだ五歳の女児だ。そんなことはわかってるし、珠里阿や美海に対してもなにも思わない。つぐみにだってそうだった。
けれど、まだ、頭に刻みついているのは十五歳のあいつだ。まるでそれが、オレの中の何かを変えてしまったようで、苛立つ。
(ああ、もう、なんだってんだ!)
苛立つ。苛立つ、けれど、同時に思う。
(引っ張り出したぞ。だからあとは、おまえ次第だ、凛)
託しながらも、歯がゆさは消えていかない。だからせめて目の前の問題を片付けようと、嬉々として親父に電話をかけようとしているお袋に飛びついた。