scene1
――1――
鬱蒼とした森林の狭間から照らす日差しが、木製の校舎に差し込む。物語の舞台となる私立四季大付属小学校の撮影は、地方の小学校を借りて行われる。すなわち、今世初めての地方ロケだ。
カメラリハーサルを終え、ランスルー(本番同様に途切れなく一連の流れを行う)も終えると温まった体と魂が、演技を求めて熱く猛る。やっぱり、生まれ変わってもこの高揚感は忘れられない。早く、早くと叫びだしそうな体を、理性でぐっと押しとどめた。
私の今の格好は、ダッフルコートに目深にかぶったフードという出で立ちだ。体のシルエットがわからないため、仕草と発声で中性的に見せることができる。
「いよいよねぇ。よろしくね? つぐみちゃん」
「はい! よろしくおねがいします、みずほさん!」
物語の主人公、新任教師の“水城紗那”を演じる相川瑞穂さんが、にこやかに声をかけてくれた。こういう方が主人公でいてくださると、子役の雰囲気が和んで助かるんだよね……って、今は私も子役か。
スーツ姿の瑞穂さんが、学校の敷地内で迷う最初のシーンだ。小学校の制服の上からダッフルコートを着ているが、制服は見えないように工夫されている。それでもわざわざ着込むのは、演出家のこだわりというやつだろう。
「最初は三カメ寄りで。タイミングは?」
「大丈夫です!」
監督がきびきびと指示出ししているのを横目で見ながら、少しずつ、私は自己に内没していく。リーリヤという謎の少女。水城紗那に導きを教え、ときには助け、助けられる正体不明の人間。
カメラマン、音声さん、照明、タイムキーパーの台本を確認する仕草。だんだんと周囲のスタッフの姿が意識の外に薄れて消えて、世界には監督と相川さんと私だけになる。
そして。
「本番です」
霧の向こう、深い闇に落ちるように、監督の姿さえ薄れ。
「よし、やろう。シーン――」
最後には、カチンコ(カチンとなる板)まで、すべてが消え失せた。
「――アクション!」
さて、どうやら誰か迷い込んだみたいだ。
優しそうな人だ。だったら、こんなところにいてはいけないね。
声をかけて、助けてあげよう。
これ以上あの子が、誰かを傷つけてしまう前に。
――/――
森の中、オレの合図で本番が始まる。入念なリハは行われた。だがそれで、スイッチの入った彼女の本質を出し切れるなんて、思っちゃいない。
「三カメ寄り」
「三カメ寄りです」
森の中からにじみ出るように、道に迷う相川の前に現れるつぐみ。相川が音もなく現れたつぐみに驚いていると、反応の隙間に入り込むように台詞を告げる。校舎の位置、職員室の場所。丁寧な対応。台本どおりだ。
「あそこは魔くつ、悪霊のすみか」
「……え?」
「気を抜くと、こわーいお化けに――食べられちゃうよ?」
「っ」
ただ一つ、オレはつぐみにこう言っていた。“やりたい演出があれば、やってみて構わない”。倉本Pや演出家の浦辺さんとも相談して決めたことだ。するとつぐみは、このシーンで、なるべく近づいて語りかけたいと言っていた。
リハーサルでは普通に歩いていたように見えたが、足首まで隠れるダッフルコートと、足首を隠す芝は、一つの妙技を見せてくれた。地面を文字どおり、滑るように移動。相川の驚きの隙間を縫うように一言告げて、本当に、森に消えたようにいなくなった。
「あ、れ? ……あの子は、いったい?」
カメラワークが遠のき、ドローンの映像に変わる。校舎一帯を不気味なものであるかのように映し出す演出だ。
映像チェックに入ると、そのカメラワークの映像を、つぐみはきらきらとした目で見ていた。ダッフルコートを脱いで髪を整えれば、柊リリィの完成だ。上品に髪を編み込むと、なおさら、上品でお金持ちといった雰囲気が増す。
小等部の制服は、女子は白のワンピースで男子はダークグレーの詰め襟だ。一応、男女で校舎が違うという設定になっている。同じく次のシーンのために制服に着替えている凛もまた、怜悧な外見が相まって演技中はお嬢様のように見える。とはいえ今は、凛の裾を引っ張って興奮するつぐみを生暖かい目で見ているため、クールな印象は受け付けないのだが。
「ほら、りんちゃん、ラジコンがさつえいしてる! しかもちゅうけい!」
「うんうん、そうだな。でもあれはドローンっていうんだぞ」
「どろん????」
「……つぐみって、やっぱりばばくさいよな」
「うぐっ……そそそそ、そんなことにゃいよ?」
「うんうん、そうだな。そういうことにしておこう」
こうしてみれば、普通の女の子なんだけどな。しかし、ご実家はたいそうな資産家らしいが、ドローンを知らないのか? 世間知らずのお嬢様というには、演技ができすぎるのだが……。
「平賀監督、次のシーンです」
「あ、ああ。では、移動します」
職員室で新任教師の水城紗那が挨拶をして、同僚の黒瀬公彦が指導役に選ばれる。校長の絹片幸造は、そんな彼らを不安そうに見送る、というシーンを撮影する。さすが、あの名優柿沼宗像さんだ。本読みの時より遙かに洗練された演技は、他を圧倒するほどだといえよう。
そのまま、今度は教室内のシーンに移る。この場面で初めて、柊リリィという役の狂気が描かれることになる。物語としてみれば、こんなのは序章に過ぎないのだが。
「ネクタイゆがんでるぞ、つぐみ」
「そ、そうしているとしんこんさんみたいだね」
