ending
――ending――
「シーン――アクション!」
監督の声で意識が切り替わる。私の前には、美奈帆を階段から突き落とせと命じたのに、直前で逃げようとする奈々の姿があった。
「なな」
「ひぅっ、あ、ああ、あ」
私の声に怯えて、震える足で逃げようとする奈々の姿に、嗜虐心が湧き上がる。せっかく虫から昇格してあげたのに。せっかくトモダチにしてあげたのに。どうして、この程度のこともできないのだろう。
失望。それから、虫が増えるコトへの暗い悦び。みんなみんなみんな、絶望の底で踊れば良いと、心の奥底が叫んでいる。
「ねぇ、どうしてやらないの?」
「そ、それは」
「あなたがやらないのなら――あなたのお父さんにやってもらおうかしら?」
「っ、でも、でも、もうやだよぉ、リリィちゃんっ!!」
泣いて足下に縋る奈々を見ていると、荒れ狂う炎のような熱が、快楽となって背筋を駆け上る。愛おしい憎い愛おしい憎い愛おしい可愛い憎い憎い憎い。
「なら、もう一度だけチャンスをあげる」
「え――?」
「かいだんから、とびなさい。ぴょーんって、ぶざまなカエルみたいに」
「っ」
奈々は私の言葉に目を見張り、下唇を噛み、震える足で立ち上がる。ふらふらと階段に向かって歩けば、その下はもう奈落の底だ。
ああ、なんて楽しい、落下劇。轢かれて死んだカエルみたいに、奈々が潰れて死んでゆく。そう思うと、快楽が喉からあふれ出しそうになった。
「ななちゃん、ダメ!!」
「は?」
後ろから、風のように走ってきた女。こんなことをするのはあの忌々しい新人教師か、それとも明里か。まさか楓なんてことはないだろう。
そうして良く見れば、奈々を引き上げたのは――美奈帆だった。私のいじめに俯いてばかりの、おどおどと情けない羽虫だったはずの、美奈帆だった。
「あなた、なんのつもり?」
「もう、リリィのすきにはさせない」
「はぁ? 虫のいうことなんてだれが――」
鋭い目。奈々を背に庇い、美奈帆は一歩前に出る。普段は丸めている背筋をぴんっと伸ばすと……美奈帆の背は、僅かだが、私たちの誰より高い。
「だれも、あなたには傷つけさせない。わたしのともだちは、うばわせない!!!!」
宣言は強く、忌々しく、響き渡る。奈々の手を引いて、美奈帆は、立ちすくむ私の横を抜けて走り去った。
「なによ、なによなによなによ――虫のくせに、虫のくせにッ……ゆるさない」
握りしめた拳が、真っ白になる。憎悪が……あるいは恐怖が、胸の内から溢れた。
「――カット!! いや、素晴らしい! 良い演技だったぞ、みんな!」
監督の声でスイッチが切り替わる。廊下の向こうを見れば、肩で息をする美海ちゃんが、奈々役の恵鈴ちゃんと一緒に私を見ていた。
ぴんと伸ばされた背筋に、これまでみたいな気弱さは感じられない。ただ長所として残った控えめな姿勢と、優しい笑顔が、彼女の周りを彩っているようにさえ見える。
「つぐみちゃん!」
名前を呼んでくれる美海ちゃんに、嬉しくなって手を振る。あの笑顔を守れたのかと思うと、少しだけ、誇らしかった。
――結局、あの女は警察へと引き渡された。ただ、とても不思議なことにニュースにはならず、ただ続報だけが小さく届けられた程度だ。謝罪に来られた旦那さんによれば、単身赴任中にやられたことらしい。もっと調査してみれば、子供へのDVじみた過干渉と浮気の形跡まで見つかり、離婚協議に入るのだとか。もっとも、子供を見るだけで泡を吹いて倒れるので、当分は話にならないようだけれど……少なくとも、子供に対して何かすることはできないだろうね。
なんでもあの女は、近隣で起こった女児暴行事件の、犯人らしき男の目撃情報でざわめく警備員の隙を突いて侵入したらしい。ご丁寧に身分証まで偽造して。野外ロケでなければそれでも侵入は難しかったのだろうけれど。そのため、現在はとても警備が厚くなっている。
美海ちゃんともちゃんと、仲直りすることができた。ただしばらくは暗闇が怖いらしい。申し訳ないので、夜の時間の私の電話回線は、常に美海ちゃん専用だ。
私は、といえば、それはもう盛大にご心配をおかけした。それはもうぎっちりと絞られた。小春さんを押し止めたことが発覚したせいだ。あんまり今生の両親に心配かけるのも忍びない。気をつけよう。できるだけ。
「あの、こはるさんは……」
「わかっているわ。本人がどう思うかはともかく、罰しはしません」
「っありがとう! マミィ」
「ただ、ダディには自分でちゃんと説明するのよ。いいわね」
「はぁい」
