scene4
――4――
夕顔美海は昔から、引っ込み思案な少女だった。もっと幼い頃は大柄な父の背に隠れて、友達ができると珠里阿や凛の背に隠れる。自信がなく臆病で、それでも、夢を持った少女だった。
父親と並んで視た、母のドラマ。普段はのほほんぼんやりとしている母が、テレビの向こうでは妖艶で色っぽく、美しく魅力的な“大人の女性”だったのだ。
『ねえ、おとうさん。わたしも、こんな風になれるかな?』
『役者にかい? ああ、なれるよ! だって君は、夏都の娘なんだから!』
臆病で。
人見知りで。
自信がなくて。
おどおどしてしまう。
そんな自分を変えられる。演技の世界なら、役者の世界なら、本物の自分とは違う自分になれるのではないか。母のように、ものすごい役者になれるのではないか。
そう夢見て、努力を重ねた。うまく声が出なくて嫌になったときも、歩き方がきれいにならなくてショウルームの前で泣いたときも、早起きが辛くて投げ出したくなったときも、最後には立ち上がって努力を続けてきた。
ただ、あの日、父と並んで視た夢にたどり着くために。
(くるしい)
それなのに、今、こんなにも苦しい。
(くるしい)
胸を押さえて、蹲って、目元を拭う。後から後から溢れてくる涙が、おまえに泣く資格があるのかと責め立てているようで、美海は己の涙が憎らしくなっていた。
(くるしいよ、―――――)
縋る資格なんて、ないのに。そう、美海は一人、自嘲する。
(……いま、何時だっけ)
どれほどそうしていたのだろう。振り向いても、自分を追う人間はいない。きっとあの心優しい少女にも愛想をつかれてしまったのだろう。ああして友達を拒絶した自分には、それくらいの方がちょうど良い。美海は、痛む心を無視して、優しく笑う少女の姿を瞼の裏からかき消した。
「もどろう……」
呟いて、歩き出す。まだ空は茜色だ。さほど時間は経っていないのかもしれない。足取りは重く、動かすのも辛い。それでも戻らなければならなかった。家族やマネージャーに迷惑をかけてしまう。ただでさえ自分のせいで遅れている撮影が、もっと遅れてしまう。
……だが一方で、自分が傷つけた少女が自分を軽蔑してくれるのなら、それは、美海にとっては救いになるような気がした。
「――……!」
「……!!」
不意に、声が聞こえて立ち止まる。階段の方からだ。美海はいくらか逡巡して、そちらに足を向けることにした。自分を探しに来た声だったら、迷惑をかけてしまうからだ。
歩いて、近づいて、やがてその声の方角に見知った銀髪を見つけてしまい、美海は壁の影に身を隠す。
(つぐみちゃんと……女の人?)
夕暮れの差す校舎。背を向ける女性と、階段の側に立つ、喧嘩別れした少女――つぐみの姿。目をこらしてよく見ると、女性は、先ほど自分たちに移動を告げたスタッフのようだった。
美海は、目はさほど良くないが、聴覚なら人よりも優れている自信があった。だから良く、耳を澄ませて。
「あんたなんか、居なければ良かったのよ!」
息が、止まった。
(え……なん、で)
それは、いつかの美海が願ったことだ。いつかの美海が、考えてしまったことだった。もしもつぐみが居なければ、美海は今頃どうなっていたのだろうか。
これまでのように優しい友達に囲まれて、これまでのように目標に向かって努力して、これまでのように――。
(ち、ちがう、そうじゃなくて)
悪い妄想を頭から振り払う。なにかの勘違いかもしれないし、そうでなくともつぐみは強い。きっと、自分なんかがなにかしなくても、自分の力で切り抜けることだろう。
難しいオーディションでも、珠里阿のときでも、つぐみはそうだった。自分よりも一つ年下だとは思えないほど大胆に、力強く、問題を解決していった。
(だから、だいじょうぶ。今だって、きっと――)
そう、少しだけ身を乗り出す。差し込んだ茜色の光が角度を変えると、逆光になっていたつぐみの顔がよく見えた。見えて、しまった。
(――え?)
青白い肌。
震える手。
硬直する足。
恐怖に怯える、目。
(なん、で?)