「けっこんするか? つぐみ」
「けっこんはできないとおもうよ、りんちゃん……」
このシーンに登場する主要人物は、朝代珠里阿演じる夏川明里以外の三人だ。彼女は、初日は風邪で学校を休んでいる設定だ。そのため、ほかのシーンの撮影のために、脇に控えていた。
ほかは、台詞はあまりないクラスメートを演じる子役だ。教師が来るまでの間、生徒たちは柊リリィ主導のいじめを、見て見ぬふりをする。
「よし、そろそろ本番だ。配置についてくれ」
「はい!」
「はい」
「は、はいっ」
子供たちがスタート位置に立つ。まずはクラスメートの子役がいじめを受けていて、それを勇気を振り絞った子役、夕顔美海演じる春風美奈帆が助けに入り、目をつけられるシーンだ。
ギリギリまで仲良く話している三人だが、大丈夫だろうか。ずいぶんと楽しそうだが……まぁ、信じるしかないか。
「シーン――」
深呼吸をする美海、人という字を書いて飲む凛、いつもどおりのつぐみ。
「――アクション!」
そのつぐみのいつもの表情が、たった一言で抜け落ちた。
「はぁ。わたしがあなたに、なんて言ったかおぼえているかしら?」
いたずらをした子供を諭すように、つぐみは、何も言えない女子に言い聞かせる。奈々、という役の女子だ。
「そ、それは」
動揺。顔色をうかがうように柊リリィを見るシーンだ。けれど、本来はおびえたように目をそらすはずなのに、奈々はリリィを見つめたまま動かない。NGか? いや、まだ早い。やらせてみよう。
台本には、『おそろしさから目をそらす』と書いてある。なるほど、今のリリィは恐ろしくはない。和やかに微笑んで、続きを促しているだけだ。
「しょうがないなぁ、じゃあ、もういちどだけ言うね?」
優しい笑み。かわいらしい声。美しい仕草。
「こくばんに、“しね”ってかけと言ったのよ」
それらすべてが、反転する。
「ひっ」
目をそらす奈々。色を宿さない瞳で見下すように言われたら、怯えもするだろう。奈々を演じている子役も、オーディションを勝ち抜いてきただけあって、演技が下手と言うことはない。だが、やはり彼女には劣る。情景を連想させるような、イメージが流入してくるような、名優と呼ばれるような人間が持つ技術には遠く及ばない。
とはいえまだ子供だ。それが当たり前だし、それで良い。一部が尋常でないだけで、大人でもそんな役者は少ない。
「なんでまもれないの?」
「そん、な、こと、できないよ」
「ねぇ、だって書くだけよ。白いチョークですそをよごすのがこわい? せんせいにみとがめられるのがこわい? ああ、それとも、あなたの大好きなおとうさんに、怒られるのがいや?」
たたみかける言葉。一つ一つ、反応を潰すように紡がれる怒濤の台詞は、だんだんと、奈々の意気地を削る。
……まるで、一本一本丁寧に、蜘蛛の足をもぐように。
「それって」
頬に手が寄せられる。
――奈々の震えを感じると、嗜虐的な笑みを浮かべ。
ツメを肌に食い込ませ。
――痛みよりも恐怖が勝ち、震えが足に伝わった。
「わたしを敵にまわすよりも、こわいこと?」
空虚な目。色の抜け落ちたガラス玉のような目が、奈々を捉える。
「かわいそうに」
「え?」
「あなたの大好きなおとうさんも、あなたといっしょにいられなくなっちゃうね?」
父親というキーワード。クラスで権力を持つという柊リリィの体現。想像するだろう。家に帰ったとき、大切な父親が絶望の表情でうなだれている姿を。
それが自分のせいだと知ったら? 計り知れない恐怖に、奈々はカチカチと歯を鳴らす。ああ、この場で従わなかったら、この子はどうなってしまうのか。脇で見ていた凛演じる秋生楓が、手を伸ばそうとして、その手を自分で押さえる。この場にいるのはみんな、彼女の消極的賛同者ばかりだ。なら、誰か、誰かが助けに入らないと。
「――も、もう、やめなよ、ひいらぎさん」
言葉。勇気ある一言。震える足を奮い立て、春風美奈帆が立ち上がる。すると柊リリィは奈々を解放し、奈々には一瞥もせずに美奈帆に向き直った。
「……ねぇ、ななちゃん」
「ひ、ぁ……?」
「みなほちゃんをたたいて。そうしたら、あなたはもういじめないよ」
「っ」
奈々の震える足が、逡巡する。美奈帆は自分を助けてくれた。でもそれ以上に、父親が害されることが苦しかったのだろう。
「ご、ごめ、ごめんなさい、ごめんね」
涙は止まらず、持ち上げられた手は青白く。それでも、ぎゅっと目を閉じた美奈帆に応えるように、奈々の小さな手は、美奈帆の頬を打つ。力なんて込められていない。音だって、蚊を潰すようなそれだ。
それでも、その行為を遂げたという事実は、あまりに重い。
「ふ、ふふふ」
その地獄の光景を生み出した本人は、かわいらしく笑みを浮かべている。心の底から楽しくて仕方がないというように。
「あっはははははははははははははははははははは!!」
声を上げて、笑った。
「――カット!」
区切りながら思う。確かに今、新人子役でしかなかった奈々は、あの世界に生きるいじめられっ子の少女だった。真に迫った演技だ。
本人でも引き出せないような本気の演技。もしかしたら、あのときの奈々という役柄の少女にとって、その世界は本物ですらあったのかもしれない。
(周囲もまた、名優に仕立て上げるのか?)
だとすれば、それは……オレたちの手に余るのではないか? そんな感情が、芽生えた。