父は現在仕事に忙殺されていて、なかなか帰ってこられないようだ。最近も、深夜に帰ってきて早朝に出勤する。私の次のお仕事までには、全部終わらせると意気込んでいたらしい。
だから母も、私の無事が確認でき次第、父に仕事を片付けてから会いに来てあげて、と、言ってくれたようだ。私の就寝前には帰ってきてくれるらしい。
「もう二度と、危ないことはしないで。あなたがいなくなってしまったら、マミィの胸は張り裂けてしまうわ」
「……うん。ごめんなさい、マミィ」
「いいの。あなたが無事で、本当に良かった」
抱きしめてくれる母の背に手を回す。ぬくもりが、むずがゆくも心地よい。
(本当に、迷惑かけないようにしないとなぁ)
でも、前世では得られなかったぬくもりだ。少しだけ、このままで。
なんて、子供みたいなわがままに、母に見えないように苦笑する。私も早く立派な女優……できればそう、ホラー女優になって、両親を安心させてあげないと。
優しさの中。疼く心の理由もわからず、私はただ、そんな風に思った。
――/――
仕事を切り上げて急いで帰宅し、音を立てないように屋敷を歩く。控えめにノックをすると、ゆっくりとドアを開けた。
「ミナコ、つぐみは?」
「あなた……。はい、すっかり眠っています」
「そうか……」
椅子を引き寄せてミナコの隣に並ぶ。ベッドの中で寝息を立てるのは、ぼくたちの大切な天使。つぐみだ。何度も何度も確認をしたはずなのに、怪我のないことに安心してしまう。
このぼくがこうまで子煩悩になるとは、思いもしなかった。まだミナコと敵対関係にあったあの頃のぼくが知れば、笑うだろうか、蔑むだろうか。この天使を知らない哀れな過去のぼくに、何を言われても痛くはないが。
「つぐみ……」
頬を撫でる。暖かい。柔らかく、人の体温がある。
「ミナコ、コハルは?」
「春名が再訓練に当たらせていますが、あれは温情でしょうね」
「ああ。あれはコハルのせいではないよ。主人に忠実であれと教育した故だ。助けを求めないとは、普通は思わないからね」
「ええ。訓練でもしていなければ、思い詰めかねません。かといって、いつもどおりつぐみに接することができないのなら、距離を置かねばなりません」
「彼女は実直だ。ハルナがなんとかしてくれるだろう。コハルの罰も必要ない。主人が目の前で傷つけられる以上の罰なんて、存在しないからね」
事件後、コハルは落ち着いてつぐみを送り、その後、取り乱したという。つぐみを気遣える人間としては一級品だが、物申せる人間も近くに居た方が良いのかもしれない。
つぐみの心労が心配だからあまり多くの人を侍らせたくはないが……つぐみの友人たちの中にその役目を負える人間がいるのであれば、不要かな。
「ミナコ、つぐみはやはり」
「ええ。おそらく、ですが、今日話をしてみて確信しました」
「……解離性同一性障害、かな」
「おそらくは、明確な分裂ではなく、成長した自分を想定した意識に価値観を寄せているのでしょう。傷つけられた幼い心を、守る、ために」
ミナコの肩を抱き寄せて、つむじに唇を落とす。悔やんでも悔やみきれないあの女。アレがつぐみを階段から突き落としたことで、幼い心を封印してしまったのだろう。自分を見つめる機会になればとやりたがることをやらせてみた。それそのものは成功だったと思う。
だがまさか、あんなところで、似たような目に遭うとは……。困難が沸いて出てくるのは、まるで、若い頃のぼくらのようだ。
「たとえ、どんな結果になっても、どんな人格になっても、ぼくらはつぐみの味方だ。そうだろう? ミナコ」
「ええ、ええ。違いません。なにがあっても、私たちはこの子の味方です。ただどうか、この子が心穏やかに過ごせるよう、それだけを願っています」
医者は当てにできない。専属医師にデータを見せて助言を請うてはいるが、つぐみには、君は病気だなんて言うつもりはない。その言葉が彼女を深く傷つけるであろうコトは、想像に難くないから。
「愛しているよ、ぼくらの天使」
髪を撫でる。ほのかに微笑むつぐみは、本当に、天使か妖精のようにかわいらしい。
きっと、この子にはこれからも色んな試練が降りかかることだろう。それを乗り越えるのは、結局は、つぐみ自身でなければならない。
だからせめて、大人の汚い世界は、ぼくが押し止めよう。彼女に、汚濁を見せるつもりはない。向き合うべき闇も、己の築いたもののみであるべきだから。
(だから、どうか)
君が笑って過ごせる未来を、夢見させておくれ、ぼくたちの愛しい天使。
――Let's Move on to the Next Theater――