つぐみの演技は、一番身近でよく見ていた。だから、美海はなんとなく察する。つぐみが演技ではなく、本気で怯えているということを。
(どうしよう、助けをよばないと)
でも、本当に助けが必要だろうか? あれも実は演技で、どうにかしてしまうのではないだろうか。もしも本当に怯えているのだとしても――。
「あなたの共演者の子供たちだって、あなたがいなくなればいいと思っているわ! そうでしょう? だって、あんたがいる限り、自分たちは凡人なんだから!!」
そうだ。つぐみがいる限り、美海はいつまでも変わることのできない、大嫌いな自分のままだ。でも、もし、つぐみがいなければ? ここで、見捨ててしまえば?
そうすれば、美海は、いつもの美海に戻ることができる。そこに、つぐみのいない日常を手に入れることができる。
(そうだ。わたしは、つぐみちゃんを――)
『みみちゃんは、優しいね』
声が、不意に、蘇る。いつだったか、凛のいたずらで蹲ったつぐみの背をさすったとき、つぐみは美海にそういった。
(わたしは)
『みみちゃんとともだちになれてうれしいって思ったことは、なんどもあるよ』
(わたし、は)
『ともだちにやさしくするのは、あたりまえだよ』
いつだって、つぐみは優しかった。いつだって、つぐみは美海を助けてくれた。本当に、自分が大切だと思ってくれているような笑顔で、見守ってくれた。
それは美海が、醜い自分から逃げるために目をそらしていた、つぐみの真実の表情だ。本当の、心だ。
(あ)
身を乗り出しすぎて、つぐみと目が合う。でも、つぐみは助けを請わなかった。
「(に……げ……て)」
怯えながら、震えながら、動いた唇。怖くて仕方がなくても。助けを呼ばなかった。
「――ほんとうにやさしいのは、つぐみちゃんの方だよ」
息を吸う。
変わりたいのなら、誰かを排除するのではない。
変われなくても良いから、と、美海は願い実行する。
「だれか――っ!!!!!」
張り上げた声は、びりびりと空気を震わす。走り出した足は、ただ、驚きから固まる女性の足に向けられた。
「なっ、おまえッ」
「つぐみちゃんから、はなれろ!!」
驚く女性の足にしがみつき、美海は叫ぶ。
「つぐみちゃんは――つぐみちゃんは、わたしのともだちなんだから! つぐみちゃんはすごくて、強くて、かっこよくて、かわいくて、やさしい、わたしのともだちなんだ!!!」
「くそ、離せ!!」
「やだ!!」
「っ!?」
「はなしてなんか、やるもんかぁぁぁぁっ!!」
振り回されて、眼鏡が飛んで、尻餅をついて、それでも立ち上がる。すると、女は怒りにまかせて美海につかみかかってきた。だから、美海は笑ってやるのだ。精一杯の強がりと、大切だったと気がついた、もうやり直せないかもしれない友達に、たった一言を告げるために。
「(にげて)」
ただ、思うがままに告げて、美海はぎゅっと目を閉じる。自分がどうなっても、友達だけは助けるために。
「この小娘がァァァッ!!」
「させない」
そんな、美海と女の間に、小さな影が割り込む。影は女に突き飛ばされて、階段を転げ落ち――
「そ、そん、な」
「ひ、ひひ、やった、やってやった」
――暗がりの踊り場に、勢いよく落下する。鮮やかに、生き生きとしていたはずの銀髪が蜘蛛の巣のように広がると、つぐみは力なく身じろぎし……やがて、痙攣とともに動かなくなった。
「い、いやぁあああああああああああああっ!!!!」
夕暮れと夜の狭間。
黄昏時の校舎。
「う、ぁ、ぁぁ、やだ、やだよ、つぐみちゃん……つぐみちゃん!」
もしも、醜い嫉妬を向けなければ。
もしも、つぐみに正面から向き合っていれば。
後悔が、美海の胸を痛めつける。
「――」
そんな、無限にも思える時間の中。不意に、美海はなにかの音を拾う。掠れるような、軋むような、這うような、鳴くような音だ。
「ひっ」
怯える声。つぐみを突き飛ばした女性の顔が、恐怖に歪む。慌てて視線の先を追いかけると――銀髪の間から覗く青い目が、左右別々の方向へと、ぎょろりと動いた。
「■■ァ」
動かなくなったはずの小さな体が、指先から、くねるように持ち上がる。その現実感のない光景に、美海と女はびくりと震えた。
指先から肩。マリオネットを持ち上げるように、ゆらゆらと揺れながら動く腕。逆再生でもしているかのように持ち上がり――持ち上がりきらず、ブリッジの姿勢でぐにゃりと止まる。
「ぁ■■アア■ァ」
「え――?」
「縺オ縺」縺九?縺、?――!!」
そうして――くらやみから、影が、うごめいた